第106話 皇帝ルシウス

 その日、帝都まちは音と色彩の海に沈んでいた。


 市街地のそこかしこで奏でられる陽気な音曲と、家々の壁を飾る色とりどりの幕のためだ。どこから引っ張り出してきたのか、通りに面した家は競うように外観を飾り立てている。

 目抜き通りには何万とも何十万ともしれない人が押し寄せ、沿道の家屋や商家は即席の観客席と化したようであった。

 窓辺から身を乗り出した者のなかには、空に向かって高らかに放吟する者もいる。唄うのは、むろん皇帝と『帝国』を讃える歌だ。

 通りに整然と並んだ中央軍の兵士たちも、浮かれた市民をあえて咎めることはしない。

 今日ばかりはそれが許される。よほどの狼藉に及ばぬかぎり、市民が多少はめを外したところで目こぼしをされるのが古帝国時代からの慣習だった。


 先帝が崩御してからというもの、帝都イストザントからはあらゆる娯楽と音楽が消えた。建前上は先帝の死を悼む帝都市民による自粛とされたが、実際は中央軍が街頭できびしい取締を行っていたのだ。あえて逆らう者があれば、皇帝侮辱罪の名目で容赦なく引っ立てられた。

 夜ごと人でごった返していた盛り場には閑古鳥が鳴き、世界一の殷賑をほこる市場も火が消えたように静まり返った。

 市民は着物の色まで制限され、息も詰まる日々を送っていたのだった。

 新帝即位とともにそうした規制が一斉に解除されたとあれば、それまでの反動でお祭り騒ぎが始まるのも当然というものだった。


 もっとも、市街を包む熱気はそのためだけではない。

 市民を熱狂させる数十年に一度の祝祭イベントが間近に迫っているためだ。

 新皇帝ルシウス・アエミリウス・シグトゥスは居城である帝城宮バシレイオンでひととおりの即位の儀を済ませ、今日は皇帝となってからはじめて民衆の前に姿を現す予定であった。

 大勢の兵士を引き連れ、皇帝みずから天蓋のない馬車に座乗して市内を巡回するその行事こそ、古帝国時代から続く盛大な即位記念行列パレードだ。

 皇帝を乗せた馬車が通過する目抜き通りには、夜も明けきらぬうちから場所取りの人が詰めかけている。帝都にもともと住んでいた者だけでなく、この日のために遠路はるばるやってきた旅行者も少なくない。

 誰も彼もが二十代半ばの初々しい新皇帝をひと目見ようと躍起になっているのだ。


 『帝国』の国民にとって神にも等しい皇帝アウグストゥス

 その顔をみずからの目で見、その声をみずからの耳で聞くことが出来るのは、王宮に出入りするひと握りの特権階級だけだ。その生活のすべては帝城宮バシレイオンの内側で完結し、一般の国民は遠目に眺めることさえ出来ない。

 そんななかで、即位後の記念行列パレードは、下々の者が皇帝を直接見ることが出来る数少ない機会のひとつだった。

 これから数十年に渡ってこの国を治め、自分たちの頭上に君臨する皇帝のことを知りたいと願うのは、民衆の当然の心理でもある。


 と――沿道の人波をかき分けて、ひとりの男が駆けてきた。


「おおい! もうじき皇帝陛下の馬車が来るぞ!!」


 男は声を枯らして叫ぶと、逃げるように建物のひとつに入っていった。前々からおさえていた自分の定位置に戻ったのだろう。そそっかしい男は、行列の到来を待ちかねて、自分のほうから動いてしまったにちがいない。

 男の叫びを受けて、沿道の人々のあいだにざわめきが広がっている。

 若い娘の集団はしきりに化粧を直しあっている。皇帝に見初められ、後宮に迎えられるかもしれないと期待しているのだ。

 別の一団は手にした旗をぴんと伸ばすことに余念がない。国花であるギンバイカの花弁を抽象化した意匠デザインは、皇帝への忠誠の証だ。皇帝に向かって振る旗にしわが寄っていては、みずからの忠誠心も疑われると思っているのだろう。人ごみに紛れた彼らが車上の皇帝の目に留まるかどうかは別の問題だ。


 待ちに待った瞬間は、あとわずかで訪れようとしている。

 復路はコースを変えるため、目の前を通る機会はたった一度きりなのだ。

 だれもがそわそわと落ち着きをなくしているようだった。はじめて皇帝を目にする若者も、先帝の即位行列をその目で見た老人も、老若男女の別なく期待に胸を焦がしている。


 ややあって、通りのはるか前方にうっすらと人馬の影が浮かびはじめた。

 先導する中央軍の騎馬隊だ。重武装の兵士たちに続いて、皇帝の馬車が通過するはずであった。

 民衆の期待が最高潮に達しようかというとき、ひとりの将校が道路ぎりぎりに進み出て、甲高い声を張り上げた。


「皇帝陛下の御入来ごにゅうらい――」


***


「もうすこし面白そうな顔をなさったらどうです?」


 声は座席の下から上がってきた。

 見えないはずの表情をどのように把握しているのか。しかし、声をかけられた男は、たしかに面白くなさそうな顔で前を見つめている。


「これが皇帝らしい顔というものだそうだ」


 ルシウスはひとりごとみたいに呟いた。

 天蓋のない馬車である。ルシウスは特別にしつらえられた豪奢な座席に腰を下ろし、端正な顔に風を受けている。

 すこし目を上げれば、曇りがちな帝都盆地には珍しい、抜けるような晴天があった。


「皇帝はどのような場合でも笑わず、泣かず、怒らず――そういうものだというぞ」

「あなたには無理でしょう」

「まだ分からん。余は役者というものは一度もやったことがない。それとも、皇帝も役者のうちかな」


 ルシウスはそれだけ言うと、表情を変えずに笑った。

 皇帝と座席の下の護衛の会話は、陪乗する侍従には不思議と聞こえていないようであった。

 たんに馬蹄と車輪の音にかき消されているのか、周囲を警戒してそれどころではないのか。

 それとも……


――皇帝陛下、万歳!!

――ルシウス・アエミリウス陛下、万歳!!

――偉大なる『帝国インペリウム』に栄光あれ!!


 馬車が通過するたびに沿道から怒涛のごとく沸き起こる歓呼の声に紛れて、当の皇帝の声など誰の耳にも届いていないのか。


「それにしても、なってしまえばあっけないものだ」


 ルシウスは沿道の熱狂ぶりにはさして興味もないようだった。

 というより、努めて無関心を装っているのだ。

 皇帝の目は尋常の目ではない。その目で世俗の人を見てはならない。皇帝の視線をまともに浴びた者は、その瞬間から好むと好まざるとにかかわらず、特別な人間になる。その魅惑、その呪いは、人の一生を破壊するのに十分すぎるほどだ。

 舞台上の花形役者と目が合っただけで年頃の少女が恋煩いに狂うなら、地上の神たる皇帝に見つめられた者の狂いようはその比ではない。

 だから、他人の視線を浴びるだけでいい。おのれは見ず、ただ人に見られるだけ。皇帝と役者はやはり似ている。


「まったく、余が皇帝とは――」


 世も末だ、と言いさして、ルシウスはふたたび唇を結んだ。


 父イグナティウスが崩御したのは先々月のこと。去年のうちに侍医がさじを投げたにもかかわらず、老齢の皇帝は半年以上も生命を保ったのだった。

 ルシウスがパラエスティウムで即位承認の儀式を無事に済ませ、帝都に戻るまでは死ぬわけにはいかないと強く念じたためであろう。

 とはいえ、最大の懸念材料だった元老院議長デキムスがすっかり牙を抜かれ、次代へなんらの遺恨を残さなかったのはイグナティウスにとっても予想外の出来事だった。孫であるエンリクスが無事に『西』へ送り届けられたこともふくめて、病床の老皇帝にとっては予期せぬ幸運が舞い込んだ晩年であったにちがいない。

 もはやこの世に思い残すことはなく、いよいよ生涯に幕を下ろすというとき、イグナティウスはルシウスを枕頭に呼びせたのだった。

 見る影もないほど衰弱した皇帝は、実の息子にむかってただひとこと、


――おまえにはすまないことをした。


 とだけ言って、ほどなく息を引き取ったのだった。


 ルシウスは父の葬礼、そしてみずからの即位の準備に奔走するあいだも、その言葉の意味を考えつづけた。

 父が口にした「すまない」の意味するところは何か?

 幼い息子をプラニトゥーデ家に養子として送り出しながら、長子の死を契機に『東』に呼び戻したことか。

 自分にはとうとう出来なかったデキムスとの骨肉の争いを代行させたことか。

 あるいは――これからルシウスの身に降りかかるであろう苦難について謝罪したのか。

 父の最期の言葉は、いまもルシウスの思考の片隅にこびりついている。

 おそらくこれからも脳裏を離れることはないだろう。それでいい。考えながら進むだけのことだ。

 ルシウスは座席に手を当て、ぽつりぽつりと言葉を紡いでいく。


「おまえ、知っているか。大昔の東方人は親が死ぬと三年喪に服したそうだ。それに較べて、父親が死んでたった一月かそこらで祝祭に浮かれる我らは薄情だと思わないか」

「あなたがそうしたいなら、今後そうすることも出来るでしょう。いまのあなたは皇帝なのですから」

「冗談だ。余が三年も喪に服してみろ――喪が明けたときには、治める国がなくなっている」


 皇帝とその護衛は、やはり周囲には聞き取れない会話を交わす。

 気づけば、目抜き通りも半ばを過ぎている。行列はこの先にある帝都の大城門に備え付けられた円環広場ロータリーで方向を転換し、往路とは別のルートを辿って帝城宮バシレイオンへと帰還する。帰り道に関しては、どの道を通るか市民には知らされていない。

 行きと帰りでおなじルートを取らないのは、まず第一には市中の混雑を緩和するため。そして、行列の陣容を把握した上での待ち伏せを警戒してのことであった。


「……まあ、もしあなたが皇帝でなくなったとしても、私はずっとおそばにいるつもりですけれど」

「ほう、それはいいことを聞いた。おまえと一緒なら、たとえ羊飼いになっても楽しく生きていけるだろう」


 記念すべき日にはおよそ不似合いな、不謹慎極まりないやり取り。

 咎めだてる者は誰もいない。皇帝になる前から変わらない主従の会話であった。


「それに、皇帝でなくなれば、私も座席の下で窮屈な思いをすることもないでしょうし――」

「一人で寂しいなら、あのときのように余も一緒に入ってもいいのだぞ」

「ぜひともご遠慮願います。……


 つれない返事にもめげず、ルシウスはなおも続ける。


「そういえば、あのときはヴィサリオンもいたなあ。あいつに余の格好をさせてここに座らせるというのもいい。そして、余はおまえと座席の下に隠れていよう」

「お言葉ですが、陛下。明るいところであなたとあの人を見間違う人はいませんよ」

「ふむ――いい考えだと思ったが」


 ルシウスはやはり前を向いたまま、唇だけを動かして答えた。

 そのまましばらく黙り込んだあと、

「いや、やはり駄目だ。あいつには余の影武者よりも大事な仕事がある。


 目抜き通りの終点が近い。街路樹の切れ目に差し掛かるたび、城塞みたいな建物がちらりちらりと視界をかすめていく。帝都の城内と外界をつなぐ大城門であった。


「しかし、残念だ。出来ることなら余が戦場に赴いて指揮を執りたいところだが――」

「もうプラニトゥーデ家のエミリオだった頃とは違うのですよ。皇帝が軽々しくいくさをなさってはいけません」

「分かっている。まったく、皇帝とは不便なものだ。『西』で義父ちち義兄あにと戦場を駆け回っていた頃が懐かしい。このままでは馬と剣の腕もあと何年保つことか」

「いまのあなたには戦より大事なお仕事があるでしょう」

「歴代皇帝のみささぎに即位の報告に行くことか?」


 ルシウスは努めて皮肉っぽく言った。


「もっとも、それが済めば即位に必要な手続きはすべて終わりだ。先祖も面倒な仕組みを作ってくれたな。おかげでいつまでも政務に手がつけらないではないか。これではなんのために皇帝になったか分からん」


 言って、座席を指で軽く叩く。

 まっすぐに伸びていた道は大きく曲がり、大城門は真正面に来ている。

 沿道の家々もまばらになってきたためだろう。歓呼の声はいまだ熄まないが、先ほどに較べるとずっと小さくなっている。


「おい、聞いているのか、ラフィカ――」


 返事の代わりに、座席の下からこつこつと叩きかえす音がした。


 ルシウスはふっと口元を緩める。

 それから数秒と経たないうちに、若き皇帝は無表情で無口な帝王の顔に戻ったのだった。

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