第101話 帝都湯煙綺譚 (中編)
どれくらいの時間が流れただろう。
アレクシオスは湯船に身を沈めたまま、身じろぎもせずに待っていた。
人間であればとうに窒息死していてもおかしくない。しかし、騎士であるアレクシオスは、その気になればいつまででも水に潜っていることができる。
あたたかな湯のなかでは、心なしか時間もゆっくりと流れていくように感じる。
浴場の雰囲気はあくまで温く、弛緩しきっている。のんびりと心身を休めるにはこの上ない環境も、いまの少年にしてみればもどかしさを募らせるだけだ。
――これは、悪い夢だ。
自分ではそんなつもりは微塵もなかったが、どうも長湯をしすぎたらしい。
そういえば、人間はあまり長いあいだ湯船に浸かっていると湯あたりをすると聞いたことがある。
――あいつがこんな場所にいるはずがない。
だから、きっと、今しがた目にしたものも幻にちがいない。
息が続かないほど長く水中に身を置きながら、湯あたりをするなどとは矛盾した話だ。それでも、アレクシオスは信じたかった。
――顔を上げれば、だれもいないはずだ。
覚悟を決めて、湯船のなかから身体を起こす。
馬鹿げた幻覚だ。あいつが裸でこんな場所に現れるなど。
だいいち、ここは男湯ではないか――アレクシオスが自分自身に言い聞かせるのは、そうでもしなければとても身体が動かなかったからだ。永遠に湯船のなかに沈んでいる訳にもいかない以上、いつかは踏ん切りをつけねばならない。
アレクシオスは濡れた黒髪をかきあげ、ゆっくりと目を開く。
さあ、どうだ? 幻はもうどこかに消え失せたはずだ。やはりあれは現実ではなかった……
――いた。
目が合った。
世にも稀なる美貌の少女は、いつものように無表情でアレクシオスを見つめている。
先ほどにくらべれば、胸元まで湯船に浸かっているだけまだましだった。
帝都近辺の温泉はわずかに白濁している。街場の公衆浴場だろうと
白く濁った湯は薄絹のヴェールとなって美しい裸身を包み、肢体の輪郭をうっすらと浮かび上がらせている。やはり目のやり場に困ることには変わりないにせよ、これなら正視に堪えないというほどではない。
と、アレクシオスと目を合わせていた真紅の瞳が、ほんのすこし下方に動いた。
そのとき、少年はようやく理解したのだった。
自分が真裸のまま立っていたこと――そして、少女の視線が向かった先を。
「――っ!!」
アレクシオスが急いで身をかがめると、激しい水しぶきが上がった。
盛大な飛沫を真正面から受けてなお、オルフェウスは驚いたそぶりもみせない。泰然自若たるふるまいも、その沈着な佇まいも、何もかもがアレクシオスとは正反対であった。
「おまえ……どうしてここにいるんだ」
アレクシオスは背を向けたまま問うた。
「みんなでお風呂に入るって聞いたから――」
「そこじゃない。なぜ男湯にいるのかと訊いている!!」
「いちゃ、だめ?」
オルフェウスは常と変わらず玲瓏な、しかしどこか茫とした声で問い返した。
「何のために男女で浴室が分かれていると思っている。おまえ、公衆浴場に行ったことがないのか!?」
「あるよ。でも、いつもはイセリアやエウフロシュネーと一緒だから――」
アレクシオスはめまいを覚えていた。
騎士が人間のように湯あたりなどするはずがない。であれば、これは紛れもなく同じ湯に入っている少女のせいだった。
――とにかく、こいつをさっさと男湯から追い出さなければ……。
アレクシオスは沸騰しかかった頭を抱え、すっかり散り散りになった思考を必死にかき集める。
恋人でも夫婦でもない男女が裸で同じ空間にいる。それはあってはならないことだ。たとえ無知ゆえの行動だろうと、駄目なものは駄目だ。多少乱暴な言葉を使っても、あるいは手荒な真似をしても、オルフェウスをここから立ち去らせねばならない。
アレクシオスは息を整え、つい先ほど固めたばかりの覚悟をいっそう堅固にして背後を振り向いて、
「おい――」
そのままの姿勢で凍りついた。
いつ立ち上がったのか。ほんの数秒前まで濁った湯に遮られていた裸身は、アレクシオスの目と鼻の先にある。
なめらかな雪膚からはたえまなく湯の名残りが滴り、やはりたっぷりと濡れた亜麻色の長い髪は、金糸で編まれた蔦みたいに肢体に絡みついて、えもいわれぬ美相を描出している。
「お、おま……おまえ、なんで、立って……」
「話すなら近くのほうがいいと思ったから」
アレクシオスは乙女みたいに顔を覆い、懸命に目の前の裸身を見まいと努めている。
――ああ、駄目だ。本当に目が潰れるかもしれん……。
それならそれで、こうして意図せず肌を見せつけられて懊悩せずに済む。
「分かった。分かったから、はやく湯船に浸かれ! そこに立つな!」
ほとんど我を忘れて叫んだ言葉であった。
ちゃぽん、と水音がした。それがオルフェウスの返答だった。
それきり沈黙が浴場を覆った。
数秒しか経っていないようであり、もう何時間も経ったような気もする。そのどちらであったとしても、アレクシオスは納得したはずだ。
「……ごめんね」
意外にも、先に口を開いたのはオルフェウスだった。
「私のせいでアレクシオスのことを困らせてる」
「べつに困ってなどいない。いや、全く困っていないわけじゃないが……とにかく、悪気がないなら、おれもおまえを責めるつもりはない」
アレクシオスは早口気味にまくしたてる。思考の速度が言葉に出ている。
「……それなら、よかった」
オルフェウスは例によって抑揚の欠けた声で言った。
あくまで無機質な声色。出会ってまもないころは底知れぬものを感じた美しい声も、共に過ごすうちにそんなものだと受け止められるようになった。
「こうして二人きりになるのは久しぶりだね」
「そうか? ……確かに、そうかもしれないな。近ごろはいつもイセリアかエウフロシュネーが一緒だし、ヴィサリオンもいる。公主殿下を探すときは手分けをしていてそれどころではなかったからな」
「アレクシオスは私と二人でいるのはいや?」
「べつに――」
語気強く吐き出そうとした言葉を、アレクシオスは舌の上で押し止める。否定にせよ賛成にせよ、ここは至って平静な態度を装わなければ。
「嫌じゃない。……おまえの方こそ、どうなんだ。その、おれなんかと一緒にいても、おまえは楽しくないだろう」
「ううん」
湯煙のなかにふいに涼やかな風が吹いた。それは、そんな声だった。
「私はアレクシオスと一緒にいられてうれしい。アレクシオスも私と一緒にいるのがいやじゃないなら、よかった」
「そ、そうか――」
アレクシオスは湯をすくい取り、ばしゃばしゃと音を立てて顔を洗う。
べつに顔を洗う必要などない。いまの顔を見られたくないだけだ。
なんともいえないむずがゆさが身体の芯をくすぐっている。無意味でも手足を動かさなければ、湯船のなかでもんどりを打ちそうになる。
「なあ、こんな機会でもなければ話せないことだが……」
だいぶ気持ちが落ち着いたところで、アレクシオスは訥々と語りはじめた。
「おまえ、あのとき……闘技場での一件が終わった次の朝、おれが言ったことを覚えてるか」
「……『たしかに、おまえに較べればおれは弱い』」
オルフェウスは一瞬考え込むようなそぶりを見せたあと、台本を読み上げるみたいにあのとき聞いた言葉を暗誦してみせる。
「『それでも、おれはいつか必ずおまえに追いつき――追い越してみせる。そのときはもう一度おれと勝負しろ、オルフェウス!』――って言ってたこと?」
「だれも一言一句違えずに思い出せとまでは言っていない!」
アレクシオスはほとんどやけっぱちになって叫ぶ。
今更ながらに恥ずかしさがこみ上げてくる。当時も思いの丈を口にしたことを悔やんだものだが、オルフェウスがそれを完璧に記憶していたことで、あのときよりいっそう激しい羞恥心が身を焦がす。
「……とにかく、それだ。あの日、おれはおまえにたしかにそう言った。だが……」
アレクシオスは呼吸を整えながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……今は、違う。おまえとまた戦って勝とうなどとは思っていない」
「どうして?」
顔を半分だけオルフェウスに向けながら、アレクシオスは続ける。
「べつに諦めたわけじゃない。ただ、一緒に戦っているうちに、強さや勝ち負けを競うことが無意味だと思えるようになっただけだ」
少女は何も言わなかった。
少年が伝えようとしていることを理解するため、いまは傾聴に徹している。
「どんなに努力しても、強さではおまえには到底及ばないだろう。戦えばかならず負けることも分かっている。だが、おれはそれでもいいと思っている。あのころは絶対に認められなかっただろうが……」
いったん言葉を切り、アレクシオスは唇を噛む。
「一緒に戦っているうちに分かったんだ。おまえほど強い騎士にも得手不得手があること。そして、おれにも出来ることがあるということが少しずつ……な」
いつしかアレクシオスは完全に身体ごとオルフェウスに向かい合っていた。
黒と紅の瞳はおなじ高さで見つめ合っている。真っ向から互いを射る視線は、しかしわずかな敵意も含んでいない。
「おまえを追い越すのではなく、おれは自分に出来ることをやろうと思う。それがおれの戦いだ。だからといって努力を放棄するというわけじゃないぞ。せめて……」
「せめて?」
「追い越せないにしても、せめておまえに置いていかれないようにはしたい。出来れば隣に並びたいが、それが無理だとしても、おまえの足手まといにだけはなりたくない。……それがいまのおれの目標だ」
そこまで言って、アレクシオスははたと我に返ったようだった。
いっとき消え失せていた含羞の色が、ふたたび少年の顔に戻ってくる。それはずっと溜め込んでいた胸のうちを存分に吐き出したためであり、またオルフェウスと裸で差し向かいになっているいまの状況のためでもあった。
「おれからはそれだけだ。すまん、妙な話をしてしまった――」
「いいよ。アレクシオスがそう思ってることが分かって、私もうれしい」
「うれしい?」
「またアレクシオスと戦うことになったら嫌だなって、ずっと思ってたから。あのときは上手く出来なかったけど、どうすれば傷つけずに戦いを止めてもらえるのか、あの日からずっと考えてたんだ」
「……おまえ……」
思いがけない言葉にアレクシオスは胸を突かれる。
オルフェウスは、あの夜と何も変わっていない。自分がどれほど変わっても、あの日たしかに触れた強さと優しさは、いまも変わらず少女の心のなかにありつづけている。
アレクシオスは答えず、ぷいと横を向く。涙がこぼれないことを願う。いま傍らにいるのは、よりによって世界中で泣いている姿を一番見られたくない相手なのだから。
「べつに礼など言わないからな。さっき言ったことはおれが勝手に決めたことだ。そして、それを聞いたおまえがどう思おうとおまえの勝手だ!」
「うん――でも、ありがとう」
会話はそれきり途切れた。
だからといって、気まずい雰囲気が漂いはじめたわけではない。
あたたかな湯気が漂うなか、千万の言葉よりはるかに饒舌な沈黙が、少年と少女をやさしく包み込んでいた。
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