Ⅳ.帝都湯煙綺譚
第100話 帝都湯煙綺譚 (前編)
あたたかな白色があたりを覆っていた。
湯気であった。気体へと姿を変えた温水は、広壮な空間をすっかり包み込んでいる。
白くかすむ世界にうっすらと浮かび上がったのは、古帝国様式の列柱だ。
その下部にはたえまなく湯を吐出しつづける獅子の顔がある。やはり古帝国風の写実彫刻であった。
ざぶり――と水をかきわける音がした。
「ん~! 極楽極楽! やっぱり広いお風呂はいいわね!」
言って、イセリアは湯船のなかで思いきりのびをする。
くつろいだ肢体を湯のなかに横たえ、蕩けきったような表情を浮かべている。
それにしても、度外れて巨大な風呂であった。
一辺は少なく見積もって六十メートルはあるだろう。風呂というより、温水を湛えた貯水池と言ったほうがよほどしっくりくる。
「お姉ちゃん、くつろぐのはいいけど、せめて脚くらい閉じなよ。一応女の子なんだからさあ」
「ちょっと、いまのは聞き捨てならないわよ!! 一応ってどういう意味よ!!」
イセリアは上半身だけを起こし、湯船の
少女は射竦めるような視線に物怖じすることもなく、やれやれと言うように肩をすくめてみせるだけだった。
「私はべつにいいけどさ。そんなだらしない姿、お兄ちゃんが見たら幻滅するんじゃない?」
「……うっさいわね。アレクシオスはここにいないんだからべつにいいでしょ。それに、見せられるものならむしろ見せてやりたいくらい――」
「そうなの? なんで?」
少女――エウフロシュネーは、きょとんとした顔で首を傾げる。
「それはつまり、えっと……こういう話はあんたにはまだ早かったわね。もうちょっと大人になったら教えてあげるわ。お子ちゃまエウフロシュネーちゃん?」
「こっちもお姉ちゃんじゃなくておばさんって呼んだほうがいい?」
「あんた、次にその言葉を口にしたらお湯のなかに沈めるわよ!!」
イセリアが全身から水滴を振りまきながら立ち上がったときには、エウフロシュネーはすでに駆け出したあとだった。
笑い声を反響させながら、裸の少女は大浴場のなかを走っていく。
大理石の床はしっとりと濡れている。その上をよろけもせずに走り抜けるのは、まさしく恐るべき
「……まったく、子供のくせに生意気なんだから。いったいどういう育てられ方したのかしら――」
イセリアはふたたび湯船に首まで浸かりながら、いまいましげに呟く。
休暇もいよいよ最終日となった今日の朝――
宛名も差出人の名前も見当たらない。配達人を問いただしても、自分は何も知らないの一点張りだった。
アレクシオスが意を決して開封すると、なかから出てきたのは一通の招待状だった。
内容はじつに簡潔なものだ。時候の挨拶も、長ったらしい前置きもなく、ただ達者な筆使いで次のように書かれていた。
――過日は我が妹ラエティティアが大いに世話になった。
――そなたらの功労にむくいるため、
差出人の名前はやはり見当たらないが、それもそのはずだ。
このような招待状を送ることが出来る人間は、この広い世界にただひとりしかいないのだから。わざわざ名前を記す必要などありはしない。
次期皇帝からの招待状ということが判明した途端、詰め所はにわかに騒然となった。
エウフロシュネーはすでに帝都に戻っていたが、騎士庁の責任者であるヴィサリオンはまだ留守にしている。
招待状を受け取った騎士たちは、はたしてどのように行動すべきか。
判断はヴィサリオンの代理人であるアレクシオスに委ねられることになった。
……とは言うものの、あれこれと悩むまでもなく、最初から選択肢はひとつしかない。『帝国』において皇帝から臣下への問いかけは質問ではなく、決まった返答を引き出すための遠まわしな儀式にすぎないのだ。
なにより、好意で招かれているなら、アレクシオスたちにとっても拒む理由はどこにもない。
騎士たちは慌ただしく身だしなみを整えると、揃って
「……それにしても、こんな大きな
イセリアは肩まで湯に浸かりながら、誰にともなく言った。
入浴の習慣は、いにしえの昔から『帝国』の文化に深く根を下ろしている。
温浴の習慣はもともと西方の一地方でさかんだったが、太祖皇帝の東方征服を契機に大陸全土に波及していった。往時は各地に公衆浴場が建設され、西方人だけにとどまらず、『帝国』の支配下にあった諸民族にも利用が奨励されたという。
『帝国』が分裂したあと、大陸西方では公共インフラの崩壊によって公衆浴場を維持することが不可能となり、ひと握りの富裕層を除いて入浴の習慣は廃れている。『西』で入浴といえば水浴びか
一方、『東』では現在に至るまで入浴の習慣が広く根付いている。戦火を免れた東方では水道や浴場施設が良好な状態で維持されたのもさることながら、東方人が温浴を大層好んだことが何よりの要因であった。さらに付言するなら、東方は西方に較べてはるかに火山活動が活発であり、良質な温泉が数多く存在していることも大いに影響している。
帝都イストザントでは各街区ごとに温泉を利用した公衆浴場が設置されており、帝都市民であれば老若男女を問わず低廉な価格で利用することが出来る。
しかし、なにしろ東方はおろか、全世界でもっとも人口稠密な帝都である。公衆浴場も混雑時には文字通り芋を洗うようなありさまで、のんびりと湯に浸かって疲れを取るどころか、人波に揉まれていっそう疲弊する始末だった。
貴族の邸宅には内風呂が備わっているが、どれほど豪華なものでも大きさはたかが知れている。
これだけの広さの湯船を独り占めに出来るのは、まさしく皇帝とその一族だけに許された特権であった。
ふと気づけば、エウフロシュネーの姿は視界からすっかり消え失せていた。
これだけの広さだ。隠れる場所などいくらでもあるにちがいない。
イセリアは気に留めることもなく、瞼を閉じて温浴の快楽に身を委ねる。
「エウフロシュネーがどういう育てられ方をしたか知りたいんだって?」
夢うつつの境地をたゆたっていたイセリアだったが、ふいに頭上から降った声に現実に引き戻された。
驚いて顔を上げれば、そこにいたのは全裸の女だ。
肩までかかる
「あ、あ、あんた、盾女――」
「タレイアだ。誰が盾女だ、無礼者め」
湯船のなかで平衡を失い、ほとんど溺れかけているイセリアを見下ろしながら、タレイアは呆れたようにため息をつく。
「ていうか、なんであんたがここに……」
「何を言っている。私たちは皇帝陛下直属の
「それはたしかにそうかもしれないけど、いるならいるって言いなさいよ! 驚いたじゃない!!」
「そちらが勝手に驚いただけだ。そもそも、お前にいちいち報告する義務などない」
タレイアは突き放すように言うと、ふんと鼻を鳴らす。
と、細くくびれた腰の後ろからひょっこりと顔を覗かせたのはエウフロシュネーだ。
「どう? びっくりした?」
「エウフロシュネー!! あんたがこいつを呼んだのね!?」
「こいつじゃないよ。ね、タレイアお姉ちゃん?」
「ああ。いつも可愛い妹が世話になっている。お忙しい皇太子殿下に代わって、今日は私たちがお前たちの相手をするように仰せつかっている。せいぜいゆっくりしていくといい」
イセリアは湯船に顔の半ばまで沈み、鼻と口から息を吐いてぶくぶくと泡を立ててみせる。水のなかで言葉にならない抗議をしているのだ。
「ところで、オルフェウスの姿が見えないようだが――」
「あの娘なら忘れ物をしたって途中で詰め所まで戻ったわ。そろそろこっちに来ててもよさそうだけど」
「そうなのか? エウフロシュネー?」
タレイアに問われ、エウフロシュネーはこくりと頷く。
「私かお兄ちゃんが一緒について行くって言ったんだけど、一人で大丈夫だって。だから私たちは先にお風呂に入ることにしたんだ」
「そうか――あれに限って心配はないだろう」
タレイアの顔をふっと険しい表情がよぎったのを、イセリアは見逃さなかった。
オルフェウスになにか含むところがあるらしい。
「そういえば、さっき相手をするって言ってたわよね。せっかくだし背中でも流してもらおうかしら?」
「言葉が足りなかったな。あれはお前が城内でバカなことをしないように監視するという意味だ」
「なんですって!?」
ほとんど飛び上がるように湯船から出たイセリアは、わざと大きな足音を立てながらタレイアの前に進み出る。
生まれたままの姿で対峙する二人の女騎士。エウフロシュネーは本能的に身の危険を感じたのか、すこし離れた場所から様子を伺っている。
もしこの場でどちらも戎装して戦いを始めたならば、大浴場と離宮はおろか、
「はい、二人ともそこまで――」
ぱん、と掌を打ち合わせる音が浴場内に響いた。
イセリアが声のしたほうに視線を向けると、西方人の女がこちらにむかって歩いてくるのがみえた。
年齢は二十歳になるかならないかといったところ。ほとんど銀に近い金髪を後ろで束ね、花がほころんだような笑顔をイセリアに向けている。
豊かな胸と女性らしいまるみを帯びた肢体は、タレイアの研ぎ澄まされた刀剣みたいな身体と好対照をなしている。
「あなたがイセリアちゃん?」
「そうだけど、いきなりなんなのよ。今取り込み中なんですけど!」
「いつも妹がお世話になってます。ほら、タレイア、あなたもちゃんとご挨拶しなきゃ」
「……私は遠慮しておく。こいつとは初対面ではないからな」
タレイアはそれだけ言うと、その場ですばやく身体を反転させ、湯船に入っていく。
イセリアがその背中にむかって舌を出しても、アグライアは咎めるでもなく、『あらあら』と独りごとみたいに言っただけだった。
「ご挨拶が遅れてごめんなさい。私はアグライア。あの二人、タレイアとエウフロシュネーは私の妹たちなの。あなたのお話はエウフロシュネーから聞いてるわ。とっても強くて頼りになるって」
「そ、そう? あの子、他にあたしの悪口とか言ってなかった?」
「いいえ――」
アグライアは首を横に振った。
とても嘘をついているようにはみえない。たとえ善意の嘘であったとしても、人を騙すことはこの女には到底おぼつかないように思われた。
純真無垢を絵に描いたようなその顔を見つめているうちに、イセリアはすこしずつ調子が狂っていくのを自覚する。
タレイアのように真正面から突っかかってくるほうがよほど与しやすい。この噛み合わない感じはあの娘によく似ている。色合いはだいぶ異なるが、髪の色までおなじだ。
「それからタレイアのことだけど、あの子は昔からすこし人当たりがきつくて。気を悪くしたらごめんなさいね」
「べつにいいわよ。あたしは気にしてないし――」
言って、イセリアは踵を返す。
湯船に戻ろう。この女と話していると、どんどん自分のペースを見失ってしまう。
イセリアにとって、相手に主導権を握られるほどむかつくことはない。
――当たり前じゃない。いつだってあたしが主役なんだから!!
背中に柔らかいものがふたつばかり押し付けられたのは、ちょうど湯船に片足を入れたときだった。お互い衣服をまとっていない分、感触も重みも直接伝わってくる。
「ちょっ……な、なによ!? いったいどういうつもり!!」
「だって、一人でさっさと行ってしまうんですもの。せっかく会えたんだし、まだまだお話したいことがたくさんあるわ。好きなお菓子とか、男の子のことも!」
「はあ――!?」
じたばたと手足を動かすイセリアだが、アグライアは小揺るぎもしない。花のように優美な見た目に反して、華奢な身体はかなりの膂力を秘めているらしい。
タレイアは湯に浸かったまま、ちらと二人に視線を向ける。
「諦めたほうがいい。アグライアは一度興味を持つと気が済むまで離してくれないからな。お前はお眼鏡にかなったということだ」
「ちょっと! 他人事みたいに言ってないで助けなさいよ! エウフロシュネー、あんたも!」
「がんばってね、お姉ちゃん!」
ここに至って、イセリアはもはや進退窮まったことを理解する。
大浴場にこだました声にならない悲鳴は、むなしく湯気に溶け込んでいった。
***
「なんだ? いまの音は――」
アレクシオスは湯に浸かったまま、薄く片目を開いた。
どれほど神経を研ぎ澄ましても、それきり音は聞こえなかった。聞こえるものといえば、湯が流れこむ音と、天井に張りついたしずくがぴちゃりぴちゃりと滴る音だけだ。
「気のせい……か」
アレクシオスはふたたび両眼を閉じると、ほうと息を吐き出す。
ため息のようであり、杞憂にすぎなかったことに安堵しているようでもあった。
(せっかく皇太子殿下が招いてくださったというのに、これではおちおち休んでもいられないな)
自嘲するみたいに心中で呟く。
騎士であるアレクシオスにとって、本当の意味での休息など得られないのかもしれない。
すくなくとも、生きているあいだはそうだ。
つねに敵との戦いに備えていなければならない。他の者はどうあれ、せめて自分くらいはいつ何時も緊張感を持ちつづけていなければ。イセリアやオルフェウスに較べて戦闘能力で劣る分、そこだけは譲れないと思っていた。
アレクシオスは大浴場を見渡す。湯気がただよう広大な空間にいるのは、正真正銘彼一人だけだった。
浴場は男と女で分かれている。ふたつの独立した建物は、ちょうど離宮の主殿を挟むように配置され、庭園をぐるりと周回する渡り廊下によって結ばれている。
女湯でなにかがあったとしても、ここまで喧騒は届かないはずだった。
アレクシオスは湯をひと掬いすると、ざぶざぶと顔を洗う。
もともと入浴は嫌いではない。
近所の公衆浴場にも二日に一度は通うようにしている。
しかし、温浴それ自体は心地よくても、一人ではどうにも手持ち無沙汰だった。
「……あいつ、どこで油を売っているんだ」
ぽつりと呟いて、まだ戻らない青年の顔を思い浮かべる。
行き先はとうとう聞けずじまいだった。もちろん問えば教えてくれただろうが、それを憚らせる何かを感じずにいられなかったのだ。
どこに行ったにしても、危険な目に遭っていなければいい。自分が近くにいれば大抵の脅威からは守ってやれるのだが――。
と、アレクシオスは湯船のなかですばやく身体の向きを変えた。
浴場の入口でなにかが動いたのを感じ取ったためだ。
招待状によれば、ふたつの浴場は騎士たちの貸し切りとなっているはずだった。
いまの
(もしかして、あいつが帰ってきたのか……?)
アレクシオスは淡い期待を抱いて入口に視線を向ける。
浴場内には古帝国様式の太い列柱が並び、入口はちょうどその陰になっている。
ひたひたと足音が響いた。列柱のあいだを縫うように近づいてくる。
「おい――」
声をかけようとして、アレクシオスはそのまま石像と化した。
ありえないものを目の当たりにしたとき、人はしばしば言葉を失い、みずからの肉体さえ思うに任せなくなる。それは
列柱のあいだから現れたのは、期待していた線の細い青年ではなかった。
それどころか――男ですらない。
腰までかかる亜麻色の長い髪。白皙の肌はたちこめた湯気によってしとどに濡れそぼちながら、常と変わらぬ透明感を保っている。
真紅の瞳がまっすぐにアレクシオスを見つめる。
「お、おまえ……どうして……ここに――」
アレクシオスははっと気づいたように目をそらし、それどころか、無意識のうちに湯船に顔を突っ込んでいた。
あまりにも美しいものを正視してしまうと、目が潰れる。
なにも身につけていないということは、その美しさを遮るものがなにもないということなのだから。
実際にはありえないとしても、見る者にそう思わせるだけの説得力があった。
いまアレクシオスの目の前にあるのは、そんな
オルフェウス――最強の
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