第98話 帰郷・遠い日の二人 (二)

 不快な臭いがあたりを満たしていた。


 が焼けた臭い――。


 無数のが焼き尽くされた臭いは複雑に混ざり合って、いまなお焼け跡に漂いつづけていた。

 その場にしゃがみこみ、ひとつかみの灰燼もえさしをすくい上げる。

 もしかしたら父の一部であったかもしれない灰は、小さな指のあいだからさらさらとこぼれ落ちていった。


 熱い。


 いつまでも触れていると火傷をしてしまいそうだ。

 火はすっかり収まっているようにみえる。それでも、つい一昨日焼け落ちたばかりの廃墟には、まだ余燼がくすぶっているのだ。

 まるで、骨も残さずに消え失せてしまった父の最後のぬくもりのようで。

 掌にわずかに残った砂みたいなそれを、何度も何度も握りしめる。


 ばあやは自分が生き残ったことを喜んでくれた。

 たまたま外出していたために難を逃れたのは、不幸中の幸いだったと。


――本当にそうだろうか?


 たしかに生きている。それは幸運といえるかもしれない。

 幸運と幸福は似ているようでその実まったく違うものだ。不運がもたらす幸福もあれば、幸運がもたらす不幸もあるはずだった。

 唯一の肉親であった父も、帰るべき家も失って、たったひとりでこの世に放り出されてしまった十二歳の自分を思う。


――これが、幸せ?


 ふと振り返ると、緑色の瞳があった。

 勝ち気な彼女は、ふだんの威勢をどこかに置き忘れてしまったように沈んでいる。

 猫の目みたいにころころと表情を変える愛らしい顔も、いまは見る影もない。真一文字にかたく結んだ唇は、必死になにかに耐えているようだった。

 目尻いっぱいに溜まった涙はいまにも溢れ出しそうだ。


 

 泣かないで。


 おねがいだから、そんな顔をしないで。


 生きていることが幸せか不幸せかは、もう自分にもわからない。


 それを決めてくれるのは、あなただけなのだから。


 だから、どうか――。


***


 ばあやを家まで送り届けたあと、ヴィサリオンとシルヴィアは二人連れ立って散歩に出た。


 べつにどちらかがそうしようと言い出した訳ではない。気づいたときには、シルヴィアが馬の手綱を引き、横並びに歩く格好になっていただけだ。

 どちらも口を閉ざしたまま、黙々と歩く。


 歩くうちに、ちいさな川のほとりに出た。

 どうやら農業用水として人為的に引かれたものらしい。前方に広がる麦畑にむかって、川は豊かな水を絶えまなく送っている。


「……なんで何も言わないの?」


 先に口を開いたのはシルヴィアだった。


「すみません――」

「べつに責めているわけじゃないけど。あなた、なにかあるとすぐに謝るクセ、昔から変わってないのね。もう立派な大人なんだから改めたほうがいいわ」


 呆れた様子のシルヴィアに、ヴィサリオンは苦笑いを浮かべるだけだった。

 そのままちいさく息を吸い込むと、青年はぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。


「あなたにまた会えたら話したいことがたくさんあったはずなのですが……なぜかすっかり忘れてしまったようなのです。すみません――」

「ほら、また『すみません』って言った。人の話、ちゃんと聞いてる?」


 シルヴィアは髪をかきあげると、いたずらっぽく笑う。


「本当はね、私もそう――話したかったことは数えきれないくらいあるはずなのに、いざ本人を目の前にしたら何も浮かんでこなくなっちゃうの」

「つまりは似た者同士ということですね」

「”元”許嫁同士なんだから当然よ。でも、あなたと違って人の話はちゃんと聞くわ」


 朗らかな笑い声が二人のあいだを満たした。

 二人を包む空気は、ほんのすこしずつだが、たしかにあの頃へと戻りつつある。


「お父上……ランブロス将軍はお変わりありませんか? まだ現役でいらっしゃると聞いていますが」

「相変わらずって言いたいところだけど、あの人も最近じゃ昔ほどの元気はなくなったみたい。頭なんかすっかり白くなって、いまじゃ軍人より哲学者のほうが似合いそうよ。現役と言っても、軍のことは兄さんたちに任せて、毎日屋敷で孫の遊び相手をしてるわ」

「それを聞いて安心しました。あなたのお父上にはあれだけお世話になっておきながら、とうとう一言のお礼も言えず、本当に……」

「だから! 『すみません』は禁止と言ったでしょう!? 言っておくけど、『申し訳ありません』も『面目ない』もだめよ」

「は、はい……」


 言いさして、ヴィサリオンはあやうく喉まで出かかった『す』を飲み込んだ。

 とりとめのない思い出話に興じるうちに、二人は河原に降りていた。


 馬に水を飲ませながら、シルヴィアは懐かしげに呟く。


「ねえ、覚えてる? 昔もよくこうやって川遊びに来たわね」

「あなたには何度も川に突き落とされましたっけ」

「あれは――のあなたに泳ぎ方を教えてあげようとしたのよ。軍人なら水練くらい会得していて当然ですもの。海軍みたいに軍艦には乗らなくても、橋の上や川岸で戦うことはあるわ。そんなときに泳げなかったら大変でしょう?」

「もしあのままあなたと一緒にいたら、今ごろは馬術も水練も人並み以上に達者になっていたでしょうね」


 シルヴィアは愛馬のたてがみを梳かしながら、ヴィサリオンに微笑む。


「当然よ。私がよくても、お父様や兄さんたちが黙ってないわ。うちはですもの」


 シルヴィアの生まれた家は、『東』でも指折りの名家であるというだけではない。

 数多の将軍を輩出してきた武門の家であり、一族に生まれた者は幼い頃から徹底的な軍事教練を叩き込まれる。女子だろうと例外ではない。皇后をはじめとする女性皇族の身辺警護のため、武術に通じた貴婦人にはどんな時代も一定の需要があるためだ。

 男では立ち入れない場所にも付き従い、主人をつねに脅威から守るためには、おなじ女性の護衛が不可欠なのだ。


 シルヴィアは一族でも最も優秀なひとりだった。

 女子としては――という屈辱的な前置きは、すくなくとも彼女の場合にはあてはまらない。

 馬術の技量は兄たちをはるかにしのぎ、剣術や弓術の腕前はすでに名人の域に達している。

 それだけではない。槍を振るえば疾風のごとく、身の丈ほどもある長大な戦斧を軽々と振り回し、挙げ句には徒手格闘パンクラチオンでも並の男を圧倒する。


――この子が男に生まれておれば!


 父・ランブロス将軍が天を仰いで嘆いたのもむべなるかな。

 艶福家の彼には十四人もの男子がいたが、こと軍人としての資質に関していえば、シルヴィアはそのだれよりも優れていたのだから。


 どれほど武芸に秀でていても、女子は軍人にはなれない。

 神話の時代ならいざしらず、当世の女戦士アマゾネスは貴人の護衛以上の仕事を任せられることはないのだ。


 『帝国』の上流階級において、女性の最大の役目は子を産み、血統を次代に繋げることである。

 女子供も労働力として数えられる庶民とは異なり、貴族の女性にはそれ以外の仕事などあってないようなものだ。

 男女の役割分担は時としてグロテスクなまでに露骨であり、また残酷だった。


 ランブロス将軍があまりにも強すぎる娘を持て余し、さっさと嫁にやってしまおうと考えるようになったのも当然だった。家に置いておいたところで何にもならないのであれば、せめて一族の繁栄のために役立ってもらおうというのだ。嫁ぎ先で優秀な男児を産めばなおよい。

 ちょうど都察府の副長官メネラオスが息子の許嫁を探しているという。将軍にとってまさしく渡りに船だった。


 当時、ヴィサリオンは九歳。シルヴィアは十一歳。

 シルヴィアのほうが歳上だが、二つ三つ程度であれば大した問題ではない。

 都察府という役所の評判だけが気がかりだったが、それもあくまで遠い世界の話だ。

 おなじ官吏でも、文官と武官のあいだには深い溝がある。住む世界が違えば、悪評にも実感は伴わなくなる。官僚たちがどれほど都察府を悪しざまに罵っても、軍人であるランブロス将軍の心に響くことはない。

 それどころか、


――性根の腐りきった役人どもからこれほど嫌われているなら、逆に信用できる。


 生来のあまのじゃくぶりが鎌首をもたげだす始末だった。


 その後、幼い二人の婚約はとんとん拍子に進んだ。

 婚姻は家同士が結ぶものであり、本人の意志が顧みられることはない。

 親が決めた相手と結婚することは当然であり、それに異論を唱えるという発想自体が存在しないのだ。


 しかし――不自由な時代の結婚が、かならずしも不幸せとはかぎらない。


 二人にとっての幸運はふたつあった。

 ひとつは、婚約に先立って当人同士が顔を合わせる機会を設けてくれたこと。

 そして、もうひとつは、その場で互いが互いに一目惚れをしたことだった。


***


「ひとつ、聞いてもいいですか」


 河原の岩に腰を下ろしたまま、ヴィサリオンは傍らのシルヴィアに問うた。

 かつての許嫁がゆっくりと首肯したのを確かめ、青年は言葉を続ける。


「どうして今日、ここに?」

「なんとなく――なんて言っても、あなたにはお見通しよね」

「父の命日を覚えていてくれたのですね」


 シルヴィアはあいまいな表情を浮かべた。


「もちろん、それもあるわ。私にとっても義父ちちになるはずの人だった。毎年ではないけれど、何度かここにも来てる……」


 シルヴィアはそこで言葉を切ると、ヴィサリオンに顔だけで向き直る。

 瞳の緑色がふいに深くなった。

 つい先ほどまでの快活さのかわりに兆したのは、まごうかたなき憂いの色だ。


「今日は、あなたを最後に見た日だから。そしてあの場所は、あなたと最後に会った場所だから――」

「…………」

「もう九年前のことよ。なぜ何も言わずに私たちの前から姿を消したの? お父様はかならず仇討ちをすると息巻いていたわ。まだ正式に輿入れはしていなかったけれど、身内を殺されて黙っていられるはずないもの。あなたさえその気になってくれていれば、いまごろきっと犯人を――」


 ヴィサリオンは目を閉じると、そのまま首を振った。

 表情は変わらない。大きすぎる悲しみを抱いたとき、人は喜怒哀楽を忘れるのだ。


「あなたの言うとおり、ランブロス将軍はだれよりも義に篤い方です。殺された父のため、そして義理の息子である私のために手を尽くしてくれたことでしょう」

「だったら、なぜ!? あなたはお父様の気持ちを知っていながら――」

「あなたとお父上が私を愛してくれたように、私もあなたたちを愛していたからです」


 ヴィサリオンははっきりと言い切った。

 悲愴なまでの覚悟と愛惜がないまぜになった声色は、どこまでも優しかった。

 シルヴィアは目を伏せ、ただ青年の言葉に耳を傾けている。


「父を殺したのは、表向きは押し入った盗賊の仕業ということになっています。屋敷にいた人間を一人残らず殺したのも、火を放ってすべてを焼き尽くしたのも、邸内にめぼしい財宝がなかった腹いせだと……しかし、本当にそうでしょうか。私にはとてもそうは思えないのです」


 青年の声音は相変わらず柔和だった。

 その裏に剣呑なものを感じ取って、シルヴィアは表情をこわばらせる。


「今日、屋敷の跡地を見て確信しました。柱や梁どころか、基礎まですっかり焼き尽くされていました。たまたま通りがかっただけの盗賊にあんな真似はできません。あれを成し遂げるためには、緻密な計算と、大量の火薬が必要なはずです」

「それって、つまり――」

「あの日、父を殺したのは、おそらく官軍……それも、かなり訓練の行き届いた部隊です」


 シルヴィアの顔色はほとんど蝋みたいになっている。

 訓練の行き届いた軍隊とは、言うまでもなく中央軍のことだ。多量の火薬を使用出来るという点においても、中央軍のほかには考えられない。


 シルヴィアの父であるランブロス将軍は、中央軍の重鎮の一人でもある。

 他の重鎮が事件に関与していたならば、仇討ちとは中央軍同士の内戦を意味する。

 将軍たちは軍内部での政治闘争に明け暮れることはあっても、武力衝突は絶対の禁忌とされている。それは『帝国』への最大の背信行為であり、皇帝への謀反にほかならない。

 その行動に正当性があろうとなかろうと問題ではない。勝敗にかかわらず、首謀者には考えうる最も重い刑罰が下されるだろう。

 国家反逆罪の処罰対象は当人だけにとどまらず、その三族にまで及ぶ。

 もしランブロス将軍が行動を起こしていたなら、今ごろは実の娘であるシルヴィアも生きてはいなかったはずだ。


「子供のころの私にはそこまでは見抜けませんでしたが……それでも、薄々感づいてはいました。だからこそ、あなたたちを巻き込む訳にはいかなかったのです」

「……真犯人の目星はついているの?」

「残念ながら、まだそこまでは――」


 ヴィサリオンは俯きながら、なおも言葉を継ぐ。


「しかし、父が殺される直前までかなり地位の高い人物を追っていたことは分かっています。軍にまで影響力を及ぼせる人物となると、官界でも限られてきますからね」

「これからも真犯人を追うつもり?」

「……いつか真相を明らかに出来ればと思っています。犯人を裁くことが出来るかどうかは問題ではありません。ただ、このまま父の死が闇に葬られることだけはどうしても見過ごせないのです」


 それだけ言うと、青年は深く息を吸い込み、そして吐き出した。

 べつに息苦しいわけでもないのに、身体が新鮮な空気を欲している。


 水底から一気に水面まで浮かび上がったような心地。

 それもそのはずだ。あの日からいままで、だれにも語ったことのない心の内奥を吐き出したのだから。

 長年心につかえていたものが取り除かれたように感じたのもつかの間だった。遠い日の痛みが、かさぶたみたいに心を覆っていく。


 シルヴィアは膝を抱いたまま、太腿に顔を押し付けている。

 いまの表情を見られまいとしているのだ。


「……ごめんなさい。私、あなたの気持ちも知らないで……」

「はて、聞き間違いでしょうか。さっき『ごめんなさい』は禁止と言ったのは誰でしたっけ」

「……ばか」


 シルヴィアは小声で言うと、拳でかるくヴィサリオンの肩を叩く。

 本気で打ち込めばただでは済まない一撃も、いまは限りなくやさしい。


「私、大人になったつもりだった。だけど、あなたに会えたことがうれしくて、ついあんなこと……」

「また会えてうれしいのは私も同じです。話さなくてもいいことを話してしまったのも、たぶんそのせいでしょう」


 それきり河畔に沈黙が降りた。

 聞こえる音といえば、川のせせらぎと山鳥のさえずりだけだ。

 言葉のない世界。いつまでも心地よい静寂のなかに浸っていたくなる。出来ることなら、二人で、ずっと。


 ふいにシルヴィアが口を開いた。


「私、今年で二十三になったのよ。世間じゃ嫁き遅れって言われる歳だわ」

「……もしかして、ずっと待っていてくれたのですか?」

「どうかしら――自分でもよく分からない」


 シルヴィアはその辺に転がっていた小石をつまむと、川に投げ込む。


「たぶん、そんな気になれなかっただけ。誰かと結婚して、子供を産んで……当たり前のことだけど、私には出来る気がしないのよ」

「あなたはもっと難しいことが出来るじゃないですか」

「私には馬に乗ったり弓矢を射るほうが向いてるわ。男に生まれればよかった。そうすれば、お父様だって喜んでくれたのに……」


 シルヴィアは深いため息をつく。

 整った横顔に憂いが差し込む。いつもなら他人には決して見せない表情。

 ふたたび沈黙がその場を覆うかと思われたとき、一人分の影が川面にむかって伸びた。

 シルヴィアが立ち上がったのだ。赤い髪を風になびかせ、ヴィサリオンを見つめている。


「私――今度、結婚することになったの」

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