第102話 帝都湯煙綺譚 (後編)(完)

「まったくもう、とんでもない目に遭ったわ――」


 長椅子ベンチに背をもたせかかりながら、イセリアは深く長いため息をついた。

 離宮の中庭である。高い植え込みに三方を囲まれた庭園は、規模こそ慎ましやかだが、庭木の一本一本までよく手入れが行き届いている。


 イセリアは大浴場を出たあと、ふらつく足取りでなんとかここまで辿り着いたのだった。

 べつに湯あたりをした訳ではない。風呂に入っているあいだ、アグライアにひっきりなしに質問を浴びせられ、いつ終わるともしれないおしゃべりに付き合わされたためだ。

 敵意を向けてくる相手ならばいつものように応戦すればいいだけだが、アグライアはその真逆だった。悪意も敵意も欠片もなく、ただ純粋な好意と好奇心だけで動いている。イセリアとしてもそのような相手を無碍に追い払うことはできず、飽いてくれるまで耐えるしかない。


 好きな食べ物から始まり、これまで訪れた場所のこと、お気に入りの服や装飾品アクセサリー、行きつけの店、そして懸想している男のこと……

 アグライアのは、まさしく根掘り葉掘り、微に入り細に入ったものだ。そして、イセリアが答えるたびに大げさに頷き、何度も相槌を打ち、花のような笑顔を惜しげもなくふりまく。


 そのあいだ、イセリアは蜘蛛の巣に囚われた羽虫みたいな心地を味わったのだった。

 結局、タレイアに声をかけられて浴場を出ていくまで、アグライアはイセリアを片時も離そうとはしなかった。

 顔を合わせるたびに悪態をつきあう仲のタレイアも、このときばかりは救いの女神に見えたものだ。


「なんかお風呂に入る前より疲れた気がするわ。のぼせちゃいそう……」


 イセリアはほんのすこし開けた襟元を団扇みたいに動かし、火照った身体に風を送る。

 風には冬の名残りがあった。城下町をすっかり覆った春のあたたかさも、山の中腹に位置する帝城宮バシレイオンまでは届かないらしい。

 屋外にいると涼しさを通り越して肌寒さを感じるほどだが、それもいまのイセリアにはむしろ快く感じられる。


「ご苦労さま、お姉ちゃん」


 ふいに背後から声がかかった。

 イセリアがゆるゆると振り返ると、額と額が触れそうな距離にエウフロシュネーの顔がある。いつのまに近づいたのか、相変わらずの神出鬼没ぶりだった。


「冗談じゃないわよ。あんたの姉さんなんなのよ、まったく――」

「アグライアお姉ちゃんも誰彼構わずあんなことする訳じゃないんだよ。なんでも知りたがるのも、本当に気に入った人だけ。今日はとくに凄かったけど……」

「おかげでこっちはいい迷惑だわ。まあ、悪い奴じゃないみたいだけど」


 言って、イセリアは長椅子から立ち上がる。


「それにしても、アレクシオスは遅いわね。それにあの子も。まだ迷ってるのかしら」

「探しに行ったほうがいいかな?」

「放っておきなさい。子供じゃないんだから、自力でどうにかするでしょ」


 一見冷たく突き放すようなイセリアの言葉の端々には、この場にいない少女への信頼が滲んでいる。

 あれこれと世話を焼くことが、必ずしも当人のためになるとはかぎらない。信じているからこそ、あえて手助けをしないという選択肢もあるのだ。

 そんな言外の意図を察してか、エウフロシュネーはふっと頬を緩ませる。


 と、庭園のどこかであらたな足音が生じた。

 二人――歩幅と足運びの間隔から察するに、おそらくは男と女だろう。

 姿は植え込みに隠れて見えない。芝生を踏みながら、ゆっくりとイセリアたちのほうへ近づいてくる。 


 ほどなくして植え込みの合間から現れたのは、黒髪の少年と亜麻色の髪の少女だった。

 二人が手を繋いでいるようにみえたのは、イセリアの錯覚だ。付かず離れずの距離を保ったまま歩いてくる。


「……あんたたち、そこで何やってんのよ?」


 イセリアは、アレクシオスとオルフェウスをそれぞれ見やったあと、いかにも訝しげに問うた。


「まさか、二人でずっと一緒にいたなんて言わないでしょうね」

「バカを言うな。たったいまそこで会ったばかりだ。……そうだな?」


 アレクシオスに水を向けられ、オルフェウスはこくりと頷く。

 イセリアはなおも胡乱げに二人を見つめていたが、やがてちいさくため息をつくと、


「まあいいけど。とにかく、迷子になってなくてよかったわ。人探しはこのあいだの件でもう懲り懲りですもの」


 心底から安堵した声音で言ったのだった。


「心配かけてごめんね、イセリア」

「謝らなくていいわよ。ていうか、べつにあんたの心配なんてしてないし!!」


 それだけ言って、イセリアは『ふん』と鼻を鳴らす。


「あーあ、お姉ちゃんは素直じゃないなあ」

「エウフロシュネー、余計なこと言わないほうがいいわよ。風呂から上がったばかりで早速地べたに転がされたくなければね!」

「私、お姉ちゃんに捕まるほどドジじゃないもん!」


 ぎゃあぎゃあと言い争う二人を横目に、アレクシオスはこめかみを指で揉む。

 仲裁に入るべきか、気が済むまでやらせておくべきか。どちらを選ぶも騎士庁の目下の責任者であるアレクシオスの胸三寸だ。それだけに悩ましい。

 出来ることならしばらく放っておきたいところだが、皇帝の居城で騒ぎを起こすのはいかにもまずい。


 そう思ってアレクシオスが声をかけようとしたときには、耳を塞ぎたくなるほど喧しかった二人の声は、どういう訳かぱたりと熄んでいた。

 のみならず、どちらもおなじ方向を向いたまま固まっている。


 見つめる先にいったい何があるというのか? アレクシオスはそれを確かめるべく、二人の視線を追うように首を巡らせる。

 次の瞬間、少年の黒い瞳に映ったのは、中庭を横切るように近づいてくる長身の青年と、その傍らに影みたいに寄り添う従者の姿だった。


「皇太子殿下――」 


 アレクシオスはほとんど反射的に跪く。片膝を折ったところで、頭上から声がかかった。


「そのままでよい。堅苦しい挨拶は無用だ」

「しかし、それでは……」

「今日はそなたらを労うために招いたのだ。肩肘を張らせてはそれこそ本末転倒というものであろう。ゆるりと過ごすがいい」


 それだけ言って、ルシウスは鷹揚に頷いてみせる。

 ほかならぬ皇太子がそう言っている以上、アレクシオスも意地を張る訳にはいかない。膝の泥を払って立ち上がり、それを返答の代わりとしたのだった。


「さて――皆、風呂は存分に楽しんでくれたか?」

「は……はい。あたし、あんな広いお風呂初めて入りました!!」

「それは何よりであった」


 興奮気味に言ったイセリアに、ルシウスはしきりに肯んずる。


「なにしろ、余はここの風呂には入ったことがないものでな。それほどいい湯なら、今度入ってみるか。なあ?」

「お好きにどうぞ。殿下がこの城でなさることを止められる者などいませんから。城のの者は多少驚くかもしれませんが、そんなことを気にする方ではないでしょう?」


 ラフィカは呆れたように言うと、ちいさくため息をついた。


「あの……入ったことがないというのは、どういう――」

「離宮の風呂は城で働いている女官や近衛兵のためのものだ。余は一度も使ったことがない。だが、そなたらの言葉を聞いているうちに試してみたくなった」

「楽しみになさっているところ水を差すようで申し訳ありませんが、普段殿下がお使いになっている浴場に較べれば、ここのはかなり小さいですよ」


 ラフィカは『やれやれ』と言うように肩をすくめ、首を横に振ってみせる。

 離宮の浴場でさえ街場の公衆浴場よりずっと広かったのに、この城にはさらにその上を行くものがあるという。

 見たこともない大きさの風呂に興奮していたことを思い出して、イセリアの顔に朱が差す。物知らずだと自分から宣言してしまったようなものだ。迂闊なことを口にしてしまったが、いまさら取り消すことも出来ない。

 ルシウスはとくに気にするそぶりも見せず、アレクシオスのそばに近づいて行く。


「むこうに食事の用意をさせてある。本来であればそなたらの労に報いるためにも余みずからもてなすべきだが、あいにくこの後も予定が詰まっていてな」

「いえ――お心遣い、痛み入ります」

「苦しうない。そなたらへの感謝を表すには不十分だろうが、楽しんでくれれば余もうれしく思うぞ」


 恐縮しきったアレクシオスの肩を軽く叩くと、ルシウスはその場で身体を翻す。

 呵々と笑い声の尾を引きながら遠ざかるその背を、アレクシオスはこうべを垂れて見送った。


***

 

 目抜き通りを何本か折れると、夜の街の喧騒はすっかり遠くなった。

 四人の騎士たちは、官庁街へと続く裏道を歩いている。表通りに較べれば人通りこそ少ないが、各所に配置された街灯のおかげで夜でも明るい道であった。


「んー! 今日はいい一日だったわね」


 イセリアは先ほどまでとは打って変わって上機嫌だった。

 鼻歌を歌いながら、足取りも軽く一行の先頭を進んでいく。


「お風呂では散々な目に遭ったけど、終わりよければなんとやらってやつよね。満足満足――」

「あれだけ食べれば満足もするだろう。こっちが恥ずかしかったくらいだぞ。ああいう場では、もうすこし遠慮というものをだな……」

「なによう。美味しかったんだから仕方ないでしょ。ていうか、殿下だって楽しめって言ってたじゃない」


 苦い顔をするアレクシオスに、イセリアは対抗するみたいに頬を膨らませてみせる。


「そういえば、あんた結局お風呂入らなかったの? すごく広くて素敵だったのに、もったいないわね」


 話題を変えるためか、イセリアはオルフェウスに水を向ける。


「私はアレクシオスと――」


 言葉はそこで途切れた。アレクシオスがとっさに手で口を塞いだのだ。


「アレクシオスと……なに?」

「なんでもない。おれは何も知らないし、おまえには関係のない話だ」

「ねえ、あたしになにか隠してない? あのとき二人で現れたのもなんか引っかかったのよね」


 イセリアは訝るような視線を二人に向ける。

 落ち着きなく視線を泳がせるアレクシオスとは対照的に、オルフェウスはまっすぐにイセリアを見つめ返す。玻璃ガラス玉みたいな真紅の瞳に見据えられることに耐えられなくなったのか、先に視線を外したのはイセリアのほうだった。


 数秒の沈黙ののち、イセリアはあらためて二人を交互に見つめてから、独り言みたいにぽつりと呟いた。


「まさかとは思うけど、一緒にお風呂に入ったなんてことは――」

「絶対にない!! おれは断じてそんなことはしていないし、許すはずがない!!」


 イセリアが言い終わるまえに、アレクシオスは反射的に叫んでいた。

 ふいに生じた大声に通行人も足を止め、怪訝そうな顔を四人に向けている。

 夜の帝都では酔っぱらい同士の喧嘩も珍しくない。うっかり巻き添えを喰わないよう、市民もこの種の騒音には敏感になっているのだった。


 と、エウフロシュネーが心配そうにアレクシオスの顔を覗き込んだ。


「お兄ちゃん、さっきから顔が赤いけど大丈夫?」

「いや……おれは、その……」

「ふうん? あたしは冗談で言ったつもりだったけど、そんなに必死に否定するなんて、ますます怪しい――」


 イセリアはいかにも意地の悪い表情でアレクシオスを問い詰める。

 しどろもどろになりながら、アレクシオスはオルフェウスにちらと視線を向ける。


――おまえは何も言うな。


 目で語りかけたつもりだが、はたして少女にただしくその意図が伝わったかどうか。

 悪気はないにしても、ここでオルフェウスがなにか言えば余計に事態がこじれるのは間違いない。アレクシオスにとっては笑い話ではないのだ。


「で、本当はどうなのよ? 黙ってないではっきり言って。ねえってば!」

「さっきから何度も言っているだろう。おれはなにも――」


 背後から肩を叩かれたのはそのときだった。

 とっさに振り向けば、編笠をかぶった細身の男が目に入った。行李を背負った旅装姿は、街中ではあきらかに浮いている。


「奇遇ですね。みんなでどこかに出かけていたのですか?」


 軽く持ち上げた編笠から覗いたのは、騎士たちもよく見知った顔だった。


「ヴィサリオン――おまえ、帰ってきてたのか!?」

「ええ、なんとか街の正門が開いているうちに戻ってこれました。休暇も今日で終わりですからね」


 そう言って、線の細い青年はいつものように柔和な笑みを浮かべたのだった。


「ところで、なにか大声で言い合っていたようですが、いったい何の話をしていたのですか?」

「なんでもない!! そんなことより、はやく詰め所に戻ろう。おまえも旅から戻ってきたばかりで疲れているだろう?」

「いえ、私は――」


 言い終わらぬうちに、ヴィサリオンの身体はずるずると引きずられていた。

 アレクシオスがなかば力ずくで腕を絡め、詰め所の方角にむかって歩き出したのだ。


「ちょっと待ってよ! さっきの話、まだ終わってないわよ!!」

「しつこいぞ!! その話はもう終わりだ!!」


 にべもないアレクシオスの態度に、イセリアはいかにも不満げな表情を作ってみせる。

 むろん、こちらに背を向けているアレクシオスには見えるはずもない。ただ自分がそうしなければ気が済まないというだけなのだ。

 エウフロシュネーはそんなイセリアの顔を見上げて、いたずらっぽい笑顔を浮かべる。


「本当のことが聞けなくって残念だったね、お姉ちゃん?」

「うっさいわね。お子ちゃまのくせに大人の話に首突っ込むんじゃないの!」

「またお子ちゃまって言った! 子供じゃないよ!」

「ふふん、背も胸もちっこいくせに大人ぶってんじゃないわよ」

「それはそうかもだけど――私、お姉ちゃんみたいに重くないもん!」

「なんですって!?」


 つい先刻ルシウスの登場によって打ち切られた喧嘩は、ところを変えて再開されようとしている。 

 危うく一触即発というそのとき、イセリアとエウフロシュネーはほとんど同時に真横を向いた。

 オルフェウスが二人の肩を叩いたのだ。


「あんたは引っ込んでなさい! 生意気な子供にはお仕置きが必要よ!」

「心配しなくても大丈夫だよ! 私のほうがずっと素早いんだから!」


 どちらに言葉に対しても、オルフェウスはふるふると首を横に振るだけだった。

 そして、そのまますっと腕を水平に上げると、


「置いていかれちゃうよ」


 遠ざかっていくアレクシオスとヴィサリオンを指さしたのだった。


「……仕方ないわね」

「一時休戦だね、お姉ちゃん?」

「ふん――今日のところはそういうことにしといてあげる。いつかケリつけてやるから、そのつもりでいなさい!」

「望むところだよ!」


 そのまま脱兎のごとく駆け出したエウフロシュネーを追いかけようとして、イセリアははたと足を止める。


 傍らで立ちつくしている亜麻色の髪の少女に近づくと、


「ほら、あんたも行くわよ。置いていかれるって言ったのは自分でしょ!」


 白く細い指にみずからの指を絡め、ぐいと引っ張ったのだった。


 駆け出す直前、少女の唇が紡いだ言葉は、すぐに二人分の足音にかき消された。


――ありがとう。


 それは、長いようで短い休暇の最後の夜のこと。

 ひととき訪れた安息の日々は終わり、明日からはいつもどおりの日常が始まる。

 過ぎ去っていく愛おしい瞬間を包み込むように、帝都の夜はゆっくりと暮れていった。

 

【完】

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