第84話 この空の下で…

 「二人とも、無事でなによりだった――」

 ルシウスはエンリクスとデキムスをそれぞれ一瞥すると、そっけなく言った。

 一同はすでにネヴァラの浜辺を離れ、岬の上の屋敷に戻っている。

 デキムスとエンリクスはルシウスのまえに引き出され、その周囲を騎士たちとラフィカ、ヴィサリオンが囲むかたちになった。――ただひとり、エウフロシュネーだけがいない。

 屋敷に帰り着いたあと、青い髪の少女はそのまま忽然と姿を消したのだった。

 去り際にルシウスとなにやら言葉を交わしていたようだが、ことさらに気に留める者もない。

 誰もがルシウスとデキムス、そしてエンリクスの三者の動向を固唾を呑んで見守るばかりであった。

 ラベトゥルの拷問によって一時は前後不覚に陥ったデキムスだったが、いまではすっかり正気を取り戻している。

 それも齢七十近い老人とは思えぬほど鍛えられた肉体と、強靭な精神力の賜物であった。

 デキムスは唇を固く結び、俯いたまま一言も発しようとしない。

 代わりに口を開いたのはエンリクスだ。

 「叔父上、私は……」

 エンリクスは意を決したようにルシウスの目を見据えると、

 「すべて私が悪いのです。どうかおじいさまを責めないでください!」

 物怖じすることなく言ってのけた。

 「そうか」

 ありったけの勇気を振り絞ったエンリクスに対して、ルシウスの答えはあくまでそっけない。

 どちらもそれきり言葉が途切れた。気まずい沈黙が場を包む。

 雰囲気を変えようにも、誰にもその糸口は見いだせない。

 ルシウスとエンリクス以外の誰が何を言ったところで、およそ場にそぐわないものになることはあきらかだった。

 と、ルシウスがようやく口を開いた。

 「今回の一件では双方に少なくない犠牲が出た。その責は誰かが負わねばならん。分かるな、エンリクス?」

 ルシウスはエンリクスと真正面から相対し、潤んだ瞳を覗き込みながら告げる。

 デキムスがエンリクスを押しのけて前に進み出たのはその時であった。

 「もうよい! ――そこまでにしておけ、ルシウス。エンリクスには何の罪もないことはお前も分かっていよう。すべての責めは儂にあるのだ」

 デキムスはなおも続ける。

 「お前が報復を望むなら、儂はこの生命を差し出そう。儂はお前の生命を狙ったのだ。お前の気が済むなら、この身がどうなろうと構いはしない」

 「元老院議長、どうやら思い違いをしているようだな」

 「なに?」

 面食らった様子のデキムスをよそに、ルシウスはまるで独り言みたいに言葉を紡いでいく。

 「これは皇位継承者である余とエンリクスの問題だ。我らからみれば臣下にすぎない貴様の意見など聞くつもりもなければ、此度の一件の責めを負わせるなどもってのほか――余計な口出しは無用に願おう」

 そして、ルシウスはふたたびエンリクスに視線を向けると、

 「エンリクス、すべての責めはそなたにある。たしかにそなたはまだ幼い。だが、それが何の言い訳にもならないことも、そなたはよく承知しているはずだ」

 声を荒げてなじるでもなく、冷酷に突き放すでもなく、一語一語噛み含めるように言い聞かせる。

 感情を抑制しているだけに、エンリクスにとってはルシウスの言葉のひとつひとつが心に重く染み入ってくるようであった。

 「……分かっています、叔父上」

 エンリクスは俯きながら、震える声で答えた。

 「私はどのような罰を受けても構いません。だから、おじいさまは、どうか……」

 「その言葉、一度口にした以上はもはや覆すことは能わぬぞ」

 ルシウスはエンリクスの手を取り、半ば強引に立ち上がらせる。

 そして、青白い顔で立ち尽くすエンリクスに顔を近づけ、ちいさく耳打ちをする。

 「叔父上、私は……!」

 ルシウスは何も言わず、ただ頷いただけであった。

 エンリクスから視線を外し、部屋のなかにいる全員の顔をざっと見渡す。

 血の気の失せたデキムス、不安げな面持ちで二人のやり取りを見守る騎士たちとヴィサリオンに対して、ラフィカはただひとりだけ薄い微笑を口辺に漂わせている。

 「これより余みずから裁定を下す。皆にもしっかりと見届けてもらうとしよう」

 言い終わるより早く、ルシウスはエンリクスの手を引いて歩き出していた。

 

 早朝の海をおだやかな風が渡っていく。

 ルシウスに率いられた一同は、屋敷の庭を抜けたところで足を止めた。

 そこは屋敷の裏庭――とは名ばかりの、猫の額ほどの広さの荒れ地であった。

 下草が繁茂し、大小の石塊が無造作に転がる。岬の先端に向けて徐々に細くなっていく地面には、むろん柵など設けられてはいない。

 ろくに人の手が加えられていないのは、理由がある。

 いま、一同の眼前に開けた眺望は、まさに絶景というほかない。

 パラエスティウムの城市と湾の全景、さらには水平線の彼方で海と空の色が混じり合う様子さえも遠く見晴るかすことができる。

 湾内を行き交う船の軌跡、絶えまなく打ち寄せる白い波濤……ありのままの風景を楽しむために、あえてこの一角は手つかずのまま放置されているのだ。

 波の音を遠く聞きながら、ルシウスはエンリクスとともに岬の細い道を進んでいく。

 「……何をするつもりだ」

 二人の背に向かって、デキムスは震える声で問うた。

 岬の下には落差百メートルは下らない断崖絶壁がそびえている。 

 うっかりと足を踏み外したが最期、まず助からない高さだ。

 足場が悪いうえ柵もなく、しかも時おり海風が横合いから強く吹きつけてくる。

 このような危険な場所にエンリクスを連れ出すなど、デキムスにとってはおよそ許容しがたいことであった。

 ルシウスは答えなかった。

 ただ、手をかざしてデキムスを制止するのみ。

 デキムスは拳を握りしめたまま、遠ざかる二人の後ろ姿を見つめている。

 下手に動けば、エンリクスの身に何が起こるか知れない。

 仮に飛び出したとしても、傍らの騎士たちとラフィカにすぐに取り押さえられるのは自明であった。

 やがて、ルシウスとエンリクスは岬の突端ちかくで立ち止まった。

 ルシウスはその場で一言二言、小さな声でなにごとかを囁いたようだったが、当人たちの他には聞こえるはずもない。

 エンリクスはちいさく頷くと、デキムスにちらと視線を向けた。

 少年のつぶらな双眸はかすかにうるみ、まるで今生の別れを惜しむかのような悲哀の感さえ漂っている。

 最愛の孫の様子にただならぬものを感じたのか、デキムスはたまらず手を伸ばす。

 追いすがる祖父にはもはや目をくれず、エンリクスはひとり、岬の突端に向かって歩を進めていた。

 「エンリクス、待て――!!」 

 デキムスの悲痛な絶叫が朝の空にこだまする。

 騎士たちとヴィサリオンもここに至ってようやく尋常ならざる事態を察したのか、無意識のうちに一歩を踏み出していた。

 それを押しとどめたのはラフィカだ。

 静かに首を横に振り、余計な手出しは無用と言うように目配せをする。

 エンリクスはすでに岬の終端に辿り着いていた。おぼつかない足元を踏みしめるようにして、半身だけで後方を振り返る。

 幼くも気高い顔に、ふっと儚げな笑みが浮かぶ。

 それはいままで自らを守り育ててくれた祖父、そして敬愛する叔父に向けたものだ。

 刹那、エンリクスのちいさな身体が宙を舞った。

 少年はわずかの躊躇もなく、その身を断崖から投げたのだ。

 デキムスはがっくりと膝から崩折れる。

 「なぜ……」

 それは、臓腑の奥底から絞り出すような、苦しくも痛切な叫びだった。

 「なぜあの子を殺した? すべての罪は儂にあると言ったはずだ! ルシウス、貴様は自分が何をしたか分かっているのか!?」

 ルシウスはやはり黙したまま、何も答えようとはしなかった。

 後ろで見守っていた騎士たちとヴィサリオンも言葉を失っている。

 たとえ傀儡にすぎなかったとしても、エンリクスはいわば反ルシウス派の象徴である。暗殺の企みが露見した以上、最も重い責めを負うのは道理だ。

 本来であればデキムスともども刑場に引き出され、一命を以ってその罪を贖わねばならない。

 いにしえの時代から骨肉の争いが絶えない『帝国』において、謀反人の処刑は見せしめの意味を帯びる。エンリクスとデキムスは、ともに苦痛と恥辱に満ちた刑に処せられるはずであった。

 自死を選ばせたのは、せめてもの情けと言えるだろう。

 それでも、血の繋がった年端もいかない甥をこのような形で死に追いやるとは、ルシウスらしからぬ冷酷さであった。

 「おお――!!」

 デキムスは身体をくの字に折り、地面に顔を押し付ける。

 大柄な体躯を震わせ、嗚咽を漏らす。それは恥も外聞も振り捨てた醜態であった。

 皇帝の実弟として中央政界に君臨し、権勢をほしいままにしていた元老院議長の面影はもはやない。

 悲嘆と悔恨、そして愛する孫を死に追いやった自責の念は止めどもなく、狂おしいほどの情念は炎となって心身を灼き尽くす。

 胸のうちで際限もなく膨れ上がっていくやり場のない感情に押しつぶされ、デキムスはついに力なく膝を突いたのだった。

 「儂を許してくれ……許してくれ……エンリクス……――」

 呆けたように同じ言葉を繰り返すデキムスに、騎士たちもヴィサリオンもかける言葉を見つけられずにいる。

 奇妙な音が沸き起こったのは、まさにその瞬間だった。

 大気を切り裂き、轟然と響き渡るその音を、アレクシオスはたしかに記憶していた。

 一瞬の間をおいて、断崖のはるか下方から青い影が空に駆け上がる。

 有翼の戎装騎士――エウフロシュネー。

 見渡すかぎりの空と海の境界線あわいにあって、そのどちらとも異なる蒼を帯びた装甲がきらきらと光を散らす。

 エンリクスはその腕に抱かれて、まっすぐに空へと昇っていく。

 重なり合った二つの影は、遠ざかるにつれて青空にぽつんと浮かんだ黒い点へと変わる。

 やがて一定の高度に達すると、それははるか沖合へと飛び去っていった。

 「ルシウス、どういうつもりだ!?」

 デキムスの問いは当然だ。

 ルシウスは見る間に遠ざかっていくエンリクスを見送りながら、

 「見てのとおり、エンリクスに然るべき裁定を下したまでのこと――」

 こともなげに言ってのけた。

 「エンリクスにはこのまま『西』へと旅立ってもらう」

 「なんと?」

 「この国にいるよりはよほど安全であろう。プラニトゥーデ家に預ければ、悪いようにはしないはずだ」

 あのとき――

 ルシウスはエンリクスの耳に顔を近づけ、次のように語った。


 ほとぼりが冷めるまで、『西』で暮らすこと――

 それがエンリクス自身の、ひいては一連の事件の首謀者であるデキムスのためでもあるということ――

 プラニトゥーデ公は自分の育ての親であり、事情を知ればきっとエンリクスを暖かく迎え入れてくれるであろうこと――


 そして、ルシウスは最後に一言、こう付け加えたのだった。

 「もし帝位が欲しくなったら、いつでもこの国に戻ってくるがいい。そなたには正当な資格がある。余はよろこんで玉座を譲ろう」 

 「それでは、叔父上はどうなるのです?」

 不安げに問うたエンリクスに、

 「そなたが気にすることは何もない。そのときは、またプラニトゥーデのエミリオに戻るだけだ」

 ルシウスはそれだけ言って、いつものように鷹揚に微笑んだのだった。

 いま、エンリクスはエウフロシュネーとともに沖合の船に降り立とうとしている。

 昨夜のうちにフィオレンツァがあらたに用立てた船であった。

 風を帆に受けた船ははるかな海原を越え、やがて『西』の領海に入る。

 故郷を遠く離れた異国の地で、エンリクスは新しい人生を送ることになる。三大諸侯のひとつであるプラニトゥーデ家の庇護を受けたならば、少年の前途は決して暗いものにはならないはずだ。

 デキムスはようよう息を整えると、ルシウスの目をまっすぐに見据える。

 「では、エンリクスは……エンリクスは助かるのだな?」

 「無論だ。あの子は亡き兄上の忘れ形見。どうあっても生きていてもらわねば困る」

 「しかし、なにも『西』に送ることは……」

 なおも食い下がろうとするデキムスに、ルシウスは冷たく鋭い視線を向けた。

 「そもそもは元老院議長、そなたの野心がすべての元凶だということを忘れたか? 怪しげな刺客を雇い入れ、そのためにエンリクスの生命まで危険に晒したのだ。幼い子供を政争の道具とした報いは受けてもらわねばならぬ」

 ルシウスはそれだけ言うと、その場でさっと踵を返す。

 もはや言葉もなく、滂沱の涙を流すばかりのデキムスを一瞥もしなかったのは、ルシウスなりの気遣いであった。

 「待て!!」

 「……何か、元老院議長?」

  ルシウスは背後からかかった声に足を止めると、振り向かずに問い返した。

 「エンリクスを生かしてくれたことには礼を言う。……次なる皇帝となる貴様に、儂からひとつ忠告を贈ろう」

 ルシウスとデキムスは、そびら合わせの格好のまま言葉を交わす。

 「……貴様の顔には凶相がみえる。我らが父――貴様の祖父とおなじ凶相がな」

 「祖父は名君であったと聞いている」

 「名君か。それも一面の事実だろう――それ以上に、あの男は恐るべき狂帝であった。おびただしい血が流れ、人心はかつてなく荒んだ。貴様も同じ轍を踏まぬよう、ゆめ気をつけることだ」

 くだらない戯れ言と切り捨てるには、一つひとつの言の葉があまりにも重い情念をまとっている。デキムスなりに本心から新皇帝の行く末を案じているようであった。

 ルシウスはほんの一瞬、まぶたを閉じて何かを考えるような素振りを見せた。

 「……忠告は心に留めておこう、元老院議長」

 それだけ言うと、ルシウスはふたたび屋敷にむかって歩き出した。

 一様に安堵の表情を浮かべた騎士たちとヴィサリオン、そしてラフィカが出迎える。

 「それにしても、ああすると決めておられたなら先に言ってくださればよかったのに。みんな心配していたようですよ」

 ルシウスの顔を見上げ、ラフィカはいたずらっぽく言った。

 「おまえはさほど心配していなかったように見えたぞ」

 「もちろん――殿下のお考えはこの世のだれよりも分かっているつもりですから」

 自信に満ちたラフィカの言葉に、ルシウスはふっと頬を緩ませる。

 気づけば、陽はすっかり高くなっている。

 すでにパラエスティウムの市中では皇帝承認の儀式を執り行うための準備が進んでいることだろう。

 運命の日がいよいよ始まろうとしている。

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