第177話 彼女たちの午後
この季節には珍しく、朝から晴れた日であった。
骨まで凍てつくような真冬の寒さも、こころなしかやわらいでいる。
帝都イストザント――。
『帝国』の首都にして、世界最大の人口を誇る巨大都市。
そびえたつ城壁の内部には、百万人になんなんとする人々がひしめき合い、忙しな
い日常を送っている。
まるで賽の目みたいに城内を縦横に走る大小の通りは、そのひとつひとつが特色を備えていることでも知られている。
さまざまな店が立ち並ぶ商店街や職人街、宿屋や飲食店がずらりと軒を連ねる飲食街もあれば、夜通し灯りの絶えないいかがわしい歓楽街もある。
帝都の大城門の近くにある、茶楼ばかりが集まった通りもそのひとつだ。
そこからさらに一本入った細い路地に、”九十九羽の雌鳥亭”はひっそりと佇んでいる。
珍妙な店名の意味するところはさておき、かつてはさる大貴族の専属料理人だったという店主が腕を振るうここは、知る人ぞ知る名店として知られている。
田舎からやってきたおのぼりさんの御一行が有名だがそれほど美味くもない店に行列するのを尻目に、こうした地味だが味のいい店に通うのが、帝都っ子のたしなみとされているのだ。
ただでさえ目立たない立地ということもあり、昼飯時をとうに過ぎた店内は閑散としている。老齢の店主は厨房に引っ込み、黙々と夜の仕込みに取り掛かっているところだった。
それでも、店内にまったく客がいないという訳ではない。
狭い階段を上がった先にある二階は、すこしまえから貸し切りになっている。
いま、縦長の開き窓に面した小ぶりな
ひとりは栗色の髪の東方人。
そして――もうひとりは、亜麻色の髪の西方人であった。
息を呑むほどに美しい。この世ならぬ美とは、まさしくこのことを言うのだろう。
どこか人形めいてみえるほどに整った目鼻立ち。
乳白色の肌は、白磁の澄んだ冷たさを湛えながら、内側から光り輝くようでもあった。
同性であってもおもわず目を奪われ、時を忘れて陶然とせずにはいられない美貌が目と鼻の先にあっても、栗色の髪の少女は動じる様子もない。
べつに極端に審美眼が欠如している訳ではない。たんに見慣れているというだけのことだ。何事にも耐性はつくのである。
卓上には二組の
一見すると優雅な午後のひとときのようにもみえるが、二人のまとう雰囲気は、そうでないことを無言のうちに物語っていた。
「あんた、今日こそははっきりさせてもらうわよ!!」
言うなり、イセリアはずいと
豊かな胸の膨らみが手前に置かれた
猛獣でさえ逃げ出しそうなその剣幕も、効果を発揮するかどうかは相手による。
オルフェウスは、例によって玲瓏たる無表情を保ったまま、きょとんとイセリアを見つめている。
「はっきりって、なにを……?」
「とぼけてんじゃないわよ。あんた誘ってここに来た理由、分かってるんでしょ」
「いっしょにお茶が飲みたかったから――」
「ちがう!!」
イセリアはぶんぶんと首を横に振る。
「何が悲しくて、せっかくのお休みに女二人でお茶しなきゃいけないワケ!?」
「私は楽しいよ」
「あんたはよくても、あたしはよくないのっ!!」
イセリアはひとしきり溜息を吐いてから、ちらと片目でオルフェウスを見やる。
「……アレクシオスのことよ」
「アレクシオスが、どうかした?」
「今日こそあんたがアレクシオスのことをどう思ってるのか、はっきり答えてもらおうと思ったの」
「私は――」
「言っとくけど、『イセリアと同じくらい好き』とか『みんな好きだよ』とか言ったら承知しないわよ。あたしが聞きたいのはそういうことじゃないの!!」
「そういうことじゃないって、どういうこと?」
「だから……それはつまり、男として好きっていうか……」
「ただ好きなのと、男として好きなのは、違うの?」
好き――言葉にしてみれば至極単純なこの気持ちを、はたしてどう説明したらいいものか。
イセリアは自分のほうが混乱しそうになっていることに気づいて、はっと自分の頬を打つ。
この娘のペースに乗せられてはならない。ようやく訪れた貴重な休暇の、限りある時間を、空虚で他愛ないおしゃべりに費やすつもりはないのだから。
今日こそは白黒つけてやる。ついでに前から食べたなかったお菓子も堪能する。そんな覚悟で臨んだこの席であった。
「だからそれはその……恋人同士になりたいとか、そういうことよ」
「いまのままでいるのと何が違うのか、私にはよく分からない」
「ちょっと、あんた。それ、あたしに説明させる気? 男と女の関係っていうのは要するに……」
言いさして、イセリアはごほんと咳払いをする。
いくら二人だけとはいえ、冷静になってみれば恥ずかしさが先に立つ。
イセリア自身、聞きかじっただけの耳年増にすぎないとなればなおさらだった。
「……あとでいい本貸してあげる。それで勉強しなさい」
ここでいう本とは、俗に言う
四百年ほど前に活版印刷術が確立されてからというもの、『帝国』では膨大な数の書物が発行され続けている。皇帝と国家体制への批判はご法度だが、そこに触れさえしなければ、きわどい内容でも咎められることはない。
男女、あるいは同性同士の情交を描いた猥書は庶民にとくに人気のあるジャンルであり、帝都では毎週のように新作が発売されている。
なかでもイセリアの一番のお気に入りは、美形の若旦那セイモンティウスと、彼の愛人たちが繰り広げる淫靡で退廃的な日常を綴った小説だ。つい先日も遠く離れた街区の
教科書としてはいささか刺激が強すぎるのは承知しているが、それでも、男女の色恋の手引きとしては有用なはずだった。
「分かりやすく言うと、仲間とか友達よりもっとずっと深い関係っていうか……」
「なりたいと思えば、なれるの?」
「そりゃ、あんたみたいなのに言い寄られたら誰だって――って、ちょっと待ちなさいよ!! あんた、もしかしてなりたいの!? アレクシオスと!? 男と女の関係に!?」
「言ってみただけだよ」
悪気もなく答えたオルフェウスに、イセリアは顔をひきつらせながら
懸命に平静を装ってはいるものの、指は小刻みに震え、口をつけているにもかかわらず中身は一向に減っていない。
イセリアはぴくぴくと痙攣する片眉を釣り上げ、オルフェウスに射るような視線を向けた。
「あんた、もし次ふざけたら、思いっきり頬っぺたつねるわよ。三日くらい痕残してやるんだから。通りを歩くたびに指さされるようにしたげる」
「分かった。ごめんね、イセリア」
「いーい? あんたはくだらない茶飲み話だと思ってるかもしれないけど、あたしは真面目に聞いてんの。大事な話だって自覚持ちなさい。さ、それじゃさっきの続きを……」
階下で物音が聞こえたのはそのときだった。
誰かが階段を上がってくる。騎士のすぐれた聴覚は、それが大人の男のものであることを即座に識別していた。
「お客さん、困りますよ――」
老店主の制止もむなしく、二人分の足音がぎしぎしと階段を軋ませた。
「硬いことを言うな。すこし顔を見るだけだ」
「いまは貸し切り中なんです」
「坊っちゃんの言うとおりにしろ。金はあとでくれてやるから……」
そうするあいだにも、階段を上る足音は次第に近づいてくる。
ややあって、扉の向こうから姿を現したのは、見るからに仕立てのいい衣服に身を包んだ西方人の若者だった。
明るい色の長髪にところどころ紫色が混じっているのは、近ごろ帝都の洒落者のあいだで流行っている染髪料を用いているのだろう。派手好みの伊達男であることは、ひと目見れば分かる。
この種の若者が好むことといえば、いつの時代も相場は決まっている。
自慢の
「なんということだ。こんな狭苦しいところに、見目麗しいお嬢さんを隠していたとは!! ――いや、街で見かけてここまで追いかけてきた甲斐があった」
若者はオルフェウスに近づくと、流れるような所作で跪く。
「おお、なんという美しさ……!! いままで多くの御婦人を間近で見てきたが、これほどお美しい方に出会ったのは初めてです!!」
呼吸も忘れたようにオルフェウスの顔を凝視して、伊達男はとろけるような溜息をついた。
昼日中だというのに夢うつつ、すっかり忘我の境といった風情の男に、イセリアは怪訝そうな目を向ける。
「誰よ、あんた?」
「申し遅れました。私はスフォルツェスコ四世と申します。三代続けて元老院議員になった名門のスフォルツェスコ、ご存じない? なにを隠そう、私はその跡継ぎでして――」
「アトツギでもホネツギでもなんでもいいけど、さっさと消えなさい。いまこの娘と大事な話してんの!!」
しっしとまるで野良犬でも追い払うように手を振ったイセリアに、スフォルツェスコ四世はいたく自尊心を傷つけられたようだった。
「無礼な真似はやめてもらおう。だいたい、私はこちらのお嬢さんに話しているんだ。君は彼女の召使いか何かか?」
「はあ~っ?」
「すこしは主人を見習いたまえ。この美しくも落ち着いた佇まい、まるで絵画のなかから抜け出てきたようだ。それに比べて君はどうだ。ガサツで言葉遣いも下品、おまけに顔ときたらタヌキそっくり――」
「た、タヌキ!?」
イセリアの額に青筋が浮かびはじめたことに、スフォルツェスコ四世は気づいていなかった。
ふと見れば、従者とおぼしき痩せぎすの男が階段のあたりに立ち、イセリアにむかって「さっさとこっちに来い」と言わんばかりに手招きしている。
「思わぬ邪魔が入りましたが、美しいお嬢さん。どうか私めにお名前をお教えいただけますか? さぞや名のある家門のお生まれなのでしょう。ええ、仰らなくても分かります。高貴な人間だけに通じる気品が、かぐわしいバラの香りのように私の鼻腔をくすぐって……」
「あんた……」
「ん? なんだ、タヌキ顔の君、まだそこにいたのか。さっさと出ていきたまえ。出口はあっち――」
哀れな四代目は、それ以上言葉を継ぐことが出来なかった。
イセリアは伊達男の首根っこを引っ掴むや、力任せに窓の外に放り投げたのだ。
「あ」と「う」が入り混じった甲高い絶叫が、長い長い尾を引いて流れた。
どこかの民家の屋根が派手にぶっ壊れる音が聞こえてきたのは、離陸からざっと三十秒あまりが経過したころだった。
まだ飛行機など影も形もないこの時代、帝都を空から見下ろした稀有な経験はひとりの人間の人生観を変えるに十分だったが、それはまた別の話である。
「ぼ……坊っちゃん!! なんということを……」
「ボケっとしてないで、さっさと大事なお坊ちゃまを迎えに行ってあげたらどう? 首の骨が折れてなければ生きてるわよ、たぶん」
「貴様、こんなことをしてただで済むと思うな!! あの方のお父上は元老院議員なんだぞっ!!」
「だったら、壊した窓の修理代はえらいお父様に払ってもらうことね。請求書は元老院に回しといてあげる。ついでにここのお茶代もツケとくわ」
あわてて駆け出した従者を「ふん」と鼻を鳴らして見送り、イセリアは湯気の立ち上る茶を一息に飲み干す。
「まったく、世の中ろくでもない男が多くて困るわ」
「助けてくれてありがとう、イセリア」
「べ、べつにあんたを助けた訳じゃないわ。鼻持ちならないヤツに当然の報いを与えてやっただけよ」
「私だけじゃ、ああいうときどうやって断ればいいのか分からなかったから――」
「ああいう手合いに絡まれたら、容赦なくぶん投げてやんなさい。あたしに較べれば非力だろうけど、あんたにもそのくらいの力はあるんでしょ」
焼き菓子に手を伸ばそうとして、イセリアは違和感に気づいた。
皿の上に乗っていたはずの焼き菓子が消えている。
細かく刻んだアンズのハチミツ漬けを、薄い生地で包んで焼き上げたこの
最後に食べようと楽しみにしてたそれは、イセリアの口に入るまえに忽然と消え失せたのだった。
まさか、あの男が盗み食いを? ――ありえない。オルフェウスを口説くのに夢中で、食べ物など眼中に入っていなかったはずだ。
「ん、美味しい♪ ――さっすが帝都ねぇ。田舎の野暮ったいお菓子とは違うわ」
甘ったるい声と咀嚼音は、どちらも窓の外から聞こえた。
イセリアとオルフェウスは、ほとんど同時に声のしたほうに顔を向けていた。
次の瞬間、二人の目に飛び込んできたのは、美味しそうに焼き菓子を頬張っている西方人の少女の姿だった。
年の頃は十二、三歳。
それだけなら、この
もっとも、壊れた窓枠に逆さにぶら下がりながら菓子を食べられるという条件がついたなら、話は変わってくる。
「あ、あんた……それ、あたしのお菓子!!」
「知ってる。でも、ついさっき私のものになったわ」
「なんですって!?」
赤毛の少女はいたずらっぽく笑うと、イセリアに見せつけるように、ぺろりと残りの菓子を平らげてみせる。
「あーあ……もう食べ終わっちゃった」
「ずいぶん調子に乗ってるみたいだけど、あんまり大人をからかってると痛い目見るわよ!!」
「へえ、そんなことが出来るんだ。――試しにやってみる? おばさん」
刹那、イセリアが突き出した正拳は、むなしく空を切った。
赤毛の少女はひらりと身体を宙に舞わせたかとおもうと、窓枠から天井へと所を移していた。
「それで本気なの? 遅すぎてあくびが出ちゃいそうよ」
天井を歩きつつ、にいとするどい乱杭歯をむき出しにした少女は、イセリアとオルフェウスにむかって獰猛な笑みを浮かべる。
「……あんた、人間じゃないわね!?」
「いま気づいたの?」
「まさか、
「正解~! とりあえず、今日のところはご挨拶まで……ということで」
逆さ吊りになったまま、くるりと身体を回転させた少女は、今度は屈託のない笑顔を浮かべて二人を見上げる。
「私はテルクシオペ。……お菓子ごちそうさま。また今度遊びに来るから、そのときはよろしくね?」
「望むところよ。言っとくけど、次はあんたの奢りよ。今日の分はきっちり返してもらうから、そのつもりでいなさい!!」
「いちおう覚えとく。じゃね、おばさん」
イセリアが何かを言おうとしたときには、テルクシオペの姿は幻みたいにかき消えていた。
窓から部屋を出た様子もない。目には見えない粒子と化して一瞬に霧散したような、それはあまりにも唐突な消滅だった。
「なんだったのよ、あいつ……」
怪訝そうに周囲を見渡していたイセリアに、オルフェウスがふいに声をかけた。
「イセリア――」
「なによ? どうかしたの?」
「……これ、見て」
白く細い指が示したものを認めて、イセリアは言葉を失った。
ほんの一瞬前までオルフェウスの
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