第99話 帰郷・遠い日の二人 (三)(完)

「おめでとう――と、言うべきなのでしょうね」


 シルヴィアを一瞥したあと、ヴィサリオンは川面に視線を落とした。

 何を見ているわけでもない。ただ、流れゆく水をじっと見つめている。

 おなじように見えて、目の前の水は絶え間なく入れ替わっている。一度過ぎていったものは二度と戻らない。


「あなたに言われてもうれしくないわ」

「だったら、なぜそんな話を?」

「べつに。話したくなったから話しただけよ。本当にそれだけ……」


 シルヴィアは言葉を切ると、傍らの青年に倣って川面を見つめる。

 肩が触れあいそうな距離。すぐそこに互いの体温が息づいている。

 それでも、二人が見ているものがおなじだという確信はなかった。こんなにも近くにいるのに、実際は何ひとつ共有しているものなどないのかもしれない。


「……なんで黙るのよ」

「先に黙り込んだのはあなたですよ」

「気にならないの? 私の結婚相手のこととか……」


 シルヴィアはすねたように唇を尖らせる。


――もっと根掘り葉掘り訊いてほしい。

――私に関心を持っているところを見せてほしい。


 言外にそう伝えようとしているのはあきらかだった。


「分かりましたよ。お相手の男性の名前をお伺いしてもかまいませんか?」

「ハリラオス。中央軍の将軍よ。以前お父様の部下だったの」

「なるほど――」


 ヴィサリオンは納得したように深く頷いた。


 ハリラオス将軍の名は何度か耳にしたことがある。

 とかく黒い噂の絶えない中央軍にあって、その精勤ぶりと清廉な人柄で知られた人物だった。

 おなじ西方人よりも、本来嫌悪されて然るべき東方人からの人望のほうがずっと厚いという事実は、かの将軍の人柄を如実に物語っている。

 シルヴィアの父・ランブロス将軍にとっては自慢の部下であるはずだ。互いの地位がどう変わろうとも、ひとたび結ばれた上官と部下の関係は一生続く。ランブロス将軍が娘の嫁ぎ先にハリラオスを選んだのも道理だった。彼ならば娘を託すに足る相手と判断したのだろう。


「彼、ずっと連れ添っていた奥さんを五年前に病気で亡くしたの。私は後妻に入ることになったのよ。むこうは十七も歳上だけど、嫁き遅れの年増にはお似合いの相手ってとこね」

「そのような言い方をしては――ハリラオス将軍は立派な軍人です。お父上も安心出来るでしょう」

「本当にそう思ってる?」


 シルヴィアは目を伏せたまま問うた。

 風が木々を揺らし、まだらの影が赤い髪に踊った。


「相手が立派かどうかなんて関係ない。お父様が安心出来るかどうかもよ。私が知りたいのは、あなたはどう思ってるのかだけ」

「それは……」


 問われて、青年は言いよどむ。

 言葉はいつまでも喉を出ていかない。いやに喉が渇く。形を失った言の葉が身体の内側に張り付き、耐えがたい渇きをもたらしているようだった。

 数秒の沈黙のあと、ようやく口を開いた。


「……私には、あなたの結婚についてなにかを言う権利はありません。許嫁だったのも昔の話です。現在いまの私に出来ることがあるとすれば、あなたの門出を祝福することだけです」

「そう――」


 シルヴィアの返答はそっけない。

 その答えが返ってくることは、最初から分かっていたとでも言いたげであった。


「ねえ、私に黙って消えてしまったこと、すこしは悪いと思ってる?」

「もちろんです――」

「だったら、罪滅ぼしをしてちょうだい」


 返答の暇を与えぬまま、シルヴィアは矢継ぎ早に言葉を重ねる。


「謝罪の言葉なんていらない。『ごめんなさい』なんて聞きたくない。ねえ、私と一緒に逃げてよ。私をどこか遠くへ連れて行って」

「どこに……?」

「どこだってかまわないわ。なんなら『西』だっていい。私とあなたがいればそれで十分。他になにも要らないし、ほしくない」


 シルヴィアの声には嗚咽が混じりはじめていた。


 九年前のあの日、焼け跡で少女が浮かべたあの表情かお――。

 いま、ヴィサリオンの目の前にそれがある。努めて思い出すまいとしていた記憶が鮮明に蘇ってくる。


 息苦しい。指先が熱い。あの日感じた灰燼もえさしの熱さ。

 とうに燃え尽きたはずのそれは、心の奥底でひっそりと熱を保っていた。いまふたたび風を吹き込まれ、はげしく燃え上がろうとしている。


「それがあなたに出来るたったひとつの罪滅ぼしよ。私の人生をすっかり壊してしまったのだから、あなたの人生で償うのは当然でしょう」


 ヴィサリオンを見つめる緑色の瞳は涙をいっぱいに湛えていた。

 こんなところまであの日とおなじだ。

 舞台は違っても、すでに少年と少女と呼ぶには大人になりすぎているとしても。

 過ぎ去ったはずのあの日は、いまここに再演されようとしている。

 決して巻き戻らないはずの時間さえ、すこしずつ逆行をはじめたようだった。

 ふいに声が投じられるまでは――。


「……出来ません」

「なぜ!?」

「それで私がしたことの贖罪になるのであれば、あなたの願いを叶えてあげたい。しかし、そのせいであなたが不幸になるというなら、話は別です」

「幸せか不幸せかなんて、どうしてあなたに分かるのよ!!」

「分かります」


 あくまで静かに、しかし決然とヴィサリオンは言い切った。


「私にはあなたを幸せにすることは出来ません」


――そうだ。

 幸運と幸福は似ているようで、本当はまったく違う。

 それはだれよりもよく知っているはずだ。

 見せかけの幸運をちらつかせ、この女性ひとを不幸へと誘うことは出来ない。

 たとえどんなに望まれても、それだけはしてはならないことだ。


「どうして……」


 シルヴィアは糸が切れた人形みたいに膝からくずおれる。

 緑色の瞳がヴィサリオンをまっすぐに射ていた。涙に濡れた双眸には鬼気迫る美しさが宿る。


「あなたの父上を殺した相手に復讐するため? だから逃げる訳にはいかないの?」

「…………」

「だったら、私も力を貸すわ。私、あなたよりずっと武術の腕は立つもの。一緒に真犯人を突き止めて、そして――」

「それはあくまで私の問題です。あなたには関係ない」


 語気を荒げることもなく、ヴィサリオンはあくまですげなく言った。

 突き放された側としてはよほどつらい。感情の赴くままに怒鳴りつけられたほうがどんなによかっただろう?

 自分に怒りを向けているあいだは、相手の心を独り占めに出来るのだから。

 だが、現実はちがう。心の最も脆い部分に触れてなお、かつての許嫁はわずかな激情ものぞかせない。

 シルヴィアにとって、もはや自分の居場所はどこにもないと宣言されたも同然だった。


「ねえ、私、どんなに貧しくてもかまわない。だれも私たちのことを知らない辺境に隠れましょう。二人でならなんとか生きていけるわ」

「辺境の暮らしはあなたが思っているほど楽ではありませんよ」

「心配ないわ。私、小さいころから厳しい訓練を受けてるのよ。ちょっとやそっとで音を上げたりしない」

「それでも――訓練の時間が終われば、温かい部屋と食事、そして家族があなたを待っていてくれたはずです」


 シルヴィアは言い返せなかった。たしかにその通りだ。訓練中は苦しかったが、終わってしまえば名家の令嬢として扱われる。

 家では父や兄、大勢の使用人たちに囲まれて、生まれてから片時も寂しさを感じたことはない。

 恵まれた人生を送ってきたという点に関しては、シルヴィアも良家の子女の例に漏れなかった。


「私たちのような人間が辺境でひっそりと隠れて生きていくということは、木と土を固めたちいさな家で、泥水を啜って生きていくということです。財産も地位もなく、頼れる人もいない。道行く人々に後ろ指をさされ、石を投げられることもあるでしょう。そんなみじめな人生は、あなたに似合わない――」


 ふとヴィサリオンの面上をよぎった翳に、シルヴィアはすべてを悟った。

 それは大げさなたとえ話でもなければ、伝聞からでっちあげた作り話でもない。

 一つひとつの言葉にはたしかな実感がこもっている。

 実際にそのような生活を経験した人間でなければ、到底そんな言葉を口にすることは出来ない。


 あの日、自分たちの目の前から消えたあと、青年が今日までどこで何をしていたかをシルヴィアは知らない。

 根拠はなかったが、遠い親戚にでも引き取られたのだろうと思っていた。

 以前と変わらずとはいかなくても、それなりに不自由のない生活をしていると信じていた。


 そうではなかった。


 彼は文字通りどん底まで堕ちたのだ。

 堕ちきった先で何があったかは、シルヴィアには知る由もない。

 分かっているのは、彼はふたたび光差す場所へと戻ってきたということだけだ。

 そんな彼を自分のわがままのためだけに暗い闇の底へ引き戻そうとしていたことに気づいて、シルヴィアは愕然とする。


「あの……私、私……」

「『ごめんなさい』は言わない約束ですよ。お忘れですか?」

「……っ」


 シルヴィアは顔をぶんぶんと振る。

 そのたびに、目いっぱいに溜まった涙がちいさな粒になって飛び散った。

 ヴィサリオンは懐から手ぬぐいを取り出すと、シルヴィアに差し出す。手ぬぐいなら自前のものを持ち合わせているはずだが、シルヴィアは黙ってそれを受け取った。


「ハリラオス将軍との結婚、本当は嫌ではないのでしょう?」

「やけに自信たっぷりに言うのね」

「あなたは一度決めたら頑として譲らない方です。お父上も嫌がるあなたに無理強いをするような方ではありません。奥方を失ってから独り身を貫いていたハリラオス将軍は言うまでもないでしょう」


 ヴィサリオンの顔には柔らかな微笑みが戻っていた。


「……そうね。たぶん、久しぶりに会えたあなたに甘えてただけ。ハリラオスがいい人だってことは分かってるけど、いざ結婚するとなったら不安で仕方なくて。私としたことが、ずいぶん情けない姿を見せてしまったわね」


 つい先ほどまで泣き濡れていた緑色の瞳は、はやくも乾きはじめている。

 かつての許嫁が調子を取り戻したことを確かめると、ヴィサリオンはあらためてシルヴィアに向き直る。


「今日のことは、何も聞かなかったことにします。お父上やご主人にはくれぐれも内密にしてくださいね。私も生命は惜しいですから――」

「そんなこと、間違っても言える訳がないでしょう。輿入れの前に元許嫁と二人きりで会っていたなんて、だれかに知られたら大問題ですもの」

「そうしてくれると助かります」


 ふいに河原を風が吹き渡っていった。

 川面に大小さまざまの波紋が広がり、水に映った二人の姿をかき乱す。

 歪み、縮められた姿は、遠い日の少年と少女によく似ていた。


***


 一組の男と女が田舎道を歩いていた。


 見事な芦毛の馬に跨った女と、行李を背負った徒歩かちの男。

 遠目には女主人と従者みたいに見える。そうではないことが知れるのは、男が馬の真横を歩いているからだ。従者であればつねに主人の前を進まねばならない。


 二人は一言も交わさずに、ただ歩きつづけている。

 不用意に口を開けば、大切なものがこぼれてしまいそうで。

 あるいは、思いのすべてを伝えきれないまま別れてしまうのが怖くて。

 ただ黙々と、彼らは進んでいく。


 右手の麦畑では、麦の穂がそよ風に揺れている。

 黄金色のさざなみが広がり、風の名残りを畑の隅々まで行き渡らせていく。


「……ねえ」


 麦穂が揺れるのを横目で見つつ、シルヴィアは鞍上で言った。


「今日、あなたに会えてよかった。たぶん、神様が引き合わせてくれたのね。偶然にしては出来すぎているもの」

「私もです。わざわざここに足を運んだ甲斐がありました」


 言って、ヴィサリオンはふっと目を閉じる。

 瞼の裏をよぎったのは、黒髪黒瞳の少年の顔だった。

 少年は遠く離れた帝都で自分の帰りを待っているだろう。内心を悟られまいと、


――おいヴィサリオン、おまえ、どこをほっつき歩いていたんだ。もう帰ってこないかと思ったぞ。


 ぶっきらぼうを装って悪態をつくさまが目に浮かぶようだった。

 かつて命がけで自分を助けようとしてくれた少年。はやく戻らなければ。鋼鉄の身体に、本当はだれよりも傷つきやすく、優しい心を隠したあの子のところへ。


「最後に訊いてもいい?」

「ええ。私に答えられることなら、なんでもどうぞ」


 鞍上のシルヴィアはいたずらっぽい笑みを浮かべながら、ヴィサリオンを見下ろしている。


「あなたの心のなかには、もう私の知らない誰かが住んでるみたい。教えてくれる? その人のこと」

「そうですね――すくなくとも、女性ではありませんよ。私にとって、女性は今も昔もあなただけですから」


 そして、おそらくこれからも、ずっと。


 唇を出かかった言葉は、そのまま噛み潰された。それは自分の心のなかだけに留めておくべきだ。

 新しい門出を迎える花嫁に、余計な荷物を背負わせる訳にはいかない。


「そうなの? 男の方でも、その人のことがうらやましい」

「私は彼の世話になってばかりです。力にはなれませんが、せめて生きているあいだは一緒にいたいと思っています」

「あなたが一人きりじゃないことが分かってよかった。これで私も心置きなく嫁に行けるわ」


 自分の言葉がよほどおかしかったのか、シルヴィアはからからと笑った。

 気づけば、道は丁字路に差し掛かろうとしている。

 二人は示し合わせたように、道の分かれ目で立ち止まった。


「……ここでお別れですね」


 ヴィサリオンは独り言みたいにぽつりと呟く。


「本当に、もう会えない?」

「そのほうがいいでしょう。あなたに迷惑をかけたくありません」

「それなら……」


 鞍から身を乗り出したシルヴィアを、ヴィサリオンは手で制する。

 何も残してはいけない。ただ、思い出のなかの二人が鮮やかであれば、それでいい。


「……意地悪」

「あなたを思うからこそです。それに、ハリラオス将軍に申し訳ありませんから」

「あの人には前の奥さんがいたんだから、私だって少しくらいかまわないと思うけど?」


 ヴィサリオンは困ったような微笑を浮かべながら、首を横に振る。

 これでいい。彼女の想いに応えられなかった以上、自分は何も受け取るべきではない。

 互いの温もりも柔らかさも知らないまま、遠い世界で生きていく。そのつもりだった。


「代わりと言っては何ですが、手を出していただけますか」

「いいけど、何をするつもり?」


 ヴィサリオンはシルヴィアの手を取ると、もう一方の掌をそっと重ねた。

 古帝国時代の別れの挨拶。旅立つ友人、そして家族を見送る古くからの礼法だった。


 本当はあの日すべきだったこと。したくても出来なかったこと。


 それを青年は九年越しに実行したのだった。


「どうか末永くお幸せに――」

「ありがとう。あなたのほうこそ、身体に気をつけてね。いまからでも鍛えたほうが元気で長生き出来るわよ」

「ええ、まあ、考えておきます」


 それだけ言って、二人は別々の道へと一歩を踏み出す。

 ふたたび風が吹きぬけ、麦穂がすれあう音がさらさらと田舎道を満たした。

 それが熄んだとき、道の上に人影はなく、ただ静けさだけがあたりを包んでいた。


***


 一度だけ振り返って、遠ざかるあの人の姿を見た。


 たったいま別れたばかりなのに、後ろ姿はもうすっかり小さくなって。

 このまま進めば、あっというまに見えなくなってしまいそうで。

 二度と会えないと思っていた人が、また遠い遠い世界へと帰っていく。

 これからさき、どんな奇跡が起こったとしても、二人の運命は決して交わることはないはずだった。

 

――追いかけようか。

――いまなら、まだ追いつけるかもしれない。

 

 追いついたら、おもいきり抱きしめたい。


 拒まれようとかまわない。そのままあの人をさらって。二人でなにもかも捨てて。

 堂々巡りの思考を置き去りにして、身体は前へ前へと進んでいく。


 どれくらいのあいだそうしていただろう。

 もう振り返ろうとは思わなかった。手遅れだ。結局、私は何も出来なかったのだ。 


 しかし、何を悔やむことがあるだろう? 二人でそう決めたのだから、どちらも約束を守っただけのことだ。

 無理に納得しようとする小賢しい心をあざ笑うみたいに、涙だけが止めどもなく溢れた。


 ふと顔を上げて、霞んだ視界におぼろげに浮かぶものを見つけた。


 あの人もどこかで同じ景色を見ていればいい。

 もう二度と一緒にいられなくても。

 どんなに手を伸ばしても触れることは出来ないとしても。

 二人を繋ぐものは、たしかにここにある。


 ねえ、見ていますか。


 今夜はこんなに、月が綺麗よ。


【完】

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