第155話 呪縛を切り裂け!!
衝撃と轟音がぬるい大気を震わせた。
もうもうと立ち込める砂埃のなかから跳び上がったのは、蒼黒い孤影であった。
エリスは大型の猫科動物を彷彿させるしなやかな身のこなしで着地すると、
「……なんて、馬鹿力」
心底から忌々しげに吐き捨てた。
その言葉に応えるように、舞い上がった砂塵の奥で緑色の光芒がまたたく。
「そっちのほうこそ、すばしっこさは大したものね」
イセリアはゆっくりとエリスの前に進み出る。
戦場にあってなお悠揚迫らぬ足取りは、圧倒的な優位に立つ者だけに許された余裕のふるまいであった。
「だけど、逃げ回ってばかりじゃあたしには勝てないわよ。それとも、このまま降参する? あたしはそのほうがいいと思うけど――」
「……あまりいい気になるんじゃない」
言って、エリスは両手を胸の前で組み合わせる。
奇妙な構えであった。十指は複雑に絡み合い、両の拳はひとつの塊と化したかのよう。
一見すると、最大の武器である両手をみずから封じたようにもみえる。
「まだやるつもり? 言ったはずよ。お得意の手品はもう通じないわ」
「本当に通じないかどうか、その身で確かめるがいいさ」
「はあ?」
おもわず素っ頓狂な声を上げたイセリアにむかって、エリスは両手をずいと突き出す。
それから一秒が経ち、二秒が経っても、何も起こらない。
夜闇はどこまでも黒く深く、”
痺れを切らしたイセリアが攻撃に移ろうとしたそのときだった。
「なによ、これ……!!」
力強く一歩を踏み出そうとした右足は、決して地を離れようとはしなかった。
右足だけではない。全身が膠で固められたように硬直し、もはやイセリアの意思では指一本も動かすことは叶わない。
鋼鉄の騎士は身体の自由を奪われ、その場に佇立する一個の彫像と化したのだった。
「あんた……いったい……なにを……!!」
イセリアは必死に四肢を動かそうとするが、その努力もむなしく、身体は一向に動く気配もない。
先ほどのように不可視の糸によって束縛されたというのか?
そうではないことは、ほかならぬイセリア自身が一番よく分かっている。
身体の自由が利かなくなったと同時に、一切の感覚が失われている。ただ束縛されただけであれば、そのような状態に陥るはずはないのだ。
「勝ったつもりでいたようだけれど、残念だったね――」
エリスは勝ち誇ったように言うと、イセリアにむかって近づいていく。
そして、無骨な装甲に鎧われた顎を掴むと、頬と頬が触れそうな距離にまで引き寄せる。
「あんたの身体の中に私の糸を送り込んだ。つまり、あんたは私の意のままに動く操り人形になったということさ」
「バカ言ってんじゃ……」
「嘘だと思うなら、自力で抜け出してみるがいい。出来はしないだろうけれどね」
嘲るようなエリスの言葉に、イセリアは是が非でも身体を動かしてみせようとするが、どれほど足掻いても状況は変わらない。
「これで分かっただろう? 正真正銘、あんたは手も足も出ない……」
「まだ口は動くわよ。とんだ片手落ちね」
「声と目と耳を奪わなかったのはわざとだよ。私はカドライほど敵をいたぶる趣味はないけど、あんたの悔しがる声が聞きたいからさ。せいぜい、いい声でお啼きよ」
艶然と囁いて、エリスはイセリアの首筋を撫ぜる。
最初は愛撫するようであった手付きが、敵意に満ちた攻撃に変わるまでさほどの時間はかからなかった。
エリスの鋭い爪が分厚い装甲の隙間に食い込み、まだ残っていた痛覚をこれでもかと刺激する。
エリスの指先が体内に潜り込むたび、イセリアはくぐもった悲鳴を漏らす。
「この……っ!! さっさと離しなさいよ……っ!!」
「面白いことを言う――あんたは敵に離せと言われたら、素直に離してやるのか?」
「うるさいっ……!! あんた、ただじゃおかないわよ……!!」
「心配しなくても、すぐに終わりにしてあげる」
エリスの身体が音もなく離れていった。
それと入れ替わりにイセリアの喉元にあてがわれたのは、イセリア自身の右手であった。
鋏状の五指が喉首を包んでいく。ほんのすこし力を込めれば、刃はたやすく装甲に食い込んでいくだろう。
「いったい何をするつもり――」
「見て分からない? あんたの手であんたの首を切り落とすんだよ」
エリスはこともなげに言うと、大きく右手を掲げる。
「私の力ではあんたの装甲を破ることは出来ない。だから、あんた自身にやらせるのさ。その馬鹿力は自分の身体にも通じるだろう」
「あんたの思い通りになんかなるもんですか……」
「言ったはずだ。いまのあんたは、私の操り人形だとね――」
エリスの右手が閃いた。
ほとんど同時に、イセリアの右手に力がこもる。
鋭利な刃は徐々に黄褐色の装甲に沈み込み、ゆっくりとみずからの喉首を引き裂いていく。
「この……っ……!! あたしの手のくせに、言うこと聞きなさいよ……!!」
抵抗の甲斐なく、イセリアの右手は無情に主人の首を刎ね飛ばそうとしている。
頸部の最も深い部分に刃が触れたその瞬間だった。
「――――!!」
どさり――と、重い音を立てて、イセリアの足元に何かが落ちた。
鋏みたいな五指を備えたそれは、紛う方なきイセリアの右手首であった。
ほんの一瞬前までイセリアの首を斬り落としかかっていた右手は、切断面から黒い液体を吹き上げている。その飛沫はイセリアの顔を汚し、黄褐色の装甲に斑斑と染みを生じさせた。
「なぜだ!?」
叫んだのはエリスだ。
動揺しきった声音には、心底からの驚愕が表れている。
と、イセリアの背後からぬうと立ち上がったものがある。
闇に鎌首をもたげた二尾の大蛇とも、あるいは地の底から現れた二匹の竜とも見えたのは、イセリアの背から伸びた二本一対の長い尾であった。
二本の尾は節々をくねらせながら、イセリアの顔と同じ高さで停止する。
「ふう、間一髪だったわね」
「そんなはずはない……あんたの身体は、もう指一本だって動かせないはずだ!!」
「いまだって動かないわよ。あたしの身体は、ね」
イセリアは得意げに言うと、視線だけでエリスに向き直る。
「アレクシオスから聞いてるわ。――敵には、見えない糸で身体の自由を奪う
「保険だと……!?」
「そ。あたしの尻尾、結構優秀なのよね。もし身体を乗っ取られたときのために、あらかじめ尻尾の
呆然と見つめるエリスの目の前で、二本の尾は独立した生物みたいにうねる。
身動きの取れない主人に敵を近づけまいとする様子は、さながら忠実な守護獣のようでもある。
「もしあたしの身体が限度を超えて傷つけられたら、あたしの意思とは無関係にそいつを攻撃しろ――ってね!」
イセリアはなおも続ける。
「さっきもあんたの腕を落としてやるつもりで我慢してたんだけど、いいところで止めちゃうからがっかりよ。まさか自分の手首を切り落とすことになるとは思わなかったけど、背に腹は代えられないものね」
「なるほど……多少は驚かされたけど、あんたがそこから動けないのは同じだ。そのまま自分の尻尾に手足を喰われるがいい!!」
「どうかしらね? あんた、ちょっと詰めが甘かったわよ。あたしの手足を操っただけで安心してたのもそうだし、さっさと声と目を潰しておかなかったのもね」
「何を言って――」
先ほどとは打って変わって、イセリアの声には自信と余裕が満ち溢れている。
エリスの背筋を冷たいものが走ったのは、それが虚勢などではないと理解したためだ。
「この子たち、あたしの声でも動くのよ」
たとえば、こんなふうに……と、イセリアは、制御を離れた眷属に語りかける。
「あたしの身体の周りにあるものを切り刻みなさい!! 遠慮はいらないわ!!」
言い終わるが早いか、二本の尾は目にも留まらぬ疾さで乱舞する。
イセリアの尾は、鱗みたいに重なり合った装甲の淵ごとに鋭い刃を備えている。
吹きすさぶ刃の暴風は、イセリアの身体を巧妙に回避しながら、周囲の空間を薙ぎ払っていく。
エリスが十重二十重に張り巡らせた不可視の糸は、それと認識されることもなく瞬時に断ち切られたのだった。
すべての
ほとんど無意識の反射。それがエリスの生命を救うことになった。
身体の自由を取り戻したイセリアは、すかさずエリスめがけて飛びかかり、左手の爪を繰り出していた。
もし避けていなければ、エリスの細い身体は袈裟懸けに切り裂かれていたはずだ。
距離を隔ててなお凄まじい衝撃の余韻は、エリスの心胆を寒からしめるに十分だった。
「あら、怖気づいたのかしら? そうやって逃げてばかりじゃ勝負にならないわよ」
「バケモノめ――」
「それはお互い様でしょ!!」
イセリアは烈しく地面を蹴り、エリスに急迫する。
そのあいだも二本の尾はイセリアの周囲を旋回し、新たな糸の接近を警戒している。もしエリスがふたたびイセリアを操ろうとしても、その企ては決して成就することはない。
敵の手の内はすべて見きった。
いまの自分には、どこにも付け入る隙はないはずだ。
それでも、イセリアの胸中にはなおも一抹の不安が渦巻いている。
(さっさと勝負をつけたほうがよさそうね)
あまり時間をかけては、敵に反撃の機会を与えることにもなる。
イセリアは両脚に能うかぎりの力を込めると、ほんの一瞬、その場に立ち止まる。
予期せぬ好機が到来したと思ったのもつかの間、エリスの視界は黄褐色の装甲に覆われた。
イセリアはいったん溜め込んだ力を爆発的な突進力に変換し、一気にエリスに肉薄したのだ。
それを理解したときには、もはやエリスには身を躱すだけの余地も、反撃に転じるだけの時間も残されていなかった。
「もらったぁ――っ!!」
裂帛の気合とともにイセリアの左手が迸った。
爪先は音速を超え、
刹那、闇空に舞い散った紫色の結晶は、エリスの身体から剥離した装甲片だ。
イセリアは姿勢を立て直しながら、ちらと背後を振り向く。
「へえ……なかなかやるじゃない。それとも、往生際が悪いって言ったほうがいいかしら?」
エリスは蹌踉とした足取りで、しかし倒れることなくイセリアと対峙する。
美しくも壮絶な姿がそこにあった。
艷やかな紫の装甲は、体内から溢れ出した赤黒い液体の色に染め上げられている。
左脇腹から太腿にかけて無残な爪痕が刻まれ、動くたびに装甲の破片がぼろぼろと剥がれ落ちていく。
かろうじて致命傷は回避しているものの、十全の状態にはほど遠い。
イセリアと互角に戦えるはずもないことは自明であった。
「まだだ……私は、こんなところで死ぬ訳にはいかない」
「いい加減諦めたほうがいいわよ。その傷じゃもう戦えないことは、あんただって分かってるはずよ」
「あの人のために……そして、私自身のために……」
エリスはようようイセリアに向き直ると、血を吐くような声で叫ぶ。
「私は、この『
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