第175話 エピローグⅡ―彼らのこと―(後編)

 夜の気配が近づいていた。

 大気が蒼味を増すにつれて、夕映えの色は少しずつ薄れていく。

 やがて日没とともにけなげな残照は消え失せ、世界は真の暗闇に閉ざされる。


 寄宿学校の中心に設けられた大講堂は、全校生徒と全学科の教師を収容してなお余りある広大な空間をほこる。

 学校の象徴ともいえるこの場所が、よもや彼らを監禁するために利用されることになるとは、この日まで誰も想像していなかっただろう。

 いにしえの大伽藍を思わせる豪奢な建築物も、冷気と闇の侵入を完全に遮断することは出来ない。火の気のうせた大講堂は暗く、ひえびえとした空気に満たされて、地上のどんな場所にも先んじて夜を迎えたようだった。


 百人あまりの生徒と教師は互いに身を寄せ合い、必死に空腹と寒さに耐えている。

 耐えたところで、生き延びられる保証はどこにもない。それはあまりに残酷な苦行であった。

 大講堂と外部との出入り口は、武器を手にした男たちによって厳重に封鎖されている。鉄火箭を持った者こそ見当たらないが、長剣や槍はより原始的な武器であるだけに、見る者の本能的な恐怖を喚起する。

 もし抵抗や脱走を企てれば、子供だろうと容赦なく殺害されるはずだった。


 ふいに壇上に白い影が揺らいだ。


「教師と生徒の皆さん――」


 薄闇のなかに茫と浮かんだ白いローブは、この世ならぬものの出現を思わせた。

 地獄からさまよいでた死人しびとのごとく。地上に降りた神霊のごとく。

 黄昏時という幽冥の境にあって、その奇怪な出で立ちは、大講堂そのものを異界へと変えるだけの力を発揮する。


「『帝国』はあなたがたを見捨てました。約束の刻限が迫っているにもかかわらず一向に身代金は支払われず、我々の同志が解放されることもありません。いいえ、すべては最初から分かりきっていたことです」


 時に熱っぽくかき口説くように、時に冷たく突き放すように。

 恐怖と不安のなかにある人質にむかって、白衣の怪人はなおも語り続ける。


「さぞ恐怖を感じていることでしょう。しかし、自分の運命を悲しんではなりません。あなたがたは選ばれたのです。この穢れきった地上に神の王国を築くため、歓んでその生命を捧げていただきたい。我々”革命の後継者”……いいえ、われわれ真なるゼーロータイのために!!」


 演説が最高潮に達しようかというときだった。


 大講堂の東西南北に設けられた出入り口の扉が吹き飛んだのは、ほとんど同時だった。

 室内にが猛然と飛び込んできたことに気づいた者は、はたしてどれほどいたのか。

 出入り口を見張っていた男たちは、叫び声を上げる間もなく打ち倒され、武器を手にしたまま倒れていく。

 戦いは目をしばたたかせるあいだに決着した。人質には一人の負傷者も出ていないことは、あえて言うまでもない。


「き、貴様は……貴様らは……」


 狼狽しきった声を上げたローブ姿の前で、五色ごしきの光芒が明滅する。


「いい加減に観念することだ。外にいた連中はすべて片付けた。残るはおまえだけだ」


 薄闇に赤光の尾を引きながら、アレクシオスは一気に壇上へと飛び移る。


「バカな……私の邪魔をするつもりか……!!」

「おとなしく投降しろ。そうすれば、生命だけは助けてやる。おまえには訊きたいことが山ほどあるからな」

「ふざけるな!! 私はナギド・ミシュメレトだぞ!!」

「……奴はもう死んでいる。おまえはしょせん紛いものでしかない」

「だまれぇッ!!」


 狂気に満ちた叫びが上がったかと思うと、白いローブがふわりと宙に舞い上がった。


「……!!」


 ローブの下から現れた顔は、聖域アジールで出会ったゼーロータイの司教にほかならなかった。

 かつて家族に手紙を書いただけの娘の腕を切り落とそうとした冷酷な男は、ナギド・ミシュメレトの名と姿を騙り、真のゼーロータイと称して寄宿学校を占拠する凶行に及んだのだ。


 アレクシオスが驚愕したのは、そのためだけではない。

 司教の身体からは無数の紐状のものが垂れ下がり、その末端は壇上から大講堂の隅々まで広がっている。 

 騎士のすぐれた視覚器センサーは、その一本一本が無色透明の粘液ジェルをまとっていることを即座に看破した。


「ここまでだ、戎装騎士ストラティオテス。なぜ私が見張りの者に鉄火箭を持たせなかったか分かるか?」

「この期に及んでいったい何をするつもりだ」

「”東方の燼火じんか”だ。名前くらいは聞いたことくらいはあるだろう」


 ”東方の燼火”――それは、古帝国が東西に分裂したのち、大陸東方で実用化された液体火薬の別名である。

 大気中でも揮発することはなく、ひとたび火気に触れれば、数時間に渡って燃焼する。水分との反応によっていっそう烈しく燃え上がる性質を持つため、水による消化も望めず、海軍の船団が乗員ごと焼き尽くされたという凄惨な事故の記録も今日に伝わっている。

 いったん火がつけば対象が完全に灰燼に帰すまで燃え続けることから、いつしか”東方の燼火”と呼ばれるようになったのだった。

 その製法や原材料は秘伝中の秘伝とされ、戎装騎士と並ぶ『帝国』の最高機密に属する。

 そのようなものがゼーロータイの残党の手に渡ったとは、にわかには信じがたい。根拠のない脅しであるという可能性も十分に考えられる。

 だが、もし本当に”東方の燼火”であるなら、恐るべき被害が生じるはずだった。

 なにがきっかけとなって引火するか分からない以上、力ずくで止めることも出来ない。


「これを使ったところで、貴様らバケモノを殺せるとは限らない。だが、ここにいる人間は骨も残らないだろうなあ?」

「そんなことをすれば、おまえも死ぬことになるぞ」

「それがどうした? 私はナギド・ミシュメレトだ。私はつねに神とともにある。すでに永遠の生命を手にしているも同然だ」


 司教の面上に浮かぶのは、意外にも穏やかな微笑みだった。

 狂気の果てにあるのは、あるいは究極の平穏であるのかもしれなかった。


「ナギド・ミシュメレトは死ぬことで完成する。私はかならずや神の王国へと至るだろう」


 司教は袖の内側から燐寸マッチを取り出すと、指の腹で着火させる。

 その全身が青白い燐光に包まれるまで一秒たらず。

 猛火は大講堂の隅々まで張り巡らされた紐をたどり、たちまちに一帯を焦熱地獄へと変えるはずだった。

 この場にいる戎装騎士ストラティオテスには、もはやどうすることも出来ない。


 そうだ――には。


 炎が上がるかという瞬間、アレクシオスは無意識にその名を叫んでいた。

 この世で最も強く、最も美しいその名を。


 業火に包まれゆく視界のなかで、アレクシオスはたしかにそれを視た。

 どんな炎よりもあざやかに澄みきった、凍てついた炎の真紅いろを。


***


 西の空を柔らかな光が照らしていた。

 雲間を染める陽光の名残りも、あとわずかで消え失せる。

 日没――犯人が指定した刻限リミットを迎えた寄宿学校は、何事もなかったみたいに夕映えの中に佇んでいる。

 事件の舞台となった学び舎は、しばらくのあいだ休校を余儀なくされるだろう。

 それでも、いずれ元通りの日常が戻ってくるはずだった。


 刻限リミットが迫るなか、中央軍の精鋭が防塞バリケードを突破して踏み込み、校内の各所で犯行グループを制圧。大講堂に囚われていた百名あまりの教師と生徒は、全員が無事に救出された……。

 表向きは、そのような筋書きになっている。

 『帝国』史上稀に見る奇跡的な救出劇であるとして、中央軍はみずからの権威発揚のために今回の戦果を大いに喧伝するにちがいない。


 兵士たちが踏み入ったときには、すでに犯人たちは一人残らず無力化され、人質の安全も確保されていたとは、ごくわずかな関係者だけが知り得ることであった。事件解決の瞬間まで、はついに起こらなかったのだ。

 人質になっていた教師と生徒たちには厳しい箝口令が敷かれ、今回の一件の真相がおおやけになることはない。

 『帝国』の正規軍が光であるなら、戎装騎士ストラティオテスはあくまで影である。どれほど赫赫かっかくたる功績を上げようとも、その名が歴史に刻まれることは決してない。


 だが、記録を残すことは許されなくても、あの場にいた生徒たちは終生忘れることはないはずだ。

 幼い日、異形の騎士たちによって生命を救われたことを。

 彼らが生きながらえたそのことが、騎士たちが存在したなによりの証であった。



「みなさん、ご苦労さまでした――」


 騎士たちが臨時指揮所が置かれている公会堂に戻ってきたのは、すっかり日が暮れたあとだった。

 一行を出迎えたヴィサリオンに、アレクシオスはいかにもばつが悪そうに頬を掻く。


「今回もあいつに助けられたよ。おれたちだけでは人質は助けられなかっただろう」

「そんなことはありませんよ。全員で力を合わせたからこそ、一人の犠牲も出すことなく事件を解決することが出来たのです。あなたたちもオルフェウスもよく頑張ってくれました」

「……おまえがそう言うのなら、そういうことにしておくか」


 あの瞬間、司教の手によって火種を得た”東方の燼火”は、たちまちに猛烈な炎を噴き上げた。

 それはまぎれもない事実だ。

 だが、周囲のすべてを燃やし尽くすまで決して鎮まることのないはずの業火は、一秒後には嘘みたいに消え失せていた。

 オルフェウスが消し止めたのだ。

 消し止めたというよりは、消し去ったというほうが適切かもしれない。

 炎それ自体は実体を持たない化学反応だが、ごくわずかな質量は存在している。

 それは取りも直さず、オルフェウスの”破断の掌”によって破壊しうるということを意味している。

 加速能力を用いて公会堂の屋根から大講堂までの距離を一瞬に駆け抜けた真紅の騎士は、”破断の掌”を作動させることで、周囲の酸素ごと炎を消滅させたのだった。

 いかに”東方の燼火”といえども、真空中ではもはや燃焼を継続することは不可能であった。

 もしあと数秒でも遅れていれば、消えることのない炎は大講堂を包み込み、人質は決して助からなかったはずだ。


 それ以上に驚くべきは、司教が一命を取り留めたことだった。

 全身に熱傷やけどを負ってはいるものの、炎に触れていた時間がきわめて短かったこともあり、皮膚を焼くだけに留まったのだった。

 立て籠もり事件を引き起こした犯行グループは、言うなれば反乱軍残党の寄せ集めとも言うべき集団だった。末端のメンバーの大半は、身代金の分け前に目がくらんだ犯罪者やならず者によって占められており、どれほど尋問を繰り返しても有益な情報は得られそうにない。

 今回の事件を画策した張本人であり、ゼーロータイの関係者でもある司教を生け捕りにしたことは、『帝国』にとっては貴重な収穫といえた。


「ところで、そっちも何か分かったのか」

「やはり雑役夫の男も犯人たちの一味でした。彼だけがたまたま学校の外に出ていたのも、不可解な行動で事件の発覚を遅らせたのも、すべては最初から仕組まれていたことだったのです。その前から今日のために寄宿学校についてのさまざまな情報を提供していたと考えるべきでしょう」

「なるほどな。それにしても、こんなところにまで反乱軍のシンパが入り込んでいるとは盲点だった」

「いえ――雑役夫の男は西方人でした。伝統のある名門校ともなれば、雑役夫も東方人よりは西方人を採りたがるものですからね」

「しかし、なぜ西方人の男が反乱軍に手を貸すような真似を……」

「中央軍の取り調べに対しては、皇帝陛下の政策が気に食わなかったと言っているそうです。お膝元である帝都で事件を起こすことで、陛下の面目を潰してやりたかったと……」


 ヴィサリオンはそこで言葉を切ると、疲れたようにため息をついた。

 心中では東方人を憎んでいた雑役夫の男にとって、東方人の凶行はまさに渡りに舟であったはずだ。ルシウス帝の融和的政策が誤りであったことが証明されるだけでなく、ふたたび東方人に弾圧を加える口実にもなる。

 一人の男の歪んだ心が、これほどの大事件を呼び寄せたと言っても過言ではない。

 そして、人口百万になんなんとする帝都において、同様の考えを抱いている者は一人だけではないはずだった。


「今回は無事に解決しましたが、これからも同様の事件は起こるかもしれません」

「そのときは、またおれたちが止めるまでだ」


 言って、アレクシオスはふっと口元を緩める。


「おれたちは戎装騎士ストラティオテスだ。人間と、人間の世界を守るために戦う。たとえ相手が誰だろうとそれは変わらない。いままでも、これからもな」

「アレクシオス――」

「さあ、おれたちも帰るぞ。おまえも早く休んだほうがいい。おれたちと違って無理が利かないんだからな」


 言い終わるが早いか、アレクシオスは青年の背中を力強く押していた。


***


「なによ、またあたしたちだけ置いてけぼり?」


 遠ざかっていくアレクシオスとヴィサリオンの背中を恨めしげに見送って、イセリアはふんと鼻を鳴らす。

 そして、そのまま横目でオルフェウスを見やると、


「ていうか、アレクシオスも言ってたけど、あんたってばいつも美味しいとこ持ってくわよね」

「ごめんね、イセリア――」

「べつに謝ってほしい訳じゃないわよ。むしろ、あたしたちとしては感謝するのがスジっていうか……」


 口ごもるイセリアの脇腹を、エウフロシュネーが肘で小突いてみせる。


「お姉ちゃん、本当に素直じゃないよね? ありがとうって言えばいいのにさ」

「うっさいわね。あんたみたいなお子ちゃまには分かんないでしょうけど、大人の世界は複雑なのよ」

「そうなの?」

「そうなの!! ほら、あんたは双子あいつらを連れて先に行きなさい! 何人もぞろぞろ群れて帰るなんて冗談じゃないわ。カルガモの親子じゃあるまいし」


 イセリアに言われるがまま、エウフロシュネーはラケルとレヴィの手を引いて歩き出す。


「じゃあ先に行くね、お姉ちゃん! 喧嘩しちゃ駄目だよ?」

「そうだ。勝ち目のない喧嘩はしないほうが利巧だぞ、お嬢様」

「私とラケルの見立てによれば、胸の大きさと腕力以外ではオルフェウスに勝てそうな部分はなにひとつ――」

「あんたたち、次に何か言ったらそれが遺言になるわよ?」


 イセリアは脱兎のごとく駆け出した三人の少女を一瞥したあと、


「……そういえば、さ」


 あらためてオルフェウスに向き直った。


「あたし、あんたにひとつ訊きたいことがあったのよね。いろいろあっていままで先延ばしにしてきたけど、いい機会だから今日はとことん付き合ってもらうわよ」

「……なに?」

「ガレキアで戦ってたとき、あんた、たしかに言ったわよね。『私もアレクシオスのことが好き』――って」

「うん」


 亜麻色の髪の少女は、例のごとく抑揚に乏しい声で答える。

 分かりきっていたこととはいえ、イセリアとしては肩透かしを食らった感は否めない。

 オルフェウスは恥じらいも逡巡もなく、あくまで自然にイセリアの問いに肯んじてみせたのだった。


「……あんた、それどういう意味か分かってるの?」

「意味?」

「だからそれは、つまり、なんていうか……――」


 次に口にすべき言葉を探しあぐねているイセリアを見かねたのか、オルフェウスは自分から一歩を踏み出す。


「私はイセリアのことも好きだよ」

「はあ!?」

「アレクシオスと同じくらい、好き」


 イセリアの視線は宙に泳ぎ、唇は何かを言おうとして虚しく開閉を繰り返す。

 とっさに顔を背けたのは、一面に朱を注がれたような顔を見られまいとしたためだ。

 ようやく言葉らしい言葉を紡ぐことが出来たのは、ひとしきり呼吸を整えたあとだった。


「あんたさあ、あんまり軽々しくそういうこと言うんじゃないわよ」

「言わないよ。好きな人にしか――」

「それが軽々しいって言ってんの!! あんたみたいなのに好きだなんて言われたら、男じゃなくても変な気分になるでしょ!! そういう無自覚なとこ、ホントむかつくわ!!」

「ごめんね……」

「べつに謝んなくていいわよ。その……あたしだって嫌なわけじゃないし……」


 イセリアは駆け出そうとして、数歩進んだところではたと足を止める。

 そして、上半身だけで振り返ると、ぼんやりと立ち尽くしたままのオルフェウスをまっすぐに見据えて言った。


「なにボーッとしてんのよ? あんたも早く来なさい。せっかく二人きりなんだし、帰りに何かおごったげる」

「いいの? イセリア?」

「今日はあたしもしたし、頑張ったあんたにも少しはご褒美あげなきゃ不公平でしょ」


 オルフェウスは数秒イセリアの顔を見つめたあと、こくりと頷いた。

 身を切るような寒風も、いまだけは不思議と和らいでいる。

 昼の緊張が嘘であったかのように、眠らない都市まちは長い夜を迎えようとしている。

 二人の少女の後ろ姿は、付かず離れずの距離を保ったまま、街灯りのなかに溶けていく。

 それは平凡で特別な、或る冬の日のことだった。


【第四章 完】

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