第105話 プロローグ/灰色の鬼(後編)
「何を……した?」
ラグナイオスは低く呟いた。
問いかけるというよりは、まるでひとりごちるみたいな声であった。
ほんの数秒前までたしかに繋がっていたもうひとつの目と耳の感覚は、いまはもうない。
フィゼカからラグナイオスとエレクトラへと伸びていた不可視の糸は、ふっつりと断ち切られている。
理由があって接続を解除したのではないことは分かっていた。仲間たちを結んでいた
全身に雨粒を浴びながら、紺碧の騎士は
「何をしたと聞いている――ヘラクレイオス!!」
「もう分かっているのだろう」
激高するラグナイオスに対して、ヘラクレイオスはあくまで平然と言い放った。
「貴様らの目と耳はもう使えなくなった」
驕るでもなく、嘲笑うでもなく。
ヘラクレイオスはこともなげにそう言うと、
「まだ続けるつもりか?」
ラグナイオスの目の前で巨大な拳をあらためて握り込み、問うたのだった。
直截な言葉こそ用いていないが、それはあからさまな挑発であった。
あるいは――死の宣告と言い換えてもいい。ヘラクレイオスはすでに二人の騎士を葬り去っている。今さら死者の数が一人増えたところで、惨状を現出させた張本人にとってさしたる違いはないはずだった。
ラグナイオスは無言のまま、右腕の聖槍をヘラクレイオスにむかって突き出す。
最初から決まりきった答えだ。この戦いが始まった瞬間から、逃走も降伏も選択肢から削げ落ちている。
アトラウスとフィゼカを失ったいま、ラグナイオスはなんとしても彼らの無念を晴らすつもりだった。
もとより我が身を惜しんで勝てる相手ではないことは承知している。勝利と引き換えにみずからの生命を失うことになるとしても、ラグナイオスに迷いはなかった。
決戦を前にして、紺碧の騎士の胸中に去来する想いはひとつ。
最強の騎士の一人として、おのれの持てる力のすべてを叩きつけ、目の前にそびえる悪鬼を葬り去ること――。
「行くぞ――ヘラクレイオス」
右手に聖槍、左手に円盾を構え、ラグナイオスは低く跳んだ。
降りしきる雨が装甲を濡らすより速く、紺碧の騎士は一陣の夜風となって戦場を駆け抜けていく。
ラグナイオスがヘラクレイオスの間合いに飛び込んだのと、聖槍の乱れ突きが繰り出されたのは、ほとんど同時だった。
まさに神速と呼ぶにふさわしい、それはすさまじい連撃であった。
一秒間に千を超える猛烈な打突がヘラクレイオスに襲いかかる。
ただ闇雲に突くばかりではない。時に薙ぎ払い、時に袈裟懸けに振り下ろす。電閃の疾さで槍が打ち下ろされたかとおもえば、おなじ疾さの一閃が真下から雨を切り裂いて昇っていく。
恐るべき技巧に裏打ちされた槍技の数々。剛柔を併せ持った手練の技は、無限に組み合わされ、ただ一度としておなじ軌道を描くことはない。
フィゼカの支援を失ったにもかかわらず――否、失ったからこそ、ラグナイオスの戦闘能力は極限まで高まっている。
槍の扱いにかんして圧倒的な技術を誇るラグナイオスだが、それに加えて、聖槍にはあらゆる物体を穿孔する特性が宿っている。
ひとたび槍に触れれば、ヘラクレイオスの重装甲でもたやすく穴を穿たれるのだ。
それまで泰然自若と佇んでいたヘラクレイオスが、ここに至ってはっきりと回避に転じたのも道理だった。
巨体はほんの少しずつ、しかし確かに後じさりはじめていた。
灰白色の巨人は、身体の大きさと膂力ではるかに劣るはずのラグナイオスに追い立てられ、後退を余儀なくされていた。それは、ラグナイオスの猛攻にヘラクレイオスがあきらかな脅威を感じていることを意味している。同じ場所に踏みとどまって戦うことを放棄せざるを得なかったのだ。
すこし離れた場所で戦いを見守るエレクトラの目に、その光景は信じがたいものとして映った。
――このままヘラクレイオスを倒せるのでは……。
つい今しがたまで消えかけていた希望の火は、ふたたび灯ろうとしている。もうひとりの最強の騎士は、決して起こらないはずの奇跡を引き寄せつつある。
そのあいだに、ラグナイオスとヘラクレイオスはいったん距離を取り、ふたたび対峙する姿勢を取っていた。
一瞬前まで繰り広げられていた攻防は、時間にして十秒にも満たなかっただろう。
現実ではほんのわずかな時間が経過したにすぎない。そのわずかなあいだに、ラグナイオスは攻勢に転じ、一方のヘラクレイオスからは余裕が消え失せている。
「もう終わりだ、ヘラクレイオス」
ラグナイオスの声はあくまで静かだが、その根底には隠しようもない怒気が漲っていた。
怒りが最高潮に達したとき、外に表出する感情は、一転して氷みたいな冷たさを帯びるものだ。いまのラグナイオスはその典型だった。雨に濡れた紺碧の装甲と槍はすっかり冷えきり、それゆえにおそるべき鋭さを備えている。
「貴様は人間を……そして、仲間を殺しすぎた。これ以上犠牲者が出る前に、俺が始末する」
「……出来るのか」
「当然だ――貴様にかける情けなどない」
ラグナイオスはふたたび槍と盾を構えると、そのまま疾走に移った。
狙うはヘラクレイオスの胸の中心。分厚い胸部装甲の内側には、
どれほど装甲が厚くても、聖槍を防ぐことは不可能だ。槍先は薄紙でも裂くみたいにやすやすと胸腔を突き破り、ヘラクレイオスの息の根を止めるだろう。
――これで終わりだ。
疾走が最高速に達したところで、ラグナイオスの背中と両肩の装甲が大きく展開する。
総計二十二の
背中で増速装置が展開したとほとんど同時に、身体の前面でも変化が起こり始めていた。
構えた聖槍を取り込むように、胸部と腹の装甲がせり出してくる。装甲は槍の後端をがっちりと
背中の装甲を羽、聖槍を
直後、両脚が地面を離れたのを合図として、すべての噴射口が青白い炎を吐いた。
ラグナイオスの身体を中心に生じたまるい
音を追い越した紺碧の騎士は、加速に乗ってヘラクレイオスへと殺到する。
先ほど急降下攻撃を仕掛けたときよりもはるかに速い。地面に激突する恐れがない分、存分に速度を上げることが出来るのだ。
ヘラクレイオスはといえば、避けるでもなく、同じ場所に突っ立ったままラグナイオスを待ち構えている。
堂々たるその佇まいも、この状況では愚か者めいて見える。巨大な騎士は、恐怖を前に魯鈍に成り果てたとでもいうのか。
両者の距離は急速に縮まりつつある。もはや激突は避けられない。それは取りも直さず、ヘラクレイオスの最期を意味している。
――勝った!!
命中を確信したラグナイオスは、はやくも装甲の下で快哉を叫んでいた。
一瞬、ヘラクレイオスの腕がのろのろと動いたように見えたが、今さら何をしたところで手遅れだ。
と、爆発音が背後で轟いた。抜き去った音がようやく追いついたのだ。
すさまじい衝撃がラグナイオスの全身を突き抜けていったのは、次の瞬間だった。
ふいに視界が暗くなる。続いて、硬質の物体におもいきり叩きつけられる感覚。それはむしろ喜ばしいことだった。突撃が成功した証だ。
ようやく身体の感覚が戻ってきたとき、ラグナイオスは自分が泥濘のなかに沈んでいることに気付いた。
手足に力を込める。動かない。冷たい雨が装甲を滴り落ちていく。じゃりじゃりとした砂泥の感触が不快だ。戦場でいつまでも寝転んでいる訳にはいかない。はやく起き上がらなければ。ヘラクレイオスはどうなった――。
泥濘のなかでようよう首を巡らせたところで、ラグナイオスはまたしても動けなくなった。
自分がそいつの足元に転がっていることに気付いてしまったからだ。
赤紫色の光がはるか頭上から見下ろしている。
灰白色の装甲に鎧われた巨腕がゆっくりと降りてくる。
太い腕に掴み上げられたところで、ラグナイオスはようやく理解した。
いまの自分には、もうまともに戦う力などひとかけらも残っていないことを。
そして――すべてを注いだ必殺の一撃を受けてなお、ヘラクレイオスは健在であることを。
***
「なぜ……」
ラグナイオスは首を掴んで持ち上げられた姿勢のまま、苦しげに呻いた。
美しい紺碧の装甲は見る影もなく砕け、四肢はあらぬ方向にねじ曲がっている。
右腕に至っては肩から消え失せていた。肘下の聖槍はどこへ消えたのか。ヘラクレイオスを倒すたったひとつの切り札は――。
「なぜ……生きている……」
「知りたいか」
ヘラクレイオスの声音はあくまで冷たかった。
獲物をなぶるでもなく、みずからの並外れた武力を誇示する訳でもない。灰白色の騎士は、あくまで気のない素振りで言葉を継いでいく。
「これだ」
言って、ヘラクレイオスは左の拳を示す。
子供ひとりくらいならすっぽり隠れてしまいそうな巨大な掌の中心には、細長いものが深々と突き立っている。
「…………!!」
それがなんであるか理解したとき、ラグナイオスは言葉を失った。
聖槍――ヘラクレイオスの左掌に突き刺さっているのは、失われた右腕だった。
おそらく強引に引きちぎられたのだろう。切断面は荒れ、砕けた装甲が無惨にぶら下がっている。
何よりの問題は、なぜそれがそこにあるのかということだ。
「バカな……」
「お前の技は
ヘラクレイオスはラグナイオスを自分の目線の高さに持ち上げ、滔々と語って聞かせる。まるで教え子を諭すみたいな口ぶりであった。
「だが、今回は相手が違った。
あの瞬間――。
ヘラクレイオスはラグナイオスの聖槍を左手で受け止め、そのまま右手の手刀を振り下ろして垂直に切断したのだ。
さながら
ヘラクレイオスはただ一撃でラグナイオスの最大の武器を奪い去ったのだ。
本体からのエネルギー供給を失った聖槍は機能を停止し、ラグナイオスは勢いもそのままに大地に叩きつけられたのだった。
多大なダメージと引き換えに敵を抹殺するはずだった捨て身の大技は、なにひとつ効果を挙げることはなかった。あらためて残酷な現実を突きつけられ、ラグナイオスはほとんど気死したみたいに動けなくなった。
「俺を殺すつもりか……?」
「そのつもりだ」
短く言って、ヘラクレイオスは指に力を込める。
太い指がラグナイオスの首と胸に食い込んでいく。紺碧の装甲が軋りを上げ、艷やかな表面に無数のヒビ割れが走る。
指が沈んでいくたび、ラグナイオスは声にならない呻吟を漏らす。
「貴様を生かしておく理由はない――」
ヘラクレイオスの言葉には憎悪も怒りもなく、だからこそ限りなく非情だった。
あと数秒でラグナイオスの胸部が弾け飛ぶという、まさにそのときであった。
夜闇に薄桃色の影が踊った。
大地を蹴った影は、ヘラクレイオスの後頭部に強烈な回し蹴りを見舞う。
「エレクトラ、よせ――!!」
ラグナイオスが叫んだとき、エレクトラの身体はすでに闇の空にあった。
薄桃色の騎士は空中で三度ばかり回転したあと、軽やかに着地する。
ネコ科動物もかくやという見事な身のこなし。
しかし、それ以上に驚異的だったのは、ヘラクレイオスの防御力だ。
ぼんのくぼのあたりに
それもそのはずだ。首筋は分厚い装甲に覆われている。人間にとっては最大の急所でも、戎装騎士には当てはまらない。
「私が相手よ!!」
両腕の剣刃を展開し、果敢に立ち向かおうとする女騎士に対して、
「なるのか? ……貴様で?」
ヘラクレイオスは、まるで他愛もない茶飲み話でもするみたいに、あっさりと言ったのだった。
「何を――」
「相手になるのかと訊いた。一方的に殺されるだけなら、相手になるとは言えまい」
「大した自信だけど、それが命取りよ。相手になるかどうか、試してみるといいわ!!」
言い終わるが早いか、エレクトラは疾風のごとく駆け出していた。
エレクトラの武器は全身に配置された鋭利な剣刃だ。まともに当たれば、高さ十メートルの巨岩さえまっぷたつに断ち割ることが出来る。敏捷な身のこなしと相まって、華奢な見た目からは想像もつかないほどの戦闘力を秘めた騎士であった。
対するヘラクレイオスはといえば、迎撃の素振りもみせない。
エレクトラにとってはむしろ好都合だった。こちらを侮っているなら、それにつけ込むまでだ。
薄桃色の騎士はヘラクレイオスの顔面にむかって飛びかかる。
目を潰そうというのだ。いかに最強の騎士といえども、視力を奪われては十全の力を発揮することは不可能だ。
むろん、エレクトラもそれだけで勝てるとは思っていない。
ラグナイオスを奪還し、二人でこの戦場を離脱することが出来れば十分だった。
エレクトラの右脚がヘラクレイオスの顔に届こうかというとき、音もなく巨大な左手が行く手を遮った。
進路を塞がれてなお、エレクトラは慌てる様子もない。ヘラクレイオスが何もせずに攻撃を受けるとは最初から思っていない。この程度の妨害は想定の範囲内だった。
エレクトラは空中で身体を回転させ、左手にむかって横蹴りを放つ。
指の二、三本程度であれば、剣刃に触れただけで切断することが出来る。ヘラクレイオスの行動は悪手だ。攻撃を止めることは出来ず、ただ無意味に指を失うだけなのだから――。
内心でほくそ笑んだエレクトラだが、それも長くは続かなかった。
あろうことか、左手は真正面から剣刃を受けた――それも、人差しと親指だけで。
剣刃は受け止められ、二本の指に挟まれて微動だにしない。
数十トンはある大岩に挟み込まれたようであった。
「この――離せ!!」
エレクトラの叫びに応えたかどうか。
薄桃色の騎士はふいに凄まじい加速のなかに投げ込まれた。
ヘラクレイオスが腕を振り上げ、エレクトラを激しく振り回しているのだ。
それもほんの一瞬のこと。五体が引き裂かれるのではないかというほどの衝撃を感じた直後、エレクトラは五十メートルほど離れた廃墟に叩きつけられていた。
他の建物と同じように原型を留めぬほどに破壊され、いまは廃材の山としか見えないが、どうやら元は武器庫だったらしい。あたりに散らばったさまざまな武器や防具がそれを証明している。
エレクトラが立ち上がろうとした瞬間、その身体は近くの柱に勢いよく衝突した。
もっとも、そのありさまは衝突というより、
「――――――!!」
縫い留められたと言ったほうがずっと正確だろう。
鋭く長い物体が腹から腰にかけて貫通し、哀れな女騎士を磔にしている。
エレクトラはおそるおそる視線を落とすと、絶望に満ちた吐息を漏らした。
彼女の身体を串刺しにしているのは、紺碧の長槍――ラグナイオスの聖槍だった。
ヘラクレイオスは、ラグナイオスを右手に握ったまま、左手の指だけで聖槍を抜き取り、エレクトラにむかって投擲したのだった。
本体からのエネルギー供給を断たれ、あらゆる物体を穿つ能力は失われても、その鋭利な先端はおそるべき破壊力をもつ。そこにヘラクレイオスの桁外れの膂力が加われば、戎装騎士の装甲を貫通する破壊力を与えることなど造作もないのだ。
それにしても――皮肉というほかない。
不可視の
惨事に用いられたのがラグナイオスの身体から切り離された後だったのは、まだしも不幸中の幸いといえた。
「ヘラク……レイオス……!!」
ラグナイオスは血を吐くような声で叫んだ。
顔面を走る鮮黄色の光は弱々しく明滅を繰り返し、装甲の裂け目からはどろどろとした液体がこぼれ落ちる。
瀕死の重傷を負っていることはあきらかだ。騎士の自己再生能力にも限界はある。これ以上の損傷を被れば、その瞬間にラグナイオスは永遠に機能を停止するはずであった。
「俺はまだ生きている……エレクトラに手を出すのは、俺を倒してからにしろ……!!」
「貴様らの運命はもう決まっている。今さら死ぬ順序にこだわる意味があるとは思えん」
「だまれ……ッ!!」
ラグナイオスは左手の円盾を突き出していた。
真円にちかい盾が変形を始めたのはその瞬間だった。
盾の外周が大きく展開し、中心部が前後にながく伸展する。
目を瞬かせるほどのわずかな時間。そのあいだに円盾は変形を終えていた。
「喰らえッ!!」
弩の先端から放たれたのは、ひとすじの閃光だった。
盾に内蔵された
これこそがラグナイオスのもうひとつの武器だった。
打ち出される弾体は、みずからの身体を構成する質量を転用したものだ。
それゆえ連射は効かず、起動には身体に多大な負荷を強いる。万全の状態でも三発の発射が限度であった。
まさしく最後の切り札――絶体絶命の状況にあるラグナイオスにとって、おのれの生命と引き換えに放つ起死回生の一発だった。
発射とほぼ同時に最高速に達した弾体は、ヘラクレイオスの胸部にむかって直進する。
灰白色の装甲の上で火球が膨れ上がった。巨体がおおきく揺らぐ。装甲片と爆炎がラグナイオスに容赦なく降りかかる。
ヘラクレイオスの背から突き抜けた弾体は、傍らの廃墟をやすやすと貫通し、はるか彼方の草むらを炎に包んだ。弾体は大気との摩擦でほとんど塵と化してなお、雨に濡れた草を焼き払うほどのエネルギーを宿しているのだ。
「勝った……奴を、倒した……」
ラグナイオスは右手の拘束を解き放つと、ほとんど落下するような格好でぬかるんだ地面に降りる。
これまでの戦いで受けた痛手に加えて、無理を押して電磁加速砲を使用したためだろう。紺碧の騎士は膝からがくりと崩折れる。
「アトラウス、フィゼカ、見ていてくれたか。みんなの仇は取った。奴はこの手で葬った――」
ラグナイオスはぬかるみに片膝を突いたまま、夜空にむかって勝利を報告する。
背後で何かが動いたのはそのときだった。
すぐ後ろで前触れもなく山脈が隆起したようであった。それほど重く、大きな何かが生起したように感じられたのだ。
ラグナイオスは振り返ろうとして、すさまじい風圧におもわず防御の姿勢を取る。
はるか頭上から迫りくる手刀が巻き起こしたものだと気付いたときには、すでに右の肩口から左の太腿までを切り裂かれたあとだった。
不揃いな断片のうち、意識はまだ一方に残っていた。泥の海に沈みながら、紺碧の騎士は灰白色の巨人を見上げる。
「なぜ……」
「また『なぜ』か。同じことを同じ相手に何度尋ねるつもりだ?」
「あれを喰らったのに、なぜ……まだ……生きて……」
「貴様の狙いは正確だった。だが、俺の身体はすべて武器であり、防具でもある。ただそれだけのことだ」
その言葉を耳にしたとき、ラグナイオスはすべてを理解した。
ヘラクレイオスは何の武器も防具も持っていない。今の今までそう思い込んでいたのは、取り返しのつかない誤算だった。
思い返せば、聖槍を受け止められた時に気づくべきだったのだ。
ヘラクレイオスの身体は強力な武器の集合体であり、堅牢な盾でもある。そして、そのどちらもみずからの意思で自在に切り替えることが出来る。
電磁加速砲の弾体が着弾する寸前、ヘラクレイオスは瞬時に体内の構造を組み換え、胸部そのものを盾へと変えたのだ。
弾体は正確な角度で突入したが、体内で射線を捻じ曲げられ、あらぬ方向から排出された――これが真相だ。命中したにもかかわらず、仕留められなかったのも道理であった。
薄れゆく意識のなか、ラグナイオスの脳裏を仲間たちの顔がよぎっていく。
もしふたたび彼らに会うことがあったなら、自分がすべきは弁明か、それとも謝罪か。
おそらく、彼らはそのどちらも望まないだろう。そんな仲間たちだった。
ぼやけつつある視界を灰色が覆い尽くそうとしている。不思議なほど恐怖も危機感も感じなかった。見知った世界のなにもかもが遠ざかっていく。
冷たい泥に抱かれながら、ラグナイオスはあたたかな夢に身を委ねる。
ややあって、廃墟にちいさな音が生じた。陶器の皿を割ったみたいな音だった。
雨に包まれた世界の片隅で、いま、ひとりの騎士の物語が終わった。
***
近づいてくる足音に、エレクトラは身体を強張らせた。
ラグナイオスではない。こちらに向かってくる足音はずっと大きく、重い。
すでに戎装は解けている。
大きなダメージを受けたために、戎装を維持出来なくなったのだ。
腹のあたりは赤黒く染まっている。身体を貫いて背後の柱に突き刺さっているのはラグナイオスの聖槍だ。下手に抜くことも出来ず、エレクトラは自己再生能力によって傷が塞がるのをじっと待っているのだった。
――動けるようになれば、ラグナイオスを助けに行ける。
そんな儚い希望は、しかしあっけなく打ち砕かれた。
距離を隔ていても、ラグナイオスとヘラクレイオスのやり取りは耳に入ってきた。その結末も。どうやら間に合わなかったらしい。
まもなく視界に侵入してきた
精一杯の戦意をふりしぼってヘラクレイオスを睨めつける。そんなことをしたところで何の意味もないことは分かっている。それでも、そうせずにはいられないのだ。
すみれ色の瞳に涙を浮かべながら、自分はまだ戦う意志があることを示す。
いじましさを見せる西方人の女にむかって、ヘラクレイオスはゆっくりと近づいていく。
「奴は死んだ」
「死んだ? ――殺したの間違いじゃないの」
「その通りだ」
ヘラクレイオスはあっさり認めると、エレクトラに顔を近づける。
「貴様は殺さない。生きていようと死んでいようと関係ないからだ。その程度の傷なら死にはしない。動けるようになったら、どこへでも行け」
「そう――助けてくれるなんて、案外優しいのね」
「弱い者には興味がないだけだ」
それだけ言うと、ヘラクレイオスは踵を返した。
数歩進んだところで、ふいに足を止めた。
その背後では、エレクトラが腹に突き刺さった聖槍を引き抜き、ヘラクレイオスに飛びかかろうとしているところだった。
傷口の再生はまだ完了していない。まさに捨て身の攻撃であった。
空中で戎装を終えた薄桃色の騎士は、ヘラクレイオスの背部の傷を目ざとく見つけ出していた。
まともに立ち向かっても、自分の膂力ではヘラクレイオスの装甲に傷をつけられないことは分かっている。ラグナイオスの聖槍も、いまはただの鋭い槍でしかない。
だが――いかに鉄壁を誇る装甲だろうと、傷ついているなら話は別だ。
傷口に聖槍を突き入れれば、あるいは勝機があるかもしれない。
――ラグナイオス、私に力をちょうだい!!
ヘラクレイオスが振り返るまではまだ猶予がある。
それまでに聖槍の槍先が傷口に達したなら、エレクトラの勝ちだ。
ヘラクレイオスは振り返らなかった。ただ、右腕の肘から先を軽く旋回させただけだ。
それで十分だった。
巨大な拳圧は雨滴ごと大気を巻き込み、きわめて小規模な嵐を発生させた。エレクトラの身体は小さな嵐に吸い寄せられ、強引に軌道を歪められる。
ようやく自由を取り戻したとき、真正面にヘラクレイオスがそびえていた。
いつのまに向きを変えたのか。灰白色の巨人は、目鼻のない顔でエレクトラをまっすぐに見据えている。
「よくもラグナイオスたちを――!!」
聖槍を突き出しながら叫んだその言葉が、エレクトラの遺言になった。
ヘラクレイオスはただ腕を前方に突き出しただけだ。戎装騎士を葬るにはそれで事足りる。派手な技も、驚天動地の異能も、この巨人には必要ない。
巨拳に触れた瞬間、エレクトラの身体は微塵に砕けていた。
装甲は破片を通り越して、ほとんど粉みたいになって地面に降り注いだ。
ぬかるみに撒き散らされた美しい結晶。
それがほんの数瞬前まで人間の形をしていたとは、だれが想像出来るだろう?
ヘラクレイオスは砕け散った敵手には目もくれず、生命という生命がすっかり消え失せた駐屯地を後にする。
熄む気配もない雨のなか、灰白色の後ろ姿は次第に霞んでいく。
すこし進んだところで、巨人の輪郭が大きく変わった。戎装を解いたのだ。
戎装態に較べればいくぶん小さいが、それでも見上げるほどの巨体だ。
黒褐色の肌の偉丈夫であった。
筋肉の鎧をまとった逞しい身体。頭髪も眉もない精悍な顔には、いにしえの哲学者もかくやという知慮が宿る。優秀な戦士とは、往々にして粗暴や野卑とは最も遠いところにいるものだ。それは戎装騎士においても変わらない。
ヘラクレイオス――。
『帝国』最強の騎士は、いまや『帝国』最大の敵となった。
夜が白みはじめ、すっかり雨が上がったとき、ヘラクレイオスの姿はどこにも見当たらなかった。
翌朝、駐屯地に到着した人々が目にしたのは、雨に洗われてなお凄惨な殺戮の痕だけだった。
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