第85話 エピローグⅠ-それからのこと-

 「疲れたぁ~!」

 イセリアは詰め所の扉を開くなり、玄関にどっと身を投げ出した。

 すっかり脱力しきったその姿を見て、アレクシオスはおもわず眉根を寄せる。

 「イセリア! 行儀が悪いぞ!」

 「だって、本当に疲れたんだから仕方ないじゃない。ここまでずーっと狭い馬車に押し込められてたんだし、これでやっと一息つけるわ!」

 イセリアはいかにも不服げにつんと唇を尖らせる。

 すでに夜半をだいぶ過ぎている。

 パラエスティウムを経ってからすでに一週間あまり。騎士たちは往路と同じだけの距離を遡り、いま帝都イストザントへと帰着したのだった。

 「それにしても、パラエスティウムの名所見物くらい出来るかと思ったけど、まさかろくに見て回る暇もなくトンボ返りするはめになるなんてね。楽しみにしてたのにがっかり――」

 「当たり前だ。おれたちは遊びに行ったんじゃないんだぞ」

 「そのくらい分かってるけど、あたしはアレクシオスと一緒に観光したかったの!」

 イセリアは倒れたまま不満の声を上げる。


 あの後――

 パラエスティウムで開かれた承認の儀式は滞りなく幕を閉じた。

 ルシウスは順当に次期皇帝に内定し、一堂に会した皇族と貴族たちは、形式的な賛辞と喝采で新皇帝の誕生を言祝いだのだった。

 もっとも――大荒れの予想が外れたことは、参加者たちに多少の驚きをもたらした。

 すべてはルシウスの皇帝即位に対する最大の障害と目されていた元老院議長デキムスが沈黙を保ったためだ。

 ほかならぬ首魁の裏切りによって、反ルシウス派は土壇場で梯子を外された格好になった。

 派閥を取りまとめる領袖リーダーを失っては、いかに強硬な反対派も烏合の衆にすぎない。彼らは一言の異論も発することなく、臍を噛んで儀式の進行を見届けることになったのだった。

 それも当然だ。事実上の『帝国』の最高権力者である元老院議長が暗にルシウス支持に回った以上、大勢を覆すことはどうあがいても不可能であった。下手に目立つような真似をすれば、新体制においてまっさきに粛清の対象とされかねない。

 いずれにせよ、これで皇位継承を巡る一連の騒動の決着はついた。

 現皇帝イグナティウスの崩御と同時に、ルシウスが新皇帝として即位する手筈はすべて整ったのだ。

 もとよりルシウスの皇帝即位は既定路線であった。こうまですんなりと事が運んだことは意外であったとはいえ、予定調和と言えばそれまでだ。

 当事者であるルシウスとデキムスを除いて、承認式の裏でおびただしい血が流されたことを知る者はない。――親王エンリクスが儀式の場に姿を見せなかった本当の理由も、また。

 旅の目的である承認式が終わってしまえば、もはやパラエスティウムに留まる必要もない。

 ルシウスにしても、死を待つばかりの皇帝が待つ帝都をそう長く留守にしている訳にはいかないのだ。

 承認式が閉会したその夜には、ルシウスと騎士たちは車上の人となっていた。

 帰りの馬車のなかで、アレクシオスはヴィサリオンとラフィカにそれとなく尋ねた。

 ――ゼーロータイという言葉を聞いたことはあるか?

 二人とも首を横に振るだけだった。

 もし他の者に尋ねていたとしても答えは同じだったはずだ。

 ラベトゥルが死の直前に言い残したその言葉を知る者はだれもいない。

 それが何を意味するのか――あるいは、のかさえも。

 謎を残したまま旅は終わり、ふたたび帝都での日常が始まろうとしている。

 

 と、ヴィサリオンが二人のあいだに割って入った。

 「まあまあ、二人とも落ち着いて。疲れているのは分かりますが、イセリアはもう少しだけがんばってくださいね。ここにいるのは私たちだけではないのですから……」

 「はぁ? ――ああ、そういえば留守番頼んでたのよね。ちゃんとやっててくれたかしら?」

 どたどたと複数の足音が響いたのはそのときだった。

 視線を向ければ、一人の少年と二人の少女が廊下を駆けてくる。

 「みなさん、おかえりなさい!」

 「お仕事ご苦労様です! しっかり留守の務めは果たしました!」

 「僕たちのために気を遣ってくれて、本当にありがとうございました!」

 興奮気味に畳み掛ける三人に、アレクシオスは怪訝な表情を浮かべる。

 「気を遣って……? ありがとう……?」

 留守居役の少年少女たちは、きょとんとした顔で互いの顔を見つめ合う。

 どうやらアレクシオスが自分たちの言葉を理解しかねているのが意外だったらしい。

 「だって、私たちのためにいろいろ用意してくれたでしょう? 食べ物とか、服とか、たくさん……。自由に使ってくれていいと言っていたので、遠慮なく頂きました」

 「留守番をしている間、僕たちが退屈しないように気を遣ってくれたんですよね?」

 「おかげでとっても楽しかったです! 私、あんな美味しいもの初めて食べました!」

 二つの集団のあいだに、しばしの沈黙が流れる。

 どちらも言葉に詰まっているようだった。

 「あ、あ、あ~~~~!!」

 ふいに上ずった声を上げたのはイセリアだ。

 何かを思い出したというように頭を抱え、立ち上がったそばからがっくりと崩折れる。

 「あんたたち、もしかして全部食べちゃったわけ? いろいろあったでしょ! お菓子とか珍しい果物とかさあ!?」

 「ええ――だけど、それがどうかしました?」

 「帝都はまだ寒いといっても、あのまま放っておいたら悪くなってしまいますから、早く食べなければと思って……」

 「私たちがぜんぶ美味しく頂きましたからご心配なく!」

 イセリアはうつ伏せに倒れ込んだまま、聞き取れぬ言葉をぶつぶつと呟いている。

 帝都を出立する前日、気づかれぬよう空き部屋に押し込んでいた品物の数々は、目ざとく見つけられていたのだった。

 菓子も果物も、イセリアが自分ひとりで楽しもうと市場で買ったものだ。

 どれも遠方から運ばれた珍しい果物であり、貴重な砂糖をふんだんに使った菓子である。ひとつひとつはそこまで高価ではなくても、すべて合わせればそれなりの金額にはなる。

 それが買った本人はひと欠片も口にしないまますべて消え失せたとなれば、落胆のほどは推して知るべしだ。

 「おい待て、さっきから一体何の話をしているんだ? おれには何のことか見当もつかんぞ」

 「イセリア、大丈夫……?」

 アレクシオスとオルフェウスはそれぞれイセリアに声をかける。

 「もうやだ~~~~~~!!」

 イセリアの叫びが夜更けの詰め所にこだました。

 一行の背後に忽然と気配が生じたのは、まさにそのときだった。

 振り返ったアレクシオスの脇を半透明の影がすうっとすり抜けていった。

 「あーあ、本当にお姉ちゃんは仕方ないなぁ」

 影は玄関をくぐったところで少女の形になった。

 エウフロシュネーはけらけらと笑いつつ、軽やかな足取りで詰め所に入ってくる。

 「なっ……! ちょっと、エウフロシュネー! あんた、なんでここにいるのよ!?」

 「どうして……って、そんなの決まってるよ」

 血相変えて詰め寄るイセリアに、エウフロシュネーはにこにこと笑ってみせる。

 「私、今日からお兄ちゃんやお姉ちゃんと一緒にここで働くことになったんだ。よろしくね!」

 

***


 後年、在野の史家によって著された歴史書(野史)には、次のように記されている。

 『……同年の晩春、皇帝イグナティウス・アエミリウス・シグトゥスは病により崩御した。アエミリウス朝における最も凡庸な皇帝の時代が終わり、最も毀誉褒貶かまびすしき皇帝の治世が幕を開けた』――

 ルシウスの皇帝即位と時を同じくして、あらゆる同時代の史料から姿を消した人物がいる。

 親王エンリクス・アエミリウス。

 イグナティウス帝の早世した長子マルクス・アエミリウスの子であり、本来帝位に就くはずであった少年。

 やはり後年になってから作成されたアエミリウス朝の系図によれば、エンリクスは逗留先のパラエスティウムにおいて熱病に罹患、治療の甲斐なく客死したとされている。享年八歳。

 エンリクスの死はルシウス帝による暗殺であるという噂は、即位直後からまことしやかに囁かれていたという。


 ――曰く、兄の実子であるエンリクス皇子を疎ましく思ったルシウス帝は、みずからの地位を安泰とするために幼い甥を手に掛けた。

 ――曰く、ルシウス帝の暗殺の手をからくも逃れたエンリクス皇子は、ひっそりと遠国に落ち延びて生きながらえている。


 『東』の人々は幼くして歴史の表舞台から姿を消した皇子を憐れみ、彼に関する想像を逞しくした。

 悲劇の皇子は演劇や講談の恰好の題材となり、その哀しい運命を歌ったわらべ唄は後々の世まで末永く歌い継がれた。

 国家による摘発を免れるため登場人物の名前を変え、舞台を架空の異国や過去に移しても、それらの物語が何を示しているかは自明であった。

 それが国家と皇帝に反感をいだく人々の不満のはけ口になっていたことは、あえて言うまでもないだろう。幻の少年皇帝に、彼らは現実とは違うもうひとつの未来を仮託したのだ。いつしか独り歩きをはじめた虚像のまえでは、実際のルシウスとエンリクスの関係がどのようであったかはもはや重要ではなかった。

 善きにせよ悪しきにせよ、ルシウス帝にまつわるさまざまな噂や伝説は枚挙にいとまがない。

 強権的な『東』の皇帝としては例外的に、在位中はほとんど取り締まりを行わなかったためでもある。

 人の口に戸は立てられぬと諦めたのか、そもそも興味がなかったのか――あるいは、皇帝も自分の話題が人々の口の端にのぼるのをひそかに楽しんでいたのか。

 市井に飛び交っていた真偽定かならぬ風説をひとしきり紹介したあと、歴史書は彼に関する記述をこう締めくくっている。

 『それでも、かの人物は、翳りゆく『帝国』におけるまさしくであった』――と。

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