第四章:戎装騎士大戦編

第一部

第103話 プロローグ/灰色の鬼(前編)

 銀の糸みたいな雨が降りしきる夜だった。

 真夜中の大地は蒼く煙り、地上のあらゆる事物をぼんやりと霞ませている。


 いま、暗い山道を進む影は四つ。

 不揃いな影たちであった。全員が脂を塗布した革製の雨合羽を着込んでいるため、外観からは顔も肌の色も判然としない。

 それでも、雨具越しに浮かび上がった体格プロポーションから推察するに、どうやら男女二人ずつの集団らしい。


 男の一人は並外れた巨体の持ち主であった。

 胴体は縦にも横にも巨く、手足は大樹の幹みたいに太い。

 だからといって、べつに太りじしという訳ではない。見るものに与える印象はむしろその真逆だ。無骨な岩塊に手足が生えたような男であった。

 もう一人の男は、体格こそ平凡だが、みごとに均整が取れた身体つきだった。

 雨具を脱げば、鍛え上げられた肉体が現れるにちがいない。規格外の巨漢と並んでもいささかも見劣りするところがないのは、内に秘めたはかりしれない強さの賜物であろう。

 女二人に目を向ければ、一人は男二人とおなじ大人の女、もう一人はまだ年端も行かない少女のようだった。


「フィゼカ、どうだ?」


 中背の男が少女に問いかけた。

 だれ一人として足を止める者はいない。

 夜の道を能うかぎりの速度で疾駆しながらの会話だった。


「あの山の向こう側――なにかが燃えてる」

「遅かったか……」

「どうする? ラグナイオス」


 中背の男――ラグナイオスは、前方の闇を睨んだまま、


「手遅れだとしても、俺たちの仕事は変わらない。このまま行くぞ。アトラウス、エレクトラ、俺につづけ。フィゼカは援護をたのむ」


 背後の三人にすばやく指示を飛ばす。

 決断を下すまでにわずかな逡巡もない。じつに手慣れた指揮ぶりであった。


「おう! 合点承知だ!」

「フィゼカ、

「分かってる。みんなも気をつけて」


 短い言葉を交わして、四人は二手に分かれた。

 フィゼカは一人で夜道を横に逸れ、沿道の森に飛び込んでいく。

 小柄な身体は、木々の間に間に紛れる寸前、人ならざる異形へと変じていた。

 その後ろ姿が森の奥に消えたのを見計らって、三人はさらに速度を上げる。文字通り飛ぶような疾さであった。


「それにしても……ヤツめ、脱走しただけじゃなく、まさか本当に味方をやりやがったとはな。くそったれめ――」


 アトラウスは忌々しげに呟いた。

 重い体をすさまじい速度で駆動させながら、一向に息を切らす素振りもない。

 はげしい憎悪を隠そうともしないアトラウスの言葉に、エレクトラはやはり苦りきった声音で答える。


「この分だと生存者はいないと思ったほうがよさそうね」

「あの野郎には自分のしたことの償いをさせてやる。脱走しただけじゃ飽き足らず、味方の兵士を殺すとは、騎士ストラティオテスの風上にも置けねえからな」

「二人とも、分かっているとは思うが、くれぐれも気を抜くなよ」


 ラグナイオスは振り向くこともなく、背中で二人に語りかける。


「奴は――ヘラクレイオスの強さは本物だ。伊達に最強の騎士と呼ばれている訳じゃない。奴が相手であるかぎり、警戒しすぎるということはない」

「最強ならあんたもそうだろう、ラグナイオス」


 あくまで深刻に語るラグナイオスに、アトラウスは剽気た声を返す。


「ヘラクレイオス、オルフェウス、そしてラグナイオス――北方辺境で名を轟かせた最強の三騎士だ。戎狄バルバロイを倒した数で言えば、あんただってほかの二人に引けは取らない。違うか?」

「戦績では奴が第一位、俺は第三位だ。もちろん直接戦ったことはないが……」

「だったらなおさらよ。勝負は蓋を開けるまで分からん。それに、俺たちがついていることを忘れなさんなよ」


 言って、アトラウスは隣の女にちらと視線を向ける。


「今回はアトラウスの言うとおりよ。あなただけじゃない。私たちも一緒に戦うわ」

「二人とも、すまない――頼りにさせてもらう」


 山道の傾斜は次第に険しくなっている。稜線が近い。

 このままの速度で進めば、まもなく山頂に到着するはずであった。


「しかし、本当にレオンを連れてこなくてよかったのかい。置いていかれたのを知ったらきっと拗ねるぜ、あの坊主はよ」

「仕方がないだろう。今回は相手が相手だ。レオンを連れてくるのは危険すぎる」

「フィゼカと違って、あの子は後ろで援護という訳にも行かないものね」

「そういうことだ。……酷な言い方だが、弱点はなるべく減らしておきたい」


 話すうちに、三人は稜線が仄白く色づいていることに気づいた。

 夜明けはまだ遠い。陽の差さぬ真夜中にあって、それは奇妙な明るさだった。

 いつのまにか、きな臭いにおいがあたりを覆っている。


 ほどなくして山頂に達した三人は、一様に息を呑み、硬く握りしめた拳を震わせた。

 彼らの目交に映ったのは、紅蓮の炎にあかあかと染め上げられた山麓の一帯。

 夜雨を浴びてなお激しく燃えさかる辺境軍駐屯地の惨状だった。


***


 地獄――。


 その光景を表すのに、それ以上ふさわしい言葉はないように思われた。

 駐屯地の建物は原型を留めぬほど破壊され、いまやどこが司令部でどこが兵舎であったかの判別もつかないありさまだった。

 おそらく火薬庫に引火したのだろう。青や橙の炎がそこかしこから吹き上がり、あたりに散乱した兵士たちの亡骸を望まぬ荼毘に付している。

 ほんの数時間前までふだんと変わらない時間が流れていたはずの駐屯地には、いまや凄惨な破壊と死だけがある。


 灰白色グレーの異形は、地獄の中心にそびえていた。

 狂い踊る炎に照らされたその姿形は、地上に顕現した冥府の王を思わせた。

 身長は三メートルちかい。

 戎装騎士ストラティオテスはおしなべて人間より巨大だが、それを加味しても常軌を逸した巨大さであった。

 五体を隙間なく覆った分厚い装甲には、はちきれんばかりの緊張が漲っている。それは、内在するすさまじい膂力パワーの示唆にほかならない。

 なにより恐るべきは――その身に秘められた計り知れない力は、すくなくとも今夜はまだ一度も解き放たれていないということだ。

 本来の力の千分の一も発揮することなく、巨大な異形はこれだけの大破壊をただ一人で成し遂げてみせたのだった。

 短い猪首の上には、やはり重厚な装甲に覆われた頭部がある。顔面に刻まれた幾何学模様のスリットには不規則に赤紫色の閃光が走り、額の中心から突き出た長大な独角ケラスを浮かび上がらせる。


 ふいに巨体が反転した。

 振り向いた視線の先には、二人の男と一人の女。

 すでに雨合羽は脱ぎ捨てている。男はどちらも東方人、女は西方人であった。

 ラグナイオスは濡れて顔に張りついた黒髪を気にすることもなく、ゆっくりと一歩を踏み出すと、


「……ヘラクレイオスだな」


 分かりきったことを、しかしあらためて問うた。


「聞こえてんだろう。黙ってないでなんとか言ったらどうだ、この野郎――」


 数秒待っても返答がないことにしびれを切らしたのか、アトラウスは語気強く言い放つ。

 灰白色の巨人は三人にむかってわずかに顎を動かすと、


「――それだけか」


 あくまで短く言った。

 その風貌にいささかも違わぬ、地の底から轟くような低く重い声であった。


「なにい?」

「たったそれだけか――と言った」

「なるほど……つまり、俺たちじゃ『相手にとって不足あり』と言いたい訳か?」


 ヘラクレイオスは何も言わず、腕を組んだだけだ。

 それが返答の代わりだった。使と言っているのだ。


「上等だぜ。吠え面かくんじゃねえぞ、最強さんよ」


 アトラウスの声には静かな怒気が充溢していた。

 剃り上げた額からは白い湯気が立ち昇っている。後頭部から垂らした三つ編みがわずかに浮遊したように見えたのは、あながち錯覚ではあるまい。


「アトラウス、落ち着け!!」

「俺は落ち着いてるぜ、ラグナイオス。もともと一番手は貰おうと思ってたんだ。それに、俺の能力は一人のほうが都合がいいからな」


 アトラウスはすでに大股で一歩を踏み出していた。

 ラグナイオスとエレクトラが見守るなか、アトラウスの巨体は見る間に変貌を遂げる。


「さあ、行くぜ。戎装――」


 つい一瞬前まで雨に打たれていた巨漢の姿は、もはやどこにもない。

 いま、焼け跡に聳立するのは、鉄錆色の戎装騎士ストラティオテスであった。

 人間の姿を取っていたときにも増して太く、そして逞しい姿形。堅牢な装甲をまとった五体の迫力は、ヘラクレイオスと較べてもなんら見劣りするものではない。

 力強さの結晶みたいな身体にあって、四肢に配されたサークル状の器官はひときわ目立つ。

 一見盾のようにも見えるそれは、しかし盾として用いるにはあきらかに面積が不足している。なにより、いまの彼にはいかなる防具も無用の長物であるはずだった。

 そぼふる雨に打たれながら、灰白色と鉄錆色に彩られた二体の巨人は、対決の時を迎えようとしていた。


「よお、覚悟は出来たか? ラグナイオスやエレクトラには悪いが、てめえだけは許しちゃおかねえ。この俺がぶちのめす!!」


 ヘラクレイオスはやはり何も言わず、腕を組んだまま立ちつくしている。

 何もしないがゆえに、その行動はどんな言葉よりも効果的な挑発として作用する。

 先に動いたのはアトラウスだった。

 雨粒を切り裂き、颶風を巻いて剛腕が突き出される。


 拳闘士の構え――。

 人間が培ってきた格闘術も、戎装騎士ストラティオテスによって再現されたなら、まったく異次元の戦闘術へと様相を変える。

 ヘラクレイオスめがけて殺到した右の拳は、勢いもそのままに顔面を強かに打った。

 右拳が引っ込んだが早いか、間髪をいれずに左拳が叩き込まれる。巨体からは想像もつかない、まさしく雲上からほとばしる雷槌のごとき乱打。

 拳は顔面だけにとどまらず、上半身の到るところに叩き込まれていく。

 それも、ただの打撃ではない。すべてアトラウスの全体重をのせた重い一撃だ。

 一打一打が岩山を穿つほどの破壊力を帯びているとなれば、その累積がもたらす破壊力は想像を絶する。

 いかにヘラクレイオスの防御が盤石でも、これだけの打撃を浴びつづけては無事で済むはずがない。


 と、アトラウスがわずかに後じさった。

 時間にしてわずか数秒。

 そのあいだに打ち込まれた拳打の総数は、ざっと三千発を下らないだろう。

 巨岩を微塵に打ち砕き、地形すら変えるほどの打撃を浴びてなお、ヘラクレイオスは平然と佇んでいた。

 灰白色の装甲にはヒビ割れひとつ生じていない。なめらかに雨をはじく表層は、全力を尽くした攻撃のことごとくが無意味に終わったことを示している。

 ヘラクレイオスはやはり腕を組んだまま、まるで何事もなかったみたいにアトラウスを見据える。


「やるねえ――さすがは最強だ。そうこなくちゃ面白くないぜ」


 アトラウスは心底から楽しげに言うと、ふたたび構えを取った。

 先ほどまでの拳闘士の構えとはあきらかに異なっている。どっしりと重心を落とした姿勢は、東方で古来からさかんだった相撲レスリングのそれに酷似している。

 同時にその輪郭が歪んで見えはじめたのは、けっして目の錯覚などではない。

 四肢に配されたサークル状の器官はいつのまにか展開し、内部に据え付けられた透明な結晶体が露出している。


 ずん――と鈍い音を立てて、大地が揺れた。

 アトラウスを中心に半径五メートルの地面が陥没したのだ。

 ヘラクレイオスも足首まで地中に埋もれつつある。

 奇怪であった。アトラウスは指一本触れていないのに、いまこの瞬間もすこしずつヘラクレイオスの身体は地面にめり込みつづけている。


「これが俺の能力だ。本当は力比べで勝ちたかったが、手段を選んでいられる場合じゃないからな」


 重力制御グラヴィティ・コントロール――。

 それこそがアトラウスの真の能力だった。

 自分の身体を中心に巨大な重力渦を発生させ、周囲の物体をことごとく押し潰す。

 その巨体も、並外れた膂力も、すべてはみずからが生み出した高重力に耐えるためのものだ。

 能力の性質上、仲間との共闘には甚だ不向きだった。重力は効果範囲内の万物に無差別に襲いかかり、ひとたび緩めれば敵を解放することにもなる。

 それを知悉しているがゆえに、ラグナイオスとエレクトラも加勢を試みようとはしなかったのだった。


「意地を張るもんじゃないぜ、ヘラクレイオスさんよ。いくらあんたでもいい加減に身体が悲鳴を上げてるだろう。もっとも、命乞いをしても許すつもりはないがな――」


 アトラウスは一歩ずつヘラクレイオスに近づいていく。

 動くたびに身体がみしみしと軋む。すさまじい重力は、アトラウス自身にも多大な負荷をもたらしている。長時間の使用はみずからの生命を奪いかねない、まさしく諸刃の剣だった。


「――なるほど」

「何が『なるほど』、だ? この期に及んでくだらん強がりはよすんだな」


 ヘラクレイオスの顔貌かおに赤紫色の光芒がほとばしった。

 それが合図であったかのように、組んでいた腕がゆっくりと解かれていく。

 重力場によって数百倍の重さを加えられ、だらりと力なく垂れ下がるはずの腕は、しかしアトラウスの予想とはまるで別の動きをみせた。

 腕は上がった――天にむかって、まっすぐに。

 降りかかる重力などなきがごとく。

 ほとんど垂直に屹立した巨腕は、荘厳な二本の尖塔を彷彿させた。


「バカな……」


 あっけにとられたように見つめるアトラウスにむかって、ヘラクレイオスは大きく足を踏み出していた。

 四肢に絡みつく重力をものともせず、沈んだ大地を踏み割りながら、一歩ずつアトラウスに近づく。


「アトラウス!! 逃げろ!!」


 重力場の外でラグナイオスが叫んだ。


「いいや――駄目だ。ここで逃げる訳にはいかねえ」

「何を言っている!! このままではやられるぞ!!」

「上等だ――」


 アトラウスはヘラクレイオスに向かって突進する。

 万物を押し潰す重力の中心で、二体の巨人は真正面から組み合う格好になった。

 数値の上では、両者の体格はほとんど互角であるはずだった。

 むしろ横幅はアトラウスのほうが幾分大きいにもかかわらず、ヘラクレイオスのほうがずっと巨大にみえるのは、重力と雨が大気を歪めているせいではあるまい。


「死ぬときはこいつも道連れだ。ここまで来て逃がす手はねえだろ。もし俺が失敗したら――」


 アトラウスの両肩が下がった。

 とうとう自分で生み出した重力に耐えきれなくなったのだ。

 過負荷を受け止めきれなくなった両腕は大きくひしゃげ、いまにも砕け散ろうとしている。

 アトラウスはいよいよ覚悟を決める。この上は重力場を極限まで強化し、自分の身体ごとヘラクレイオスを抹殺するつもりであった。

 おのれの生命と引き換えに、このおそるべき悪鬼を葬り去ることが出来るなら――それで仲間や多くの人間たちを救えるなら、我が身を惜しむ理由はどこにもない。

 それが戎装騎士ストラティオテスとしてのアトラウスの矜持であった。


「あとは頼んだぜ、ラグナイオス、エレクトラ。フィゼカとレオンによろしく……」


 別れの言葉を告げ、いよいよ重力が最高潮に達しようかというそのときだった。


「――!!」


 アトラウスの上半身が真っ二つに裂けた。

 ヘラクレイオスが拳を振り下ろしたのだ。重力に後押しされた手刀は、やすやすと鉄錆色の巨人を引き裂いていった。

 真に恐るべきは、危機的状況を逆手に取ったヘラクレイオスの冷徹な判断力だ。

 おのれを圧殺すべくのしかかった重力さえ、敵を殺すために利用するとは。

 アトラウスがみずからの策が裏目に出たことを理解したときには、彼の意識は暗い淵へと沈んでいく最中だった。

 戎装騎士の意識を司る中枢部が破壊されたのと、重力場が急激に弱まったのは、ほとんど同時だった。

 ふたたび自由を取り戻したヘラクレイオスは、アトラウスの亡骸を掴み上げ、そのまま


「やめろ――!!」


 飛び出そうとしたラグナイオスをエレクトラは必死に制止する。

 いま迂闊に飛び込めば、残存する重力場に絡め取られ、アトラウスの二の舞を演じかねない。

 そのあいだにも、ヘラクレイオスは手を休めることはない。

 一度、二度、三度……繰り返すたびに鉄錆色の巨体はちいさく折り畳まれ、とうとうヘラクレイオスの掌に収まる程度の鉄塊に成り果てた。


 重力場が完全に消失したのを見計らって、ヘラクレイオスはをラグナイオスにむかって放る。

 泥をはねあげて墜落したそれを、ラグナイオスは両手で拾い上げた。

 豪放磊落で血気盛んな、しかしだれよりも仲間想いだった優しい巨人は、もういない。掌に伝わる冷たい感触が、アトラウスの死が現実であることを否応なしに突きつけてくる。

 ラグナイオスは唇を噛み締め、エレクトラは声を押し殺して泣いた。


「ヘラクレイオス……貴様……」

「はやく決めろ」


 雨中に立つ灰白色の鬼は、二人の騎士を交互に見つめて、言った。


「次に殺されたいのはどっちだ」

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