特別編Ⅱ~戎装騎士外典~

白銀(しろがね)の獅子

第176話 プロローグ ―北方の貴公子―

 激しい吹雪が窓を叩いていた。

 北部辺境最大の都市・ヒュペルポリスの郊外――。

 小高い丘の上に、市街地を睥睨するようにそびえる豪壮な城館がある。

 いま、その最上階の一室で、ひとりの青年が食い入るように書状に眼を走らせている。

 歳の頃は、三十歳を迎えたかというところ。

 輝く金色の巻き毛と、冷たく澄んだ青い瞳が目を引く。いずれも典型的かつ理想的な西方人の特徴であった。

 暖炉の火があかあかと燃えているにもかかわらず、あらゆるものが寒々しい印象を帯びた室内にあって、貝紫色の長衣はひときわ冷たい色彩を放っている。

 『帝国』において、貝紫色は緋紫色の次に高貴な色とされている。

 言うまでもなく、緋紫はこの世界でただひとり皇帝だけが用いることを許された色である。


皇帝アウグストゥスはいよいよ狂ったか――」


 机の上に広げた書状を睨めつけながら、青年は吐き捨てるように呟いた。

 黄金の長髪を指に絡め、いかにも苦々しげにため息をつく。

 なまじすぐれた容貌を持っていると、怒りや憎しみといった負の感情も強く顕れるらしい。いま青年の面上を占めているのは、そんな形相だった。


「西方人の誇りを忘れたか? いまいましい出戻りのアエミリウスめ。東方人ごとき劣等人種を本気で我らと同等の立場に引き上げようとは!!」


 重々しい音を立てて扉が開いたのはそのときだった。

 うやうやしく一礼して部屋に入ってきたのは、精悍な面貌の男性であった。

 まだ四十にはなっていまい。あらゆる光を吸い込むような黒一色の軍服が、顔と手首の不気味なほどの青白さをいっそう引き立たせている。

 毛一筋の乱れもなくぴったりとなでつけられた濡羽色の短髪は、実直だが神経質な性格を伺わせた。


「……ジェルベール、来たか」

「お召しにより参上致しました。エルゼリウス閣下」


 ジェルベールと呼ばれた男は、青年――エルゼリウスの前に進み出ると、丁重に跪拝の礼を取る。


「わざわざ副司令官の貴様を城まで呼び出したのは他でもない。これを読んでみろ」

「これは……」

「『北部辺境における勅令の徹底ならびに東方人への公正な評価を命じる』――よくも恥ずかしげもなく、こんな戯れ文を送りつけてきたものよ。それも、官吏上がりの州牧しゅうぼくどもならいざしらず、北方軍管区の総帥たるこの私に直接とはな」


 まるで汚いものを遠ざけるみたいに、エルゼリウスは皇帝から届いた書状を指で弾く。


「ルシウス・アエミリウスは過去最悪の暴君だ。我らの血の誇りを踏みにじり、東方人に媚びを売って平然としている。このような男が栄光ある『帝国インペリウム』の玉座にあるとは、歴代の皇帝もさぞ悲しまれようぞ」


 エルゼリウスの言葉には心底からの軽蔑と怒りが漲っている。

 腹心として長年仕えてきたジェルベールも、主君がこれほど露骨に皇帝への敵意をむき出しにするところはついぞ見たことがない。

 今日まで鬱積してきた不満はいよいよ限界を超え、さまざまな負の感情が堰を切ったようにあふれ出しているのだ。


 ルシウス帝が皇帝大詔令エディクトゥム・インペラトルを発布してから、すでに半年あまり――。

 東方人に対する差別的待遇の改善と、将来的な平等実現への努力を明記した異例の詔勅は、『帝国』全土に激震をもたらした。

 それも当然だ。

 支配する側の西方人と、支配される側の東方人という構図は、とりもなおさず『帝国』の国家運営の根幹にほかならない。

 全人口においてわずか一割にも満たない西方人が、残る九割を効率的に統治するために、千年の長きに渡って綿々と築き上げられてきたシステム。

 諸民族の尊厳を重んずるという建国の精神に逆らうそれは、高邁な理想を放棄することと引き換えに、いびつな多民族国家を今日まで生き永らえさせてきた。

 そんな『帝国』の屋台骨を破壊するに等しい政策が、最高権力者である皇帝自身の意志によって打ち出されたのである。たとえ本来の方針への回帰だとしても、既存の価値観を否定することは、にほかならない。


 ルシウス帝の詔勅は、西方人と東方人のどちらにも衝撃をもって迎えられたが、目下のところ、西方人への影響のほうがはるかにおおきい。

 自分たちを特権階級たらしめてきた根拠が崩れ去ろうとしていることは、辺境の西方人にとってまさしく死活問題なのだ。

 皇帝とおなじ血が流れているとはいえ、しょせん西方人は少数民族マイノリティである。自分たちの繁栄が砂上の楼閣にすぎないことは、ほかならぬ彼ら自身が誰よりもよく理解している。

 東方人による未曾有の大反乱が鎮圧された後も、昔日の支配者たちに安寧が訪れることはなく、ただみずからの行く末を案じて戦々恐々とするばかりだった。


 むろん、すべての西方人が唯々諾々と皇帝の方針を受け入れた訳ではない。

 若くして北方軍管区の全権を預かるエルゼリウスは、当初から大詔令に背いてきたひとりだった。

 辺境軍の賞罰では相変わらず西方人だけを優遇し、東方人の昇進を頑なに拒み続けた。

 さらに官吏登用試験の合格者の大多数を東方人が占めたと聞けば、落第したはずの受験生に下駄を履かせ、西方人の地方官界における優位を維持しようとした。官吏の採用については軍司令官であるエルゼリウスの職域ではないが、軍事力を背景に横車を押したのである。

 中央の方針をないがしろにする北方軍管区の悪評は、いつからか帝都にまで届きはじめた。

 北方辺境はかつて戎狄バルバロイとの主戦場となった地域でもあり、その防衛を担う北方軍管区は、戦役が終わった現在でも重要な地歩を占めている。

 軍司令官が管轄する部隊は複数の州にまたがり、こと武力の行使に関しては、せいぜい一州を預かるにすぎない州牧をはるかに凌いでいるのだ。

 そのような立場にある人間が表立って皇帝に逆らうようでは、本来の任務にも支障をきたしかねない。

 あくまで反抗的なエルゼリウスの態度を改めさせるために、皇帝ルシウスはみずから筆を執り、厳重なを行った。

 むろん実際にはそのような生やさしいものではなく、皇帝から臣下への最後通牒と言うべきものだ。

 ともかく、その書状が、今朝がたヒュペルポリスに届いたのである。

 

「今さら平等と融和を唱えるなど、奴はいにしえの興祖皇帝にでもなったつもりか? たかが東方人ごときの擾乱じょうらんに恐れをなして社稷の土台をゆるがせにするとは、呆れ果てて物も言えぬ。このままあの男を野放しにしておけば、遠からず我が『帝国』は滅びる――」


 エルゼリウスは腹立たしげに言って、執務机に拳を叩きつける。

 がつん、と痛々しい音が響いた。

 思いのほか勢いがついていたのか、あるいは机の材質が硬すぎたのか。

 ひりひりと痛む拳を庇いながら、エルゼリウスはごほんと咳払いをひとつ。


「デキムス翁も不甲斐ない。あれほど溺愛していたエンリクス皇子をおきながら、この上ルシウスの専横を許すとは……」

「元老院と各省庁の主だった面々は、揃って職を辞されたと聞いております。皇帝じきじきに人事再編に乗り出したと――」

「どんな手を使ったか知らないが、ルシウスはまんまと反対派を一掃してのけたということだ。いまの中央には、皇帝の暴走を止められる気骨のある者はひとりも残っておるまい。宮廷は暗君におもねる佞臣ねいしんどもの手に落ちたのだ」


 エルゼリウスは片手を顔に当てつつ天を仰ぎ、長嘆息してみせる。

 いかにも芝居がかった大仰な仕草は、そのとおり、数日前に鑑賞した古帝国時代の悲劇に影響されたものだ。

 舞台の外ではいささか滑稽だが、いかにも貴公子然としたこの美青年が行えば、それなりににはなる。


「天下の風向きをどう見る、ジェルベール」

「閣下と同じように皇帝への不満を抱いている人間は少なくないはずです。皇帝は我ら西方人の誇りをあまりにも軽く見すぎています」

「好機か?」

「それは、御身のお覚悟次第にて……」

「いまさらこの私に覚悟を問うなど、我が右腕らしくもないことを言う。それに、たとえ行状を改めたとしても、皇帝は遠からず私を更迭するはずだ。兵の指揮権を取り上げられては、もはや万事休す。いまが反撃に転じる最後の機会であろうよ」


 頬に片手を当てたまま、エルゼリウスはちらとジェルベールを見やる。

 冬の海を彷彿させる青い瞳には、その色とは真逆の野心の炎が燃えている。


「どうせ皇帝が私を罷免するつもりなら、こちらから都入りするまでだ」

「皇帝と一戦交えるおつもりですか?」

「アエミリウス朝の祖であるクラウディウス帝もそうして成り上がったのだ。我が先祖から帝位を奪い取った手口を逆になぞってやるだけのこと……」


 先ほどまでとは打って変わって、エルゼリウスの声はほとんど囁くような声で言った。

 無理もない。もし第三者がこの会話を帝都に密告すれば、それだけで二人とも首と胴が離れることになるのだから。

 皇帝への反逆は、『帝国』の法において最も重い罪とされている。

 失敗すれば首魁しゅかいが極刑に処されるだけにとどまらず、一族郎党にまで累が及ぶのである。


「しかし、問題もございます」

「なんだ? 遠慮なく申してみるがよい」

「皇帝子飼いの戎装騎士ストラティオテス――かの者たちは、いずれも一騎当千の力を持っているとのこと。先の東方人の反乱の裏でも、皇帝の命を受けて暗躍していたと聞いております」

「例の鉄の怪物どもか……」

「あれらが皇帝を守護しているかぎり、迂闊に手出しは出来ませぬ」


 眉間に皺を寄せたジェルベールとは対照的に、エルゼリウスの表情にはわずかな陰も差していない。


「なんの――案ずることはない。皇帝を守る騎士ストラティオテスが問題なら、こちらも騎士ストラティオテスを用意すればよいだけのことだ。怪物の手を借りるのは不本意だが、いまは手段を選んでいる場合ではない」

「しかし、そのようなことがはたして可能でしょうか?」

「怪物どもを手駒に加える程度、どうとでもしてみせる。ジェルベールよ、この私を誰だと思っているのだ?」


 エルゼリウスはジェルベールに人差し指を突きつけながら、にやりと相好を崩してみせる。

 ひどく子供じみているのに、見る者の背筋を凍らせずにおかない。若き野心家の顔に浮かんだのは、そんな鬼気迫る笑みであった。

 主君の放つ気迫に圧倒されたように、ジェルベールは無意識に後じさっていた。


「我はエルゼリウス・ルクレティウス・アグリッパなるぞ。偉大なるルクレティウス朝の末裔アグリッパ家の当主であるこの私に、不可能などあるものか!!」


 窓の外に目を向ければ、吹雪はますます激しさを増している。

 白一色に塗られた世界に、エルゼリウスの高笑いだけがいつまでも反響こだましていた。

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