第154話 激進の戦乙女

 漆のような闇が一帯を包んでいた。

 市街地からさほど離れていないにもかかわらず、周囲には灯りひとつ見当たらない。

 いま、”トゥリスの丘”の北の斜面を上っていく影がある。

 栗色の髪の少女――イセリアは、ときおり背後を振り返りながら、危なげなく夜闇をかきわけて進んでいく。

 騎士のすぐれた視力は、咫尺を弁ぜぬ闇の只中にあっても、昼日中と変わらない視界を実現する。

 イセリアの目は、丘の頂上に佇む古代神殿をはっきりと視認していた。騎士たちの目的地であり、事前に打ち合わせた集合場所でもあるそこに辿り着くべく、少女はさらに速度を上げる。


 焦れたように先を急ぐのは、むろん理由のないことではない。

 ここまでの道中、イセリアは追手を撒くためにだいぶ遠回りをしている。

 上空からガレキアの市街地に降下した際、着地に失敗し、派手に民家を破壊したためだ。夜の静寂を破って轟いた凄まじい破壊音は反乱軍にたちどころに察知され、百人からの兵士たちに追い立てられる羽目に陥ったのだった。


(まったく、冗談じゃないっての!!)


 駆けながら、イセリアは心のなかで毒づく。

 結局、細い路地に身を潜め、暗渠化された用水路を進むことで、どうにか追手をやりすごすことが出来た。

 それでも、本来であれば不必要な遠回りをしたことには違いない。

 先行して降下したアレクシオスはもちろん、最後にガレキアに降り立ったエウフロシュネーとオルフェウスにも遅れを取っている可能性は否定出来ないのだ。

 もしオルフェウスが先に接敵していれば、作戦そのものが崩壊するおそれもある。

 短時間しか戦えないオルフェウスの体力を極力消耗させることなく、万全の状態でヘラクレイオスとの戦いに臨ませる。それこそが今回の作戦の要諦であり、勝利へと至る唯一の方法であった。


(あの子が切り札っていうのは気に入らないけど、今回ばかりは仕方ないわね――)


 直接戦ったことこそないが、イセリアもヘラクレイオスの強さは知悉している。

 仲間たちのなかでヘラクレイオスに対抗出来るのがオルフェウスだけであるということも、また。

 ヘラクレイオスを除く敵方の騎士は、ちょうど三騎。

 イセリアとアレクシオス、エウフロシュネーがそれぞれ一騎ずつ引き受ければ、オルフェウスは戦うことなく先へ進むことが出来る。

 オルフェウスのための捨て駒として使われるということに抵抗がなかった訳ではない。それでも、イセリアが一切の苦言を呈することなく命令に服したのは、オルフェウスが最も危険な敵と戦うことを理解していたからだ。

 もし自分がその大役を任されていたなら……考えるだけで、イセリアは肌が粟立つようだった。

 たとえ作戦通りヘラクレイオスのもとに辿り着けたとしても、生きて帰れる保証はどこにもない。生還の確率を言うなら、捨て駒であるはずのイセリアたちのほうがよほど高いはずだ。

 あまりにも重すぎる使命を従容と受け入れたオルフェウスを見て、イセリアもまた覚悟を決めたのだった。


 と、イセリアははたと足を止めた。

 周囲に人影はない。斜面には痩せた灌木が数本と、ふた抱えほどもある巨岩がいくつか散在しているだけだ。


「いいかげんに出てきたらどう? ――そこにいるのはお見通しよ」


 イセリアはなおも闇にむかって呼びかける。

 刹那、五メートルあまり飛び退ったのは、ほとんど反射的な動作であった。

 それから数秒と経たないうちに、どこからか奇妙な音が聞こえてきた。

 硬くなめらかな物体同士を擦り合わせれば、このような音が生じるだろうか。

 その正体はすぐに知れた。イセリアの近くの巨岩の上部が斜めにずれ、滑落していったのだ。

 一瞬のぞいた美しい切断面に、イセリアはおもわず目を見張っていた。完璧な切断は、断面と断面の摩擦をほとんど生じさせることなく、わずかな音だけを道連れに巨岩を断ち割ってみせたのだった。

 イセリアの背筋にぞくりと冷たいものが走る。

 もしあのとき、とっさに飛び退いていなければ、巨岩をやすやすと切り裂いた一撃は過たず自分を切り裂いていたはずだ。

 たとえ戎装が間に合ったとしても、無事で済むとは思えなかった。

 巨岩の向こうで何かが動いた。ほんの数秒前まで岩の上部があったはずの、その空間で。

 蒼茫たる闇は揺らぎ、やがて美しい女の外貌かたちに凝結した。

 浅葱色の長髪が夜闇にさらさらと流れる。

 そのまま数歩進んだところで、エリスはイセリアに視線を向けたまま、


「なかなか勘が鋭いじゃないか――」


 感嘆とも落胆ともつかない声音でぽつりと呟いた。


「でも、それがよかったかどうかは別よ。避けなければ、楽に死ねたのに」

「あいにくだけど、あんたに殺されてやるつもりはないわ」

「それは私が決めること……」


 言うが早いか、エリスはすでに戎装を終えていた。

 見目麗しい女の姿はもはやどこにも見当たらない。イセリアの前に立つのは、紫色の装甲をまとった異形の騎士であった。


「わざわざそっちから出向いてくれて助かるわ。その様子だと、まだ誰とも戦ってないみたいだし」

「……それがどうかした?」

「もちろん! 着いたときにはもう戦いが終わってました……なんて、あたしのメンツ丸潰れじゃない」


 イセリアは威勢よく言って、エリスを指さす。


「あんたの相手はこのあたしよ――覚悟は出来てるわね?」


 力強く言い放ったのと、指先が黄褐色の装甲に変じたのは、ほとんど同時だった。

 やがて、四肢も顔貌かおも、すべてが分厚い装甲に置き換えられたとき、イセリアもまた異形へと変じていた。

 生物のごとくうねる二本一対の長大な尾と、両手に形成された鋏状の爪。重厚な輪郭シルエットと相まって、並々ならぬ威圧感を放っている。

 紫と黄の戎装騎士ストラティオテスは、わずかな距離を隔てて対峙する。

 エリスの肩がわずかに上下した。声を押し殺しているものの、それはあきらかな哄笑であった。


「なにがおかしいのよ!?」

「あんたの言ったことがあんまりおかしかったからさ」

「自分が倒されるのがそんなに面白いの? だったら望みどおりに……」

「どうかしら――」


 エリスの指が空を切った。

 紫晶石アメシストを連ねたような五指は、闇中にあっていっそう輝きを増したようであった。


「あんたに私は倒せない」


 言って、エリスは指を一つひとつ折っていく。

 エリスの不可解な挙措を警戒し、しばらく様子を窺っていたイセリアだったが、いつまでもそうしている訳にもいかない。

 敵に先制攻撃を許せば、それだけ不利に追い込まれるのだ。

 一気呵成に飛びかかろうとして、イセリアは自分の手足が思うに任せないことに気づく。


「何よ、これ――」 

「言っただろう? もう勝負はついてる。あんたは私に触れることも出来ない」


 イセリアの手足を絡め取ったのは、エリスがひそかに張り巡らせた無数の糸であった。

 糸の直径はわずか数ナノミリ。実際に束縛するまで、その存在を気取られる心配はない。

 もがけばもがくほど、極細の糸はイセリアの装甲に食い込み、ますます身体の自由が失われていくようであった。


「この……っ!! 放しなさい!!」

「それは出来ないね。あんたはずっとこのままさ」


 エリスは残る指を折る。

 一本の指が折られるごとに、イセリアに加わる拘束はいっそう強くなっていくようであった。


「そう――生きているうちはね」


 ひとりごちるみたいなエリスの言葉に、イセリアはかろうじて自由に動かせる頭を上げる。


「それ、どういう意味よっ……!?」

「どうもこうもないわ。このままあんたの身体をバラバラに切り刻んであげる」

「ふざけんじゃ……ないわよ……っ!!」

「同情はするけれど、無駄なあがきはやめたほうがいい。暴れれば、それだけ苦しみが長引くことになる……」


 言いざま、エリスは最後の指を折る。

 それを合図として、イセリアをいましめていた糸は役割を変える――拘束から切断へと。

 エリスの糸は決して抜け出せない拘束具であると同時に、おそるべき処刑具でもあるのだ。


「……名前くらいは聞いておいたほうがよかったかしらね」


 糸から伝わる感触が徐々に変わりはじめた。

 エリスの指を通して高エネルギーを流し込まれた糸は、ほんのすこし力を込めただけで、巨岩をたやすく両断する威力を発揮する。

 それは対象が戎装騎士ストラティオテスの装甲であったとしても変わらない。

 不可視の糸はやがてイセリアの装甲を断ち切り、黄褐色の騎士を物言わぬ鉄塊へと変えるだろう。

 そのはずであった。


「……!!」


 エリスの身体がびくりと跳ねた。

 無貌の面を走り抜けていった光芒は、驚愕と動揺の表出にほかならない。

 イセリアの装甲を切り裂くはずだった糸は、三センチほど食い込んだところで、それきり動かなくなった。

 愕然とした様子のエリスにむかって、イセリアはふたたび顔を上げる。

 装甲に覆われた目鼻のない顔貌かおには、その一瞬、たしかに不敵な笑みが浮かんだようであった。


「あんた、もう勝った気になってたみたいだけど……」


 エリスの身体がと斜面を滑った。

 すこしずつイセリアの方に近づいていく。強大な力によって引き寄せられているのだ。


「あたしの頑丈さを甘く見ないでもらいたいわね」


 紫の装甲がふわりと闇空に浮かび上がった。

 むろん、エリス自身の意志ではない。不自然な姿勢は、力任せに持ち上げられたことを如実に物語っている。

 不可視の糸に身体中を束縛されたまま、イセリアはわずかに動く関節を最大限に躍動させている。軽量なエリスを振り回すには、それだけで事足りるのだ。

 イセリアの命運を断ち切るはずだった糸は、いまやエリスを地獄へ引きずり込む鎖と化したのだった。

 あざやかな攻防の逆転――。

 ほんの数秒前まで優位に立っていたエリスは、ほとんど顔色を失って振り回されるに任せている。


「なぜ……私の糸が通じない!?」

「さあね? そんなことより、自分の心配をしたほうがいいわよ!!」


 言うなり、イセリアの身体が円を描くように動いた。

 円運動によって生じたエネルギーを利用し、エリスをしたたかに地面に叩きつけようというのだ。

 次の瞬間、エリスの身体が高く舞い上がった。

 相変わらずの不自然な姿勢。それでも、先ほどまでとは異なり、両者の距離は急速に離れていく。

 紫の騎士はみずから糸を切断し、イセリアの圧倒的な膂力の支配から辛くも逃れたのだった。


「ふざけた真似をしてくれる……!!」


 身体をひねりながら着地したエリスは、忌々しげに吐き捨てる。

 イセリアの装甲が、硬質の表層と弾性に富んだ中層によって構成された複合装甲コンポジット・アーマーだとは、むろん知る由もない。

 ひたすら硬いだけの装甲であったなら、エリスの目論見どおり、イセリアの身体は原型を留めないほどに破壊されていたはずだ。

 事実、エリスの切断糸は表層を切り裂くことには成功したものの、やわらかな中層に受け止められ、まさしく進退窮まったのだった。

 硬さとやわらかさという、一見矛盾する要素を兼ね備えたイセリアの重装甲を断つことは、いかにエリスの糸でも不可能であった。


「あら――手品はもうおしまい? だったら、今度はこっちから行くわよ。身体じゅう傷だらけにしてくれたお礼はたっぷりしてあげないとね」


 エリスをまっすぐに見据えたまま、イセリアは一歩ずつ間合いを詰めていく。

 無骨な両脚がはげしく地を蹴った直後、すさまじい衝撃と轟音が澱んだ大気を震わせた。


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