第178話 獅子来訪(前編)
帝都イストザントの官庁街の一角に、その建物はある。
いまにも崩れそうなボロ屋である。当世の流行に背を向けるような古めかしい外観も、築百年にちかいことを考えれば致し方ないことだ。
荒れ地のような庭を囲むのは、歯抜けが目立つ不揃いな木柵。入り口の表札は立て付けが悪く、ガタガタと冬の風に弄ばれている。
なにより悲惨なのは、美しさと雄壮さを兼ね備えた不朽の名建築として知られている中央軍総司令部の
陽光を浴びて輝く白亜の巨大建築物との対比は、いっそうボロ屋の惨めな佇まいを引き立たせている。
もっとも、栄光と誇りの象徴である総司令部に近くにこのようなみすぼらしい建物があることは、中央軍としてもつねづね苦々しく思っているのだが。
「あんな朽ちかかった廃屋がいつまでも取り壊されずに残っているのは、なにか秘密があるにちがいない」
「夜な夜な女の幽霊が出るとか。しかもとびきり美人の……」
「じつは大昔に滅び去った王国の墳墓が地下にあって、祟りを恐れて誰も近づけないらしい」
ああだこうだと、前を通りかかるたびに口さがない噂話に花を咲かせる官吏たちは、誰ひとりとして知らない。
この冬を大過なく越せるかどうかも怪しげなボロ屋が、れっきとした『帝国』の官庁のひとつであることを。
この傾きかけた建物こそ、まだ皇太子だったころの皇帝ルシウスの意向によって創設された組織――
***
庭に立った少年は、ゆっくりと息を吐きながら拳を構えた。
冷たい風が黒髪を揺らす。身を切るような寒さのなかで、少年は身じろぎもせず佇んでいる。
やがてかっと目を見開いたかと思うと、右の拳がするどく空を切った。
押しのけられた大気が震えているのは、肩や肘だけでなく、体幹部から生じた運動エネルギーが十分に伝達されている証だ。
みごとな正拳の型であった。
上・中・下段と攻撃の位置を変化させたあと、左の拳でも同様の動作を繰り返す。
さらに間髪を入れずに身体をひねり、裏拳から手刀を経て掌底、そして肘撃へと、たゆみなく技を連環させていく。
少年のしなやかな肢体は、わずかな遅滞も生じさせることなく、すべての動作は数秒のうちに完結した。
何も特別なことはない。
中央軍と辺境軍の両方で広く普及している
しかし、どんな簡単な技でも、人間では決してこうはいかないはずだった。
どれほど厳しい修練を積んだ武術の達人でも、みずからの肉体を完璧に制御することは至難である。いっそ、不可能と言ってもよい。
人体の性質は、水を入れた革袋に例えることが出来る。水の動きに合わせて袋がたわむように、弾性に富んだ皮膚や筋肉は、当人の意志とは無関係にたえまなく揺れ動いている。いくら心身を鍛え上げたところで、完全に肉体を意識の支配下に置くことは出来ないのだ。
一方、少年の動作はそのような不安定性とは無縁だった。
拳はぴたりと狙った位置を打ち抜き、体幹は地面に打ち込まれた杭みたいに揺るがない。
もし武術に通じた者がこの場に居合わせたなら、口を揃えてこう言ったはずだ。――人間業ではない、と。
上半身の基本的な技をひとしきり反復したところで、背後から声がかかった。
「休日だというのに精が出ますね、アレクシオス」
とっさに振り返れば、西方人の青年がボロ屋の縁側に佇んでいる。
女と見紛うような線の細い青年であった。
見るからに肉のついていない身体にはよほど冬の寒さがこたえるのか、およそ若者らしからぬだぼっとした綿入りの上衣を羽織っている。
「まあな。休みだからとだらけていると、身体が鈍る」
アレクシオスは爪先を目線の高さまで持ち上げながら、ゆるゆると息を吐いた。
蹴りの型もまた、愚直なまでに基本に忠実だった。
「たまにはおまえも一緒にどうだ? ヴィサリオン。運動すると身体も暖まるぞ」
「いえ……私は遠慮しておきます。格闘技はからきしで」
「そう言うと思ったよ」
困惑したように首を横に振るヴィサリオンに、アレクシオスは微笑みを返す。
「人には得手不得手がある。慣れないことをして、もし怪我でもされたら大変だ」
「私もすこしは戦いで皆さんの役に立てればよかったのですが……」
「おまえの分までおれたちが戦うさ」
するどい上段蹴りを空に放ちながら、アレクシオスはふと思い立ったように問うた。
「そういえば、他の連中はどこに行ったんだ?」
「イセリアとオルフェウスは二人で話したいことがあるとかで……行き先は教えてくれませんでした。エウフロシュネーはレヴィとラケルを連れて、商店街に買い物に行ったようです」
「やかましい女どもが出かけていると清々するな」
「そんなことを言ってはいけませんよ。みんな大事な仲間なのですから……」
ヴィサリオンはそこで言葉を切った。
がさり、と落ち葉を踏む音がどこからか聞こえてきたためだ。
視線を巡らせれば、ちょうど門のあたりに誰かが立っているのが目に入った。
「ごめんください――」
元気よく叫んだのは、黄金色の髪の少年であった。
見た目はアレクシオスよりだいぶ幼い。まだ十三、四歳といったところだろう。
誰かのお下がりらしいぶかぶかの外套は不格好だが、可愛らしくもある。
「あの……っ‼
少年がだしぬけに発した問いに、アレクシオスとヴィサリオンは顔を見合わせていた。
「そうだが……」
「よかった!! なかなか見つからなくて、諦めかけてたんです」
「本当にここでいいのか? 他の役所と間違えているんじゃ……」
「いいえ。
目当ての場所を見つけられたことがよほどうれしかったのだろう。
少年の声は心底からの喜びに弾んでいた。
「僕はレオンといいます」
言って、少年はぺこりと頭を下げた。
「こちらにアレクシオスさんという方はいらっしゃいますか?」
「おれがアレクシオスだが……」
「あなたが――」
よほど驚いたのか、レオンはほとんど尻餅を突きそうになった。
「あのヘラクレイオスを倒したアレクシオスさんですよね!?」
「待て、なぜそれを……」
「こんなに早く会えるなんて思わなかった。お会い出来て光栄です!!」
レオンはアレクシオスの手を握ると、感極まったようにぶんぶんと振ってみせる。
白銀色の瞳はきらきらと輝き、すっかり興奮しきりという様子だ。
「僕はあなたに会うためにここに来たんです」
「ちょっと待て。なぜおれのことを知っている? ヘラクレイオスと戦ったこともだ。おまえは何者だ?」
「あなたのことはよく知っています。ヘラクレイオスだけじゃなく、ゼーロータイの首領も倒したんですよね? そのことを聞いてから、ずっと憧れていたんです」
「それは――」
あくまで無邪気に問うたレオンに、アレクシオスは返答に窮した。
半年前――ガレキアでの最終決戦において、アレクシオスは『帝国』に反旗を翻した最強の騎士と、革命の指導者をたったひとりで討ち取った。
騎士庁が皇帝に提出した報告書では、そういうことになっている。
しかし、ヘラクレイオスも、ナギト・ミシュメレトも、アレクシオスは自分の手で倒したなどとは思っていない。
どちらも滅びゆく宿命を悟っていたようであった。アレクシオスがしたことといえば、せいぜい彼らの死期を早めただけだ。
彼らが抱いていた悲しみもやるせなさも、実際に対峙したアレクシオスは知っている。
(おれの手柄ではない……)
そう思っているからこそ、アレクシオスは皇帝から褒美を下賜されてもかたくなに辞退し、自分から功績を誇ったこともない。ともに戦った仲間たちも、そんなアレクシオスの複雑な胸のうちを察してか、あえてその話題を避けているのだった。
「ところで、アレクシオスさんにひとつお願いがあります」
「お願い?」
「はい。ここに来たのは、そのためでもあるんです」
レオンの双眸にするどい光が走った。
ただならぬ雰囲気を感じて、アレクシオスは無意識のうちに身構えていた。
わずかな沈黙のあと、少年は意を決したように口を開いた。
「アレクシオスさん――――僕と戦っていただけませんか?」
***
「……僕もあなたと同じ
少年の告白に、アレクシオスはわずかに眉根を寄せる。
驚きはしなかった。戎装を解いた騎士は人間と見分けがつかず、同じ騎士であっても外見による判別は不可能である。
それでも、さしずめ第六感とでも言うべき何かによって、目の前の少年がただの人間ではないことは薄々分かっていた。
「僕の仲間は、ヘラクレイオスに殺されました」
レオンはきつく唇を噛んだまま、感情を押し殺した声で呟いた。
「ヘラクレイオスを倒したあなたは、仲間の仇を取ってくれた恩人です。死んでいった仲間たちに代わって、お礼を言わせてください」
「その恩人に戦いを挑むとは、いったいどういうことだ?」
「失礼は承知の上です。それでも、僕は最強の騎士を倒したあなたの実力が知りたい。ひとりの騎士として、あなたの強さを、どうしてもこの身で体験してみたいんです」
一方的にまくしたてて、レオンは深々と頭を下げる。
「お願いします、アレクシオスさん――僕と手合わせしてください!!」
アレクシオスは困惑したようにヴィサリオンを見やる。
どのように応じればいいものか、監督役の青年も苦笑いを浮かべるばかりだった。
「どうします、アレクシオス?」
「どうもこうも……だいたい、皇帝陛下の許しなくおれたちが戦うことはだな……」
「たしかに騎士同士の私的な戦いは固く禁じられていますが、手合わせなら、訓練の一環ということで問題ないでしょう」
「しかし……」
「彼は相手をしてくれるまでてこでも動かないという顔をしていますよ」
ちらとレオンを見れば、なるほどそんな顔をしていた。
この少年は、一度決めたことは何があろうとやり通すだろう。
申し出を断ったところで、そう簡単に諦めるとも思えない。この寒空の下で座り込みでもされれば、それこそ無用の騒動を招きかねない。
「仕方がない――」
その言葉を耳にしたとたん、レオンの顔がぱあっと明るくなった。
「本当ですか!?」
「一試合だけだ。どんなに頼まれても、それ以上は付き合えん」
「それで十分です!! ありがとうございます!!」
色よい返事を引き出して、飛び跳ねんばかりに喜ぶレオンに、アレクシオスはくいと顎をしゃくってみせる。
「場所を変えるぞ」
「ここではいけないんですか?」
「こんなところで騎士同士が戦ったら目立って仕方がないだろう。おれたちの存在は世間に伏せられていることを忘れるな。他ではともかく、
首が外れそうなほど激しくうなずくレオンに背を向けて、アレクシオスはさっさと歩き出していた。
***
官庁街を出た三人が辿り着いたのは、川沿いの廃工場だった。
もとは大規模な紡績工場であったが、数年前に経営悪化のために廃業して以来、そのまま取り壊されることもなく放置されているのだ。
このあたりは地価が高いために買い手もつかず、風雪に晒された建物はすっかり荒れ果ている。ところどころ破れた屋根からは冬の日差しが差し込み、うっすらと埃が積もった床にまだら模様を描く。
夜ともなれば浮浪者のねぐらと化すこの場所も、昼間は静謐そのものだ。
アレクシオスとヴィサリオン、そしてレオンは、広壮な廃墟のなかを黙々と進んでいく。
「このあたりでいいだろう」
言って、アレクシオスは足を止めた。
建物の中心部である。頭上に開いた円形の吹き抜けは、そのまま冬の空へと繋がっている。
「ここなら人目につく心配もないはずだ」
「帝都にもこんな場所があったんですね……」
「廃墟だからといって、あまり調子に乗って壊しすぎるなよ。中央軍の連中に通報されるといろいろと面倒だ」
「分かっています」
レオンは外套を脱ぐと、丁寧に畳んだそれを、近くの棚に置いた。
ヴィサリオンは二人の少年を交互に見つめると、こっくりとうなずいてみせる。
「私は邪魔にならないように隠れています。二人とも、くれぐれも怪我のないように……」
「おまえのほうこそ、巻き添えを食わないように気をつけろよ」
「そうならないことを願っていますよ」
言い終わるが早いか、青年はそそくさと太い柱の陰に駆け込んでいった。
「さて――始めるか」
「はい!! よろしくお願いします!!」
アレクシオスとレオンは、吹き抜けの真下で向かい合う。
空気が密度を増していく。ひりつくような緊張感は、
「行きます!!」
先に動いたのはレオンだ。
するどい蹴りが埃っぽい空気を切り裂いた。
アレクシオスはその場から動かず、身体を反らせてレオンの蹴撃を捌いていく。
かなりの使い手のもとで修行を積んできたのだろう。電光石火の素早さと、たしかな破壊力とを両立させた理想的な攻撃であった。
迷いも躊躇いもない猛攻は、しかし、アレクシオスにダメージを与えるには至らない。
「くっ――」
レオンはわずかに身体を浮かせると、右足で後ろ回し蹴りを繰り出した。
アレクシオスは襲いかかる足首を掴み取る。力を逆用して床に叩きつけようというのだ。
刹那、レオンの身体が駒みたいに回転した。
足首はアレクシオスの手から抜け、飛び退った少年は、そのまま数メートルも離れた床に着地する。
「やるな。誰に教わった?」
「……死んだ仲間です。みんな僕のことを実の弟みたいに可愛がってくれました」
「その技は仲間の形見という訳か」
重々しくうなずいたレオンに、アレクシオスはふっと息を吐く。
「準備運動はこのくらいでいいだろう」
「では、アレクシオスさん――」
「ここからは、お互い手加減無しだ」
間合いを取ったまま、アレクシオスとレオンは互いにうなずき合う。
二人の少年のあいだに横たわる空気は、静かに、しかし着実に熱を帯びていく。
「戎装!!」
まるで示し合わせたみたいに、二人の声が同時に廃墟に響きわたった。
時をおかず、アレクシオスは闇よりなお深い漆黒の装甲をまとった騎士へと変じていた。
顔面に刻まれた幾何学模様の
アレクシオスが戎装を終えるのと同時に、レオンも異形の騎士へと変貌を終えている。
黒騎士の前に立つのは、美しい
勇壮な兜を彷彿させる顔貌に、緑色の閃光がまたたいた。
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