第88話 姫君来たる(二)

 夕刻――。


 帝城宮バシレイオンの一室に少女は佇んでいた。

 ベランダの手すりに肘を乗せ、碧い双眸は先ほどからじっと窓の外を見つめている。

 視線の先には、いましも夕闇に包まれようとしている帝都が広がっている。

 きらきらとまたたく光は、通りの各所に設置された街灯だ。高所から見下ろすと、まるで街じゅうに無数の宝石を散りばめたみたいにみえる。

 昼と夜の端境にあたるこの時間、帝都まちはそのどちらとも違う特別な顔をいっとき覗かせるのだった。


「わらわはもっと遊びたかったのに――」


 ラエティティアは不満げにため息をつく。

 タレイアによって帝城宮に連れ戻された彼女は、教育係でもある女官長からたっぷりと説教を受け、つい今しがた解放されたばかりだった。

 女官長はラエティティアが突然姿を消したことでどれほど迷惑がかかったか、もし何事かあったらどれほど皆が嘆き悲しむかをくどくどと説いたが、その長広舌は少女の心にはわずかも響くことはなかった。


 内心はどうあれ、ラエティティアは人前で不貞腐れるような愚は犯さない。

 反省している素振りを演じるのは手慣れたものだ。叱られてとした様子を見せれば、周りの大人がころりと騙されることも知っている。

 女官長にしても、今ごろはすこしきつく言い過ぎたのではないかと自責の念を抱いているはずであった。


 それは少女が誰に教わることなく身につけた処世術だった。

 周囲の大人たちを手玉に取ることで、ラエティティアは窮屈ながらそれなりの自由を謳歌してきたのだ。


「まあ……兄上様が仰っていた戎装騎士ストラティオテスたちの顔も見られたし、よしとするかの。美味な料理も食べられたことであるし――」


 ラエティティアはひとしきり頷いたあと、ふたたび市街地に視線を向ける。

 黄昏時の光と影は不安定で気まぐれだ。その色彩は刻々と移り変わり、いまはまるで違う表情をみせている。


 ――夜の帝都はどんなところなのだろう?


 ラエティティアは、父や兄のいる帝都をこれまで何度となく訪れている。

 それでも、自分の意志で街を自由に歩いたのは、今日が正真正銘はじめてだった。

 昼の街を知ったからには、次は夜の街にも出かけてみたくなるのが人情というものだ。

 とはいえ、皇帝の娘であるラエティティアに夜間の外出など許されるはずもない。

 少女にとって夜の帝都はまったく未知の世界であり、遠くから眺めるだけの場所だった。

 だからこそ強く惹かれる。

 手が届きそうで届かないものほど、人の興味をかき立てるものはない。


 領地の屋敷にいたころ、小間使いの女たちが話しているのを何度か耳にしたことがある。

 夜の帝都はそれはそれは殷賑さかえていて、一晩中祭りみたいな喧騒がむことはない。男も女も着飾って舞い踊り、この世とは思えぬほど華やかで楽しい場所なのだと。

 熱っぽく語っていた小間使いも、実際に足を運んだかどうかはあやしいものだ。

 だが、たとえ田舎娘の他愛ない作り話だとしても、ラエティティアにはまるで魔法の呪文みたいに聞こえたのだった。それは少女をまだ見ぬ世界へといざなう呪文であった。


 ――一度でいいから、行ってみたい。この目でたしかめてみたい。


 怖くないといえば嘘になる。

 本当のことを言えば、昼間でさえ恐ろしかったのだ。一人の供回りも連れず、不案内な路地に入っていく心細さは、いま思い出しても足がすくみそうになる。

 そんなときにルシウスが語ってくれた戎装騎士たちの姿を見かければ、おもわず駆け寄ってしまうのも当然だ。あの兄上様がだれよりも頼りにしている騎士たちは、自分にとっても心強い味方であるにちがいないのだから。


 碧く澄んだ瞳を窓の外に向けたまま、わずかな時間が流れた。

 ラエティティアはすっくと立ち上がると、意を決したように窓辺から離れる。

 案の定と言うべきか、少女の旺盛な好奇心は、ためらいと恐怖を塗りつぶしたのだった。

 ラエティティアはドアの前まで来ると、わざと不規則にノックする。

 その音を聞きつけた護衛の兵士がドアを開けると、


「わらわはのどが渇いた――そち、水を一杯持ってきてくれぬか」


 いかにも哀切な声音で訴えたのだった。


「少々お待ちを。すぐに女官に白湯さゆを持ってこさせます」

「待てぬ! のどが渇いて死んでしまいそうなのだ。もしわらわが死んだら、そちは責任を取れるのか?」

「そ、そのように申されましても……」


 困惑しきった面持ちの兵士から一瞬視線をそらし、ラエティティアは周囲の様子をさぐる。

 どうやら他に護衛はいないらしい。たまたま護衛の兵士が一人になる時間帯だったのか、それとも他の兵士が持ち場を離れているのかは分からないが、ラエティティアにとっては好都合だ。


「わらわは何も無理難題を申しているわけではない。そちがひと走りして持ってきてくれればよいのだ」

「私はこの場から片時も離れぬように堅く仰せつかっております」

「頑固なやつだの――お付きの兵に意地悪をされたと皇帝陛下や兄上様に言うてもいいのだぞ」


 その瞬間、兵士の顔色が変わったのをラエティティアは見逃さなかった。

 この帝城宮バシレイオンに出仕する人間にとって、皇帝と皇太子の不興を買うほど恐ろしいことはない。


「何をグズグズしておる? はよう水を汲んでくればよいだけのこと――簡単であろう」

「……承知しました。私が戻るまで、ここから決してお出になりませぬよう」


 兵士は何度も後ろを振り返りながら、小走りに駆けていく。

 その後ろ姿が見えなくなったのを見計らって、ラエティティアは何食わぬ顔で部屋を出る。


「さてさて……どうやって街まで辿り着いたものかの?」


 ラエティティアは不敵に笑うと、足取りも軽く廊下を走り出していた。


***


 夕映えが庭園を染めていた。


 帝城宮バシレイオンの一角に設けられた広場は、別天地とでも言うべき趣を帯びている。

 整然と配置された大小の庭石、高所にもかかわらず豊かな水を吐出しつづける噴水、いずれ劣らぬ見事な枝ぶりをほこる木々……。

 庭園に存在するあらゆる事物が、この場所が並々ならぬ労力を費やして建設されたことを雄弁に物語る。

 すべて『帝国』が最も輝いていた時代――古帝国の全盛期の様式を精巧に再現したものだ。思い出がつねに美しいものならば、二度と戻らない過去への郷愁が結晶したこの庭園が美しいのも道理といえた。


 歴代の『東』の皇帝が愛したこの庭園も、近ごろはめったに訪れる人もない。

 いまも花壇に水をやっている女がひとりいるだけだ。

 西方人の女であった。

 齢は二十歳には届いていないだろう。落ち着いた横顔には、少女らしいあどけなさが残っている。

 膝まで届く金髪はほとんど銀色にみえる。色素がきわめて薄いためだ。肌の色も雪膚というよりはいっそ透明に近い。

 すこし目を離した隙に大気にすっかり溶け込んでしまいそうな、それはなんとも儚げな美貌であった。


「……おかえりなさい、タレイア」


 女は花壇に顔を向けたまま、独り言みたいに言った。

 その声に応えるように、女の背後に人影が湧いた。まったくの無から一瞬に生み出されたような出現であった。


「こちらから声をかけようと思ったが……まったく、お前には敵わないな」

「私たちはですもの。近くにいれば分かるわ」

「そういうものかな。――ただいま、アグライア」


 照れくさそうに言うタレイアに、アグライアは微笑を向ける。


「公主さまは無事に見つかってよかったわ」

「見つけ出すのにだいぶ骨が折れたよ。そうそうお前の力を使う訳にもいかないからな。しかし、まさかあいつらと一緒にいるとは思わなかった」

「あいつら?」

「お前も知っているだろ。あの問題児の三人組だよ」

「ああ、――」


 その言いぐさが笑壺に入ったのか、アグライアは小さく肩を震わせた。

 タレイアはやれやれと言うように首を横に振る。


「だからエウフロシュネーをお目付け役につけたということだが、あれでは無理もない。今日もあと少しで中央軍の兵士といざこざを起こすところだった」

「でも、何事もなく終わったのでしょう?」

「当然だ。この私の前で迂闊な真似はさせるものか。いざとなれば、あの三人くらいなら押さえ込んでみせるさ」


 タレイアは誇らしげに言うと、砂色サンドイエローの髪をかきあげる。

 と、庭園の入口のあたりで物音がしたのはそのときだった。

 二人は視線をおなじ方向に向ける。戎装騎士のすぐれた聴覚は、騒音の発生源を瞬時に割り出す程度は造作もなくやってのけるのだ。


「誰だ?」


 タレイアが険しい声で誰何すいかする。

 この場所は、ほかならぬ皇帝のために作られた庭である。宮中に仕える人間であろうと、おいそれと足を踏み入れていい場所ではない。

 返答次第では即座に排除に移る。そんな剣呑な響きを込めた声であった。


「あのっ――」


 傍らの植え込みから転げるように現れたのは、ふくよかな体型の四十女だった。

 官服を身に着けていることから、皇族に近侍する女官――それもかなり位の高い人物らしい。

 しかし、何かにつけて優雅な立ち振舞を義務付けられている女官がこれほど慌てふためくとは。


「もし、公主さまを……ラエティティアさまをお見かけになりませんでしたか!?」

「……なにかあったのか?」

「つい先ほど、お付きの兵が目を離した隙に部屋から出てしまわれて……手分けしてお城のなかを探し回っているのですが、まだ見つかっていないのです!!」


 泣き出しそうな声で事情を説明する女官に、タレイアは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。

 アグライアは「あらあら」と驚きとも困惑ともつかない声を漏らすと、女官とタレイアを交互に見つめるばかりだった。


「よく聞け――あの方はおそらくもう帝城宮バシレイオンのなかにはいらっしゃらない。すぐに捜索隊の手配を。城から出た馬車をすべて調べさせ、行き先を報告するよう伝えてもらいたい」


 タレイアは女官に指示すると、アグライアにちらと視線を送る。


「アグライア、エウフロシュネーは?」

「まだ戻らないわ。いくらあの子が飛べると言っても、カルガヌムはずっと南ですもの。戻ってくるのは、早くても今日の真夜中……」

「仕方がない。こうなったら、私たちだけで公女様を探し出すしかないな。夜の市街に出られると厄介だが……」


 タレイアは忌々しげに夕陽を睨む。

 赤金色の残光の尾を引きながら、太陽は山々の稜線に没しようとしている。

 日没まであと三十分。

 ラエティティアが城外に出ているとすれば、もはや一刻の猶予もない。


「出来れば頼りたくはないが、いまは選り好みをしている場合ではない……か」


***


 酒楼(酒場)は酔客であふれかえっていた。

 陽気な雰囲気の店内にあって、そのテーブルだけは暗く沈んでいる。


 男が二人座っていた。

 ひとりは髭面の巨漢だ。腕は丸太みたいに太くたくましいが、背を丸めているためにさほど大きくは見えない。

 怯えた目できょろきょろとあたりを見回したかと思うと、思い出したようにちびちびと酒を舐める。

 先ほどから何度同じ動作を繰り返したか知れない。髭面の男はそれを自覚してすらいないようだった。


 もうひとりの男は、どことなく蜥蜴トカゲを彷彿させる顔つきであった。

 生来の顔貌というよりは、内面の狡猾さや抜け目のなさが表情ににじみ出ているのだ。

 蜥蜴面の男は酒盃をひと息に煽ったあと、髭面の男を睨むと、


「それでよ、てめえ、いい加減に決心はついたんだろうな?」


 とびきりドスの利いた声で訊いた。


「あ、ああ……でも……やっぱり他に方法があるんじゃないかと……」

「おい、こら――今さら逃げられると思うなよ。誰のせいでこうなったと思ってんだ? ああ!?」

「たしかに俺が作った借金のせいであんたにも迷惑かけたよ……それは分かってる……」

「分かってんなら四の五の言わずにやればいいじゃねえか」

「で、でもよう! 金持ちの子供をかどわかして身代金せしめようなんて、俺には……!!」


 髭面の男の口を蜥蜴面の男の手が塞いだ。


「馬鹿野郎、声がでけえ!!」

「す、すまん……」

「とにかく、それらしいガキを捕まえて親を強請るのよ。金持ちってのは大抵ケチなもんだが、そんな連中でも自分の子供は可愛いもんよ。しぶるようなら指の一本でも切り落として送りつけてやればイチコロよ」

「指なんて……俺には出来ねえよ……そんなかわいそうなこと……」

「バカ、絶対に切れなんて言ってねえ。相手が素直に金を払えばそれで済むんだからよ」


 蜥蜴面の男はうんざりしたように言うと、酒盃に残っていた酒を一気に飲み干した。


「いいな、今夜じゅうにはやるんだぜ。男よりは女のほうがいい。どんな親でも息子より娘のほうが可愛いもんだ。ふらふら夜遊びしてるような頭の軽い娘を路地裏に連れ込んじまうんだ。分かったな?」


***


 目に映るすべてが新鮮だった。

 同じ街並みも、昼と夜とではまるで違ってみえる。

 太陽が沈むのにあわせて、街全体が不思議な魔法をかけられたかのように――。


 ラエティティアは、帝都を南北に貫く目抜き通りをひとり歩いていた。

 時刻はまだ宵の口である。どの通りも昼よりも混雑しているようにみえるのは、仕事を終えて帰路につく人々と、夜の街に繰り出す人々とが混じり合うためだ。

 ラエティティアの屋敷がある地方では、太陽が沈めばそれで一日は終わる。

 日没後に昼間よりも大勢の人が集まるなど、とても考えられないことだった。


 人の流れに揉まれるようにして進むうちに、露店が立ち並ぶ通りに出た。

 そこは夜の帝都でもきわだって猥雑な一角だった。

 露店といっても、簡素な柱にボロ布を渡しただけのものだ。

 狭い路地に並んだ露店には、この世のありとあらゆる職業が勢揃いしているのではないかと思われた。

 あやしげな精力剤や軟膏を売る薬屋に、得体の知れない獣肉をいっぱいに吊り下げた肉屋、遠い昔に滅び去った東方諸国の壺や剣を並べた骨董屋、占い師に鍼灸師……。

 売る側も買う側も東方訛りがひどい。彼らの口から発せられる言葉の大半は、聞くに堪えない下劣な卑語スラングであった。

 俗世間から隔離されてきたラエティティアにとって、それはまるで別の国の言葉みたいに聞こえるのだった。


「そこのお嬢ちゃん! よかったら見てってよ!」


 ふいに呼び止められ、ラエティティアは足を止める。

 声のかかった方向を見れば、浅黒い肌の男が手招きをしている。


「これは何をしているのだ?」

「うちの自慢のさ。お嬢ちゃんには今から作るところを見せてあげる」


 店主は台の上に置かれた飴の塊を手に取ると、米粉をまぶしながら器用に引き伸ばしていく。

 不格好な塊だった飴は次第に細く、しなやかに伸ばされ、ついにはふわふわとした綿状になった。この形こそヒゲ飴という呼び名の由来でもあるのだ。

 ラエティティアは飴の形が変わっていく過程を食い入るように見つめていたが、やがて感極まったように手を叩いた。


「すごい! なんと見事な腕前じゃ! わらわは感動したぞ!」

「そりゃどうもね。お嬢ちゃん、今ならお安くしておくよ。なんとたったの三十ディナル――」

「よし、買った!」

「へい、まいど――」


 ラエティティアが突き出したものを見て、店主はあやうく卒倒しかけた。

 何度見直しても、それはまごうかたなき十万ディナル金貨であった。

 歯を立ててみると、わずかに歯型がついた。粗悪な私鋳銭や偽銭であればこうはいかない。


「そちは金を食うのか? 変わった奴だの」

「あ、あの、釣り銭……」

「そちに与えたものだ。遠慮はいらぬ、取っておくがよい!」

「ま、ままま、まいどあり……」


 その後も、ラエティティアはあちこちの露店に顔を出しては、同じことを行った。

 すなわち、大道芸から駄菓子まで、自分を感動させた技芸の持ち主には惜しげもなく金貨を与えたのだった。

 金貨を配って歩く少女の噂は、夜の帝都にまたたく間に広がっていった。


 中央軍の捜索隊が駆けつけたときには、その姿は忽然と消え失せたあとだった。

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