特別編~戎装騎士異聞~
Ⅰ.姫君来たる
第87話 姫君来たる(一)
うららかな日差しが降り注いでいた。
長く厳しい冬はようやく終わり、帝都イストザントは春の陽気に包まれている。
はるか彼方に峨々たる連なりを見せる険阻な山々はいまなお白く染まっているが、それはあくまで神々の世界のこと。人の世では雪の欠片も見当たらない。
通りを行き交う人々の足取りもこころなしか軽い。陽光が融かすのは雪と氷だけではないのだ。
冬のあいだはどことなく冷え、硬くこわばっていた人の心も、春の訪れとともに弾みだしたようであった。
そんな帝都住民のうきうきとした心の動きを反映してか、大通り沿いの飲食店街はいつにない活況を呈している。
軒先に目を向ければ、どの店も通りに面したポーチに
春先の開放的な雰囲気の下で食事を楽しませようという趣向だ。野外での食事など、寒風が吹き荒れていたつい数週間前まではとても考えられなかったことだが、それだけに春の到来を告げる帝都の風物詩として定着しているのだった。
この時期ばかりは当局の取り締まりも緩くなるのか、昼間から堂々と店を開けている酒楼(酒場)もある。
へべれけに酔った男たちが高歌放吟し、あげくに道端で酔いつぶれている姿もそこかしこで見られた。
それもじつに微笑ましい春の帝都の一情景だった。
真冬とは異なり、いまは酔っ払ってそのあたりに寝転がっていてもそうそう大事には至らないからだ。
日頃から無銭飲食には神経を尖らせている店主たちも、呑んだあとで財布を掏られる分には気にもかけないのだった。
無数の店舗がひしめく飲食店街のなかでも、ひときわ混み合っている茶楼(喫茶店)がある。
けっして大きな店ではない。
店内と屋外席を合わせても三十卓に満たないだろう。
一組の客が席を立つたびに新しい客が卓につき、狭い店の敷地はつねに人であふれている。一歩足を踏み入れれば、ひっきりなしに運ばれる料理の熱と人いきれのために、季節外れの蒸し暑ささえ感じるほどだった。
アレクシオスとイセリア、オルフェウスは、店先に並べられた卓のひとつを囲んでいる。
三人ともすでに食事を終え、食後の
より正確に言うなら、アレクシオスとオルフェウスの前にだけ皿が置かれている。どちらもすでに空であった。
「……まったく、なんであたしのだけこんなに遅いのよ!」
言って、イセリアはいかにも不満げにため息をついてみせる。
「文句を言っても仕方ない。これだけ混雑していればそういうこともあるだろう」
アレクシオスはそっけなく言うと、忙しなく店内とポーチを往復している数人の給仕たちを見やる。
彼らは先ほどから休む間もなく厨房と店内、そして卓と卓のあいだを駆け回っている。手狭な店いっぱいに詰めかけた客の対応に追われているのだ。イセリアは構わず呼びつけて文句を言おうとしたが、アレクシオスがそれを制したのだった。
「私たちも待っててあげたほうがよかったかな」
「べつに気にしなくていいわよ。ここの名物は熱いうちに食べないと美味しくないんだから。――で、どうだった? 美味しかった?」
イセリアはアレクシオスとオルフェウスに交互に視線を送る。
「まあ、そうだな……たしかに悪くはなかった」
「美味しかった――と思うよ」
「でしょ!? ふふん、やっぱりあたしの情報は確かだったみたいね!」
イセリアは得意げに胸を張る。
アレクシオスは内心鼻白む思いだったが、名物料理が絶品だったことは紛れもない事実だ。イセリアがどこからかこの店の評判を聞きつけてきたことも、また。
「まさか一人だけおあずけ食うとは思わなかったけど、まあそれはそれ。空腹は最高の調味料って言うもの。あたしはとっても心が広いから、ちょっとくらい遅れても美味しければ許してあげるわ!!」
騎士たちが帝都に戻ってから、今日でちょうど五日目になる。
あのあと、長旅の労をねぎらうという名目で、監督役であるヴィサリオンも含めた
もともと騎士たちに暇を持て余させておくのはよくないというだけの理由で仕事を回されていた騎士庁である。
一週間――なんとなれば永遠に休暇を取ったところで、帝都の
とはいえ、そのことに一抹の寂しさを感じたのはアレクシオスだけだ。イセリアは休みというだけで飛び上がってはしゃぎ、オルフェウスは例のごとくの無表情。エウフロシュネーは着任早々仕事がなくなったことにすこしだけ残念そうな表情を浮かべたが、すぐに気分を切り替えて休暇を楽しむことにしたようだった。
そんな折にヴィサリオンから数日詰め所を留守にすると告げられ、アレクシオスはいよいよ無聊をかこつ羽目になった。
とくに予定もなければ、済ませておくべき用事もない。休暇だからといって
ヴィサリオンに同行するという手もあったが、私的な用事にまでつきまとうのはどうにも憚られたのだった。
イセリアがすっかり興奮しきった様子でアレクシオスのところにやってきたのは、休暇に入って三日目のことだ。
――ねえねえ! 大通りを南に行ったところにすっごく美味しい店があるんだって!
アレクシオスが気のない返事をするまえに、イセリアは矢継ぎ早に言葉を積み上げていく。
――それでね、その店はいっつも混雑してるから、二人からじゃないとなかなか入れてもらえないらしいの!
何を言わんとしているかはあきらかだった。
アレクシオスはしばらく逡巡してから、イセリアをちらと横目で見る。
――言っておくが、おれはおまえと二人で行くのは御免だ。オルフェウスかエウフロシュネーを誘って行けばいいだろう。
――なんであたしがあの娘たちと一緒に行かなきゃいけないのよ!
――おれが行くならあいつらも一緒だ。二人からなら三人でも四人でも変わらんだろう。
なおも食い下がろうとするイセリアだが、アレクシオスのすげない態度にとうとう根負けしたようだった。
仕方なく詰め所のなかで所在なさげにしていたオルフェウスとエウフロシュネーに声をかけたが、
――ごめんね、お姉ちゃん。じつは私、その日ちょっと約束があって……。
結局、件の店には三人だけで行くことになった。
――あたしはアレクシオスと二人きりがよかったのに!
いつものように悪態をつくイセリアだが、その声音にはどこか嬉しげな響きがあった。
「やあ、これは大変お待たせして――」
ふと気づくと、初老の男が三人の卓の傍らに立っている。
どうやらこの茶楼の店主らしい。手には蓋つきの蒸籠を携えている。
給仕ではなく店主みずから卓に運んできたのは、提供が遅れたことへの詫びのつもりだろう。
「ちょっと、ずいぶん待たせたんじゃない? もう連れは食べ終わっちゃったわよ!」
「あいすみません。お詫びと言っちゃなんですが、お嬢さんの分はおまけさせていただきましたので……」
「ほんと? それなら許しちゃう!」
店主が蒸籠の蓋を取ると、閉じ込められていた湯気がふわりと立ち昇った。
卓の上に湯気が広がっていくのにあわせて、えも言われぬ香気が鼻腔をくすぐる。
濃厚な甘い芳香のなかに、ほんのわずかな刺激と苦味が混じる。それらすべてが複雑な香りの綾をなし、否応にも食欲を刺激するのだった。
香りをたっぷりと含んだ湯気が流れたせいか、周囲の客もなにごとかと卓をのぞき込む。
「なにこれ!? いい匂い!」
「これが当店の名物――甘果餅でございます。
「よかったな、イセリア。待った甲斐があったじゃないか」
目を輝かせるイセリアを横目に見つつ、アレクシオスは茶をすする。
「これ、そのほうら――」
声がかかったのは、イセリアが口をつけようとしたまさにその瞬間だった。
三人は一斉に振り向く。視線の先には、一人の少女が立っている。
雪みたいに真白い肌と、ゆるゆると巻かれた黄金色の髪。いずれも典型的な西方人の特徴だ。年の頃は十二、三歳といったところ。
いかにも意志の強そうな瞳と、くっきりとした目鼻立ちをもつ美しい少女であった。
少女はポーチと通りのあいだに設置された竹の柵に身体をもたせかかり、アレクシオスたちの方に碧い瞳を向けている。
「なによ、この子? 誰かの知り合い?」
「さあな。少なくともおれじゃない。……おい、おれたちになにか用か?」
アレクシオスに問われて、少女はいたずらっぽく微笑む。
「そちはアレクシオスであろう?」
「そうだが――なぜおれの名前を知っているんだ」
「ふむふむ……男にしては背が小さいが、面構えは悪うない。男の値打ちは身の丈で決まる訳ではないからのう。でも、わらわは兄上様のような偉丈夫が好き――」
からからと笑う少女とは対照的に、アレクシオスはほとんど言葉を失っていた。
身長は密かなコンプレックスだった。それを面と向かってあけすけに言い放たれては、放心状態に陥るのも当然というものだ。
「ちょっと! 突然現れてなんなのよ、このガキ!」
「そちはイセリアだな?」
「そうよ! それがどうかした!?」
「噂どおり気の強い
「な、な、なんですって――」
少女の容赦ない言葉に、イセリアは耳まで真っ赤になる。むろん怒りのためだ。
「そして、そちがオルフェウスだな?」
オルフェウスは答えず、ただ首肯するだけだ。
少女はひとしきりオルフェウスの顔を眺めると、ほうとため息をついた。
「むむむ……聞きしにまさる美貌。古帝国の名工が彫りし”美の女神”像もそちには負ける。でも、わらわだって大人になれば同じくらい美人になるぞ――たぶん」
オルフェウスは少女の言葉の意味を掴みかねているのか、首をかしげるだけだった。
次の瞬間、激しく卓を叩いて立ち上がったのはイセリアだ。
「こんのクソガキ!! さっきから聞いてればなんなのよ一体! あたしたちに喧嘩売ってるわけ!? 身のほど思い知らせてやるわよ!!」
「そういきり立つでない。ほれ、周りの客も迷惑しているぞ」
「関係ないわ!! だいたい、あんた誰なのよ!!」
「わらわか? わらわは――」
言いさして、少女はくんくんと鼻をひくつかせた。
「ふむ、ずいぶん芳しい香りがするではないか――」
ひょいと柵の隙間をくぐり抜けると、少女は三人の卓のそばに立つ。
そして、まだほのかに湯気を立てている甘果餅を見つけるなり、
「そちら、これなるをわらわに献上せよ。よいな?」
すばやく蒸籠からつまみ上げ、そのまま二口ほどで食べきってしまったのだった。
イセリアはしばらくあっけにとられたように見つめていたが、はたと我に返る。
「あ、あんた……よくもあたしの
「何を言うかと思えば、そのような行儀の悪い真似が出来るはずがなかろう?」
「いまさら行儀なんか気にしてんじゃないわよ!!」
イセリアは少女の細い両肩を掴んで前後に激しく揺さぶる。
「いいから返しなさいよ! 泥棒!」
「そち、言葉には気をつけるがよい。わらわに献上できたことを光栄に思うがいいぞ? じつに美味であった」
「なにが献上よ! 人のものを横取りしといて、あんたさっきから何様なのよ――」
店先を舞台に繰り広げられるイセリアと少女の押し問答は、次第に通行人の注目を集めはじめている。
と、こちらに向かって駆けてくる数人分の足音が響いたのはそのときだった。
「そこの女! 何をしている!」
威圧するように胴間声を張り上げたのは、中央軍の軍服をまとった男だ。
その声に引き寄せられるように、武装した兵士たちが店の前に続々と駆けつけてくる。いずれも中央軍の下級兵士であった。
「いいところに来たわね! こいつがあたしが食べようとしてた甘味を……」
「無礼者!! その御方から手を離せ!!」
「……はあ?」
発言の意味が理解できないといった様子のイセリアに代わって、アレクシオスが兵士たちのまえに進み出る。
「ちょっと待て。一方的に暴力を振るっているように見えても仕方ないかもしれないが、被害者はこっちだ。その娘が突然現れて料理を盗み食いしたんだからな」
「どんな事情があろうと関係ない。その御方から手を離すか、さもなくば力ずくで解放することになるかだ」
隊長格と思しき男はそれだけ言うと、腰に佩いた長剣に手を伸ばす。
三人の騎士と兵士たちのあいだにひりつくような緊張が走る。
騒乱の中心にいる少女はといえば、なにか面白い余興でも始まったかのように目を輝かせている。
碧い瞳を大きく見開き、ふたつの集団に交互に視線を巡らせているのは、役者の品定めをしているつもりか。
いつのまにか周囲では野次馬が群れを成している。興味本位の群衆は、どちらかが竹の柵を踏み越えるのを心待ちにしているようだった。
「――双方とも、そこまでにしておくことだ」
ふいに声が湧いた。凛とした声であった。
並み居る群衆を割るようにして進み出たのは、ひとりの東方人の女だった。
濃い
すらりと伸びた脚。精緻な工芸品みたいな手指。一切の贅肉を削ぎ落とした身体つきは、研ぎ澄まされた刀剣を彷彿させた。
その身体を形作る何もかもが、凡百の女とは一線を画している。
「あ、あなたは――」
「お前たちは下がっていろ。ここからは私が引き受ける」
中央軍の兵士たちは逃げるように四方へ散っていく。
彼らはいずれも生粋の西方人である。
『東』の支配階級である彼らが東方人――それも女に対してこうまでへりくだるなど、傍目には奇怪な光景以外のなにものでもない。
女はアレクシオスたちのほうに視線を向けると、にこりともせず問うた。
「
「なぜ俺たちのことを知っている? おまえは何者だ?」
アレクシオスは依然として警戒を緩めようとしない。
一触即発の危機はひとまず去ったとはいえ、目の前の女の正体が判明するまでは油断は禁物だった。
「もちろん知っているさ――私も君達とおなじ
アレクシオスの顔に一瞬驚愕の色がよぎった。
女はそれ以上の問答は無用とばかりに少女のまえまで進み出ると、膝を突いて跪拝の姿勢をとる。
「公主さま、遅くなってまことに申し訳ありません。お迎えにあがりました」
「うむ――タレイア、出迎えご苦労であった。もう少し遊びたかったが、このあたりが潮時であろう。あまり帰りが遅くなると兄上様にもご心配をかける」
少女は鷹揚に肯んずると、女に伴われて茶楼の敷地を出る。
「こ、公主さま……って、あんたまさか……」
「おお、そういえば、わらわの名を教えていなかったな」
信じられないといった声音で呟いたイセリアに、少女は無邪気そのものといった笑顔を向ける。
「わらわの名はラエティティア――ラエティティア・アエミリウス。皇帝陛下の末娘にして、ルシウス兄上の最愛の妹じゃ!」
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