第104話 プロローグ/灰色の鬼(中編)
降りしきる雨はいっそう冷たさを増したようだった。
いまだ余燼冷めやらぬ戦場で、三人の騎士は戦いの時を迎えようとしていた。
無貌の面に赤紫色の光が流れた。
「決められないなら、二人がかりでもかまわん」
最強の騎士の名に相応しい、それはあくまで重々しい声であった。
「いずれにせよ、結果はおなじだ」
平然と言い放った言葉には、一片の侮蔑も増上慢も含まれてはいない。
ヘラクレイオスは、それが自明の理であるかのごとく、おのれの勝利を宣言したのだった。
「……最初からそのつもりだ。手加減はしない。おなじ騎士を手にかけた報いを受けるがいい、ヘラクレイオス」
言い終わるが早いか、ラグナイオスは疾走へと移っていた。
「――戎装」
その言葉が
逞しい四肢は、一瞬のうちに紺碧の装甲に覆われた異形へと変貌を遂げる。
雄々しい双角を備えた兜が精悍な面立ちに取って代わり、鮮黄色の光芒が幾何学模様の紋様を描く。
右腕の肘から下は長大な槍へと変じている。
身の丈ほどもある長槍であった。
他方、円盾と化した左腕は、防具としてだけでなく、右腕に対するカウンターウエイトとして機能するのだろう。
いま、雨を裂いて突き進むのは、もはや一人の青年ではない。戦闘態勢を整えた一騎の
その背後でエレクトラも戎装を終えていた。
体格はラグナイオスより一回り小柄だが、その分俊敏な動きが可能なはずであった。
エレクトラが動いた。あえて言葉を交わさずとも、二人の騎士は互いのなすべきことを承知しているのだ。
いま、紺碧と淡桃の騎士は、それぞれ異なる方向から攻撃を仕掛けようとしている。
ラグナイオスは力強く大地を蹴り、高々と跳躍する。
高度にしておよそ二十メートルあまり。紺碧の装甲が雨の夜空に溶けていく。
ヘラクレイオスの頭上から攻撃を仕掛けようというのだ。高度が最高に達したところで、両肩と背中の装甲が大きく
刹那――夜空に火球がふくらみ、爆ぜた。
体内に蓄積していたエネルギーを燃焼させ、膨大な推進力へと変換したのだ。
鋭い槍先を灰白色の巨人に向けて、加速に乗った身体はまっすぐに突き進む。
一方、エレクトラは音もなくヘラクレイオスの背後に回っていた。
向こう脛に仕込まれた剣刃が展開し、両足はふた振りの巨大な刀剣へと変わっている。
エレクトラはわずかに身をかがめると、その姿勢のまま低く跳んだ。
狙うはヘラクレイオスの膝裏だ。関節の可動域を確保する関係から、戎装騎士の膝裏はきわめて装甲が薄い。エレクトラは剣と化した脚で蹴撃を叩き込み、ほとんどむき出しの膝関節を破壊するつもりであった。
両方向から迫りくる攻撃を察知してなお、ヘラクレイオスは身動きひとつ取ろうとしない。
桁外れの巨体を泰然とそびやかせ、悠揚迫らぬ様子で廃墟のなかに佇むばかりだった。
すでに命中まで一秒を切っている。どう足掻いたところで攻撃を回避することは不可能であった。
どうすることも出来ないのはラグナイオスとエレクトラもおなじだ。ヘラクレイオスの行動を怪訝に思っても、今さら攻撃の手を緩めることは出来ない。
槍と刃とが分厚い装甲を裂き抉ろうとした、まさにそのときだった。
「くっ――!!」
ラグナイオスはとっさに左腕を突き出していた。
そうしなければ、やられる――ほとんど無意識のうちに取った防御行動であった。
次の瞬間、真下から突き上げてきた巨大な拳が円盾をしたたかに打った。大気が激しくふるえ、衝撃波が建物の残骸を吹き飛ばす。
三十メートル以上も宙を舞ったあと、ラグナイオスは廃墟の一角に着地した。
いまも盾に残る震動がすさまじい威力を物語る。あと一秒でも防御が遅れていたなら、いかにラグナイオスといえども致命傷は免れなかっただろう。
一方のエレクトラはといえば、繰り出した蹴りをすんでのところで下方に修正し、身体を沈めながら地面を深々とえぐっていた。
そうしていなければ、今ごろは襲いかかる裏拳の直撃をもろに受け、跡形もなく破壊されていたにちがいない。
エレクトラはそのまま十メートルも飛びずさり、体勢を立て直す。
危うい所で難を逃れた二騎は、ふたたびヘラクレイオスと対峙する格好になった。
「……よく避けた」
ヘラクレイオスは独りごとみたいに呟いた。
落胆でも怒りでもない。その言葉には、心底からの感嘆の響きがある。
敵が示した予想外の反応に、ラグナイオスとエレクトラはわずかに困惑する。それも一瞬のことだ。
「いまの一撃は絶対に避けられなかったはずだ」
「絶対とは大した自信だが、目論見が外れて残念だったな。見てのとおり二人ともまだ生きている。俺たちをそう簡単に倒せると思わないことだ、ヘラクレイオス」
「お前たちだけの力ではあるまい」
ラグナイオスは二の句を継ぐことが出来なかった。
背筋を冷たいものが伝う。雨粒とはあきらかに異なる感触。分泌されるはずのない冷や汗がじわりと装甲を濡らす。
――見破られたとでも言うのか!?
二人がともに回避不能なはずの攻撃を見切ったのは、単なる偶然などではない。最強の騎士の一人であるラグナイオスだけならいざしらず、エレクトラまでもが回避に成功したのは不自然というほかないからだ。
その裏にはなにかがある――ありえないことを実現させるなにかが。
灰白色の巨人は、二人が攻撃を回避したからくりを見抜いていた。
それは一瞬の攻防のうちに敵手の実力を完璧に見極め、想定し得るあらゆる可能性を虱潰しに検証したことを意味している。
見上げるほどの巨体に宿るのは、並外れた膂力だけではない。
他の騎士を圧倒する超高速演算能力。それこそがヘラクレイオスを最強たらしめている本当の所以だった。
何の武器も特殊能力も持たない代わりに、その身体は知と力の究極を兼ね備えている。
――長引けばこちらが不利だ。
考えるよりもはやく、ラグナイオスの身体は動いていた。
右手の長槍を前方に突き出し、左手の円盾を正中線を守るように高く掲げる。
この体勢からであれば、攻防どちらにも一瞬のうちに転じることが出来る。
北方辺境で数多の
「ラグナイオス!!」
叫んだエレクトラに、ラグナイオスはちらと顔を向ける。
無言の合図――手を出すなと言っているのだ。
エレクトラの戦闘能力は、ラグナイオスに較べれば数段劣っている。実力伯仲の猛者同士の戦いに乱入すれば、却って足手まといになりかねない。
彼女もそれを承知しているからこそ、あえてラグナイオスの指示に逆らおうとはしなかった。
淡桃色の騎士はやはり押し黙ったまま、ちいさく俯くことで同意を示す。
ラグナイオスはそれを認めると、勢いよく地面を蹴った。
紺碧の騎士は一陣の風へとその身を変え、夜雨を引っ切ってヘラクレイオスに急迫する。
***
ラグナイオスの右手の長槍がそう呼ばれるようになったのは、
西方の伝説に名高い聖槍になぞらえられるだけあって、他の
槍と言っても、あくまで見た目が似ているためにそう呼ばれているにすぎない。
人間が用いる槍は、標的を突き刺し、薙ぎ払い、あるいは殴打するための武器だ。一方ラグナイオスの聖槍には、そういった機能はなにひとつ備わっていない。
研ぎ澄まされた槍先は、決してなにものにも触れることはない。
ラグナイオスの右腕は、それ自体が巨大な斥力
見えざる力場は、槍の表面を薄い膜のように覆っている。
力場は質量をもたない非物質であるがゆえに、その先端は地上のどんな物質よりも細く、そして鋭い。
ひとたび力場に触れたなら、いかなる物質も不可視の反撥力によっておしのけられ、やすやすと穴を穿たれる。どれほど硬度や靭性にすぐれた物質であろうと、分子間構造よりも微細な力場の侵入を防ぐことは出来ないのだ。
一切の防御を無からしめ、一突きであらゆる敵を死に至らしめる。
その比類なき威力は、まさに聖槍と呼ぶにふさわしい。
たとえヘラクレイオスの装甲が鉄壁の防御を誇るとしても、槍先が触れた瞬間にラグナイオスの勝利は確定するはずであった。
初手をかわされたのは予想外だったが、一対一の戦いであれば勝機は十分にある。
どちらも最強格の騎士同士。実力は互角――そのはずだった。
ラグナイオスの繰り出す攻撃はことごとくかわされ、槍先は灰白色の装甲をかすめもしない。
巨体に似合わぬ敏捷な動き。防御は的確そのものだ。まるでラグナイオスの思考を先読みしているみたいな体捌きであった。
――なぜ当たらない?
戎装騎士は、どれほど激しく動き回っても疲れを感じることはない。
目にも留まらぬ疾さで槍を振り回しても、ラグナイオスは息ひとつ切らしていない。それは守勢に回っているヘラクレイオスもおなじであった。
鋼の身体は疲労を知らなくても、
終わりの見えない攻防の応酬のなか、焦燥がラグナイオスを追い立てる。
本来なら勝負はとうについているはずであった。
ヘラクレイオスの動きは完全に見切っている。巨体が一瞬あとにどう動くのか、手足がどの位置にあるのか。ラグナイオスにはすべて分かっている。
それにもかかわらず、いまだに勝負はついていない。
必殺を期した攻撃はことごとく空を切り、ヘラクレイオスはかすり傷ひとつ負っていない。反撃に移ることもなく、拳を固く握ったまま両腕をだらりと垂らしている。
「不思議か?」
攻撃が熄むのを待っていたように、重々しい声が灰白色の装甲から漏れた。
ヘラクレイオスはラグナイオスを見据え、なおも言葉を継ぐ。
「目論見が外れて焦っているのだろう」
「余計なお世話だ。そんなことより、自分の心配をするがいい」
ラグナイオスは半身になり、左腕の円盾を突き出す。八双の構え。
盾で右腕を隠し、構えを見せまいとしているのだ。
「次は外さん――」
***
山の斜面には濃い闇が立ち込めていた。
あたりは人の気配もなく、梢から落ちる雨滴が下草を打つほかには音もない。
と、木立のあいだの暗がりでなにかが動いた。
頭部から首筋を覆った兜は、ちょうど眉あたりで大きく広がっている。垂直にながく伸びた頭頂部とあいまって、貴婦人の帽子を思わせた。
翡翠色の騎士――フィゼカは、木々の幹に身を隠し、じっと息を潜めていた。
彼女のいる地点から戦いの舞台である駐屯地までは、ゆうに三キロあまりも離れている。
いかにすぐれた視力をもつ戎装騎士でも、これほどの距離を隔てては、おぼろげにしか状況を把握出来ないはずであった。
それも普通の騎士であればの話だ。騎士たちのなかにあって、フィゼカは数少ない例外だった。
戦場を遠く離れた場所にいながら、彼女はヘラクレイオスと仲間たちの戦いをつぶさに観測している。
アトラウスが無惨に殺された瞬間も、けっして目を逸らすことなく見届けた。ともすれば、近くにいたラグナイオスとエレクトラよりもずっと鮮明に。
すぐれているのは視覚だけではない。戦場で交わされた一言一句に至るまで、フィゼカは遺漏なく聞き取っている。
他の騎士を寄せ付けない高性能の感覚器と、比類なき分析能力――それこそがフィゼカの最大の武器だった。
感覚器が捕捉した情報から導き出された分析結果は、随時ラグナイオスとエレクトラに送信されている。時には最適な戦術を提案し、予測される危険を警告するのも彼女の役目だ。
戦闘能力を持たないフィゼカは、文字通り仲間たちの目と耳を担っている。
その仲間たちもすでに一人を失っている。あのとき、アトラウスはおのれの生命を犠牲にしてヘラクレイオスの本気を引き出そうとしたのだ。
すべてはフィゼカに敵の力を見せるために。そして、後に続く仲間たちのために。
重い代償を払った以上、絶対に失敗は許されない。どうあっても勝利を掴まなければならない。
万が一しくじれば、またしても仲間を失うことになる。目と耳に絶対の信頼を寄せる仲間たちは、自分を信じて死地に飛び込んでいくことだろう。そして、誤った判断を下した自分を恨むこともなく死んでいくにちがいない。
だからこそ、それだけはなんとしても避けなければならなかった。
フィゼカは持てる能力のすべてを振り絞り、一秒ごとに数千万とも数億ともしれない戦術を検討する。そのなかから勝利する可能性の高いものを慎重に拾い上げ、さらに一つずつ削ぎ落としていく。
何度も、何度でも、膨大な選択肢から最適解を選り分ける。
そうして残った唯一の解をラグナイオスとエレクトラにむけて送信する。
どちらか一方だけではなく、二人がともに生き残る可能性が最も高い解答を。
――なのに、なぜ。
確実にヘラクレイオスを仕留めるはずだった二人同時の攻撃は失敗し、ラグナイオスの目にも留まらぬ速攻はまったく効果を上げていない。
分析は完璧のはずだった。ヘラクレイオスの挙動は完全に予測しているはずだった。数億通りの選択肢から選り抜いた最善手のはずなのに、なぜ――。
フィゼカはあらためて戦場の二人を見つめる。
ラグナイオスの猛攻に晒されてなお、ヘラクレイオスは小揺るぎもしていない。
最短にして最速、そして最小限の動作。一切の無駄を排除しているがゆえに、ほとんど静止しているように見えるのだ。
アトラウスの乱打をまともに浴びていた時とは打って変わって、およそ三メートル近い巨体に見合わぬ俊敏な動きであった。
槍先はむなしく空を裂き、紺碧の装甲はいたずらに闇に踊るばかり。
この瞬間もフィゼカはヘラクレイオスの次の挙動を予測し、絶えまなく送信し続けている。
――もしかして、私のせいなの?
フィゼカの胸裡をそんな考えがよぎったのも無理からぬことだ。
予測はことごとく外れ、ラグナイオスは闇雲な攻撃を繰り返している。
ヘラクレイオスが一向に反撃に転じないのは奇妙だったが、このままでは埒が明かない。
フィゼカが次の一手を打つべく思案を巡らせはじめたそのときだった。
ふいにヘラクレイオスの右手が閃いた。
固く握り込まれていた拳は、いつのまにか大きく開かれている。
――まるでなにかを手放したみたいに。
それに気づくより早く、フィゼカは胸に熱いものがこみ上げてくるのを感じた。
ゆっくりと視線を落とすと、胸部の装甲がささくれているのがみえた。
胸の中央よりすこし上、幾重にもめくれあがった装甲の合間に、なにか細長いものが突き立っている。
震える指でその末端を掴み、ずるり――と引き出す。
背中まで突き抜けた金属片は、見慣れた鉄錆色をしていた。
それが仲間の装甲の色だと気付いたのと、フィゼカの意識がかき消えたのは、ほとんど同時だった。
翡翠色の騎士は深い下生えのあいだにくずおれて、二度と起き上がることはなかった。
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