第86話 エピローグⅡ-風の向こう側へ-

 簡素な寝床のなかで、エンリクスは目を開いた。

 あたりはまだ暗い。夜明けまであと数時間はあるだろう。

 どこかで水の音がする。船の外板に波がぶつかって砕ける音だ。

 ほとんど無意識に祖父を探していたことに気づいて、エンリクスは首を振る。

 もう祖父はいないのだ。『西』でも『東』でもない海の上で、エンリクスはひとりぼっちの目覚めを迎えたのだった。

 涙がこみ上げてきそうになるのを自覚しながら、少年は悲しみをかき消すように唇を噛む。

 そして、ゆっくりと寝床から起き上がると、おぼつかない足取りで外を目指す。

 船室から甲板に出れば、目の前には夜の海がどこまでも広がっている。吸い込まれそうな紫紺の海は恐ろしいだけでなく、えも言われぬ美しさを湛えてもいる。

 「あら――こんな時間にお目覚め?」

 背後から声がかかった。

 はたと振り向けば、一人の女がエンリクスを見つめている。

 空の袖を潮風になびかせながら、銀灰色の髪の女船長――フィオレンツァは、ゆっくりとエンリクスに近づいてくる。

 「ご、ごめんなさい……」

 「べつに謝らなくてもいいわ。船の旅にはまだ慣れないのでしょう? それに、早く目が醒めてしまったのは私もおなじ」

 恐縮した様子のエンリクスに、フィオレンツァはふっと微笑みかける。

 「あの――……本当に、これでよかったのでしょうか」

 フィオレンツァの顔を見上げながら、エンリクスは遠慮がちに問いかける。

 「どういう意味かしら?」

 「本当なら、私は生きていてはいけないはずです。自分のしたことの責任を取って死ななければならないのです。そんな私に、ルシウス叔父上は『西』で新しい人生を送るよう言ってくださいました」

 「なんだ、そんなこと――」 

 思い詰めたように俯くエンリクスに、フィオレンツァはやわらかな微笑みで答える。

 「エミリオ様――あなたの叔父上は、昔からそういう方。だから何も気にしなくていいのよ」

 「でも……! これでは、自分の務めから逃げているようで……」

 「あなたが幸せでいること――それがあの人のたったひとつの願い。それはあなたにも分かっているはずよ」

 言って、フィオレンツァはエンリクスを背後から抱きしめた。

 いつのまに取り出したのか、その手には二通の書状が握られている。

 一通はルシウスがあらかじめフィオレンツァに託していたもの。

 そしてもう一通は、皇帝イグナティウスが病床でしたためた親書であった。

 どちらもプラニトゥーデ家の当主オーギュスト・プラニトゥーデに宛てたものだ。

 「……みんな、あなたを愛してる。あなたに生きていてほしいと思ってるのよ」

 まるで何かに耐えているみたいに、エンリクスはフィオレンツァの袖をぎゅっと握っている。

 「あなたにその気があるなら、いつでも戻ってきていいとあの人は言っていたのではなくて?」

 「それは……たしかに、その通りだけど……」

 「これからあなたは遠い国でたくさんのことを学び、成長するでしょう。エミリオ様がそうだったようにね。それは『東』の王宮では決して出来ないこと……」

 エンリクスの澄んだ瞳を覗き込みながら、フィオレンツァはなおも言葉を続ける。

 「プラニトゥーデのお殿様はとても立派なお方よ。それに、この私もついている。何も心配いらないわ」

 「……ありがとう、フィオレンツァさん」

 フィオレンツァに、エンリクスははにかんだような微笑みで答える。

 愛らしいその顔を見つめながら、フィオレンツァは逡巡する。

 ――この子に本当のことを教えるべきだろうか。

 『西』に養子に出したルシウスをふたたび呼び戻すよう皇帝イグナティウスに懇願したのは、ほかならぬエンリクスの父マルクスだということを。

 皇帝はこの世で最も過酷な仕事だ。世界中の憎しみと嫉妬を一身に受け、それでも国家をひとつにまとめ導かねばならない。

 時に人の心を捨て去り、時に血を分けた肉親さえも無情に切り捨て、そうしてようやく皇帝はおのれに課せられた務めを果たすことができる。

 生来やさしい心を持つエンリクスには到底そのような役目は務まらないということを、死に瀕した皇太子マルクスは見抜いていた。

 不適格な人間が帝位に就くことは、国家にとって最大の悲劇だ。

 その末路は、重責に耐えかねてみずからの心を壊すか、国が壊れるかの二つに一つしかない。

 過去に存在した数多の暴君たち――酒と色に溺れ、民草を虐げた悪しき皇帝も、見方を変えれば重すぎる職責に押しつぶされた犠牲者であった。

 彼らに多く共通するのは、若かりし日には慈悲深く、正義を重んずる人物であったということだ。

 愛する我が子エンリクスを哀れな犠牲者たちの列に加えたくはない。歴史の上に永遠に消えない汚名を残すことだけは避けなければならない。

 そんな父の心がルシウスの帰還を招いたとは、デキムスもエンリクスも知る由もない。

 それを知るのは、当のルシウスと皇帝イグナティウスのほかには、地上でただ二人――フィオレンツァとヴィサリオンだけだった。

 フィオレンツァは瞼を閉じ、自分自身に言い聞かせる。

 今はまだその時ではない。

 いずれこの子にも真実を伝えねばならない時が来る。

 そのときまで、この秘密は胸の奥に沈めておこう。いつか真実を受け止められる日が来るまでエンリクスを守り導くことが、かつて自分を救ってくれたルシウスに報いる唯一の道であるならば……。

 地平線に目を向ければ、青黒く沈んでいた海は少しずつ明るさを増しはじめている。

 それは、夜明けが間近に迫っている証だ。

 エンリクスは船縁に立ち、はるか遠方を見据えている。

 『西』の大陸はまだ影さえみえない。『東』の沿岸もすでに肉眼では視認できないほど遠ざかっている。

 (さようなら、おじいさま、叔父上――)

 エンリクスは拳でごしごしと目をこすると、フィオレンツァから離れ、ひとり船首へと走り出した。

 その顔は、すでに祖父に頼り切っていたひ弱な少年のそれではない。

 地平線から漏れ出したかすかな陽光に目を細めながら、少年は潮風をおもいきり吸い込む。

 むせかえるような潮の匂いがちいさな胸をいっぱいに満たしていく。

 別離の悲しみも、未来への不安も、胸にわだかまるすべてを洗い流すように。

 ひときわ強く吹き抜けていった風は、たしかに希望の匂いがした。


 【第三章 完】

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