第194話 ティタノマキア(前編)

 不可視の光条がイセリアの全身を絡め取った。

 テルクシオペーが放射した磁力線は、任意の標的に思うがままに磁性を付与することができる。

 相手の身体を地面に吸い付けることも、あるいは反発力によって吹き飛ばすことも、すべてはテルクシオペーの胸三寸なのだ。

 イセリアの身体と床面には、それぞれ正反対の磁性をたっぷりと与えている。

 あの爆発を生き延びたのは意外ではあったが、戦いの主導権イニシアティブは依然としてテルクシオペーの掌中にある。

 あえて先制攻撃を許したのも、身動きが取れなくなったあとでゆっくりと料理してやればよいと考えたがゆえだ。

 もはや自身の勝利は疑うべくもない。

 いまさら趨勢が覆ることなどありえず、あってはならない。

 次の瞬間、テルクシオペーが漏らしたのは、心底からの驚嘆の声だった。


「どうして……!?」


 すでに磁力線を充分に浴びているにもかかわらず、イセリアの猛進は一向に止まる気配を見せない。

 全身から白煙をたなびかせながら、黄褐色の騎士はほとんど飛ぶように疾駆する。

 彼我の距離はすでに数メートルにまで迫っている。


「ありえない……!! あたしの能力ちからが通じないなんて……!!」


 テルクシオペーは両手を前方に突き出し、磁力線の出力を最大にまで引き上げる。

 人間であれば一瞬のうちに血液が沸騰し、跡形もなく肉体が四散するほどの凄まじい磁力の嵐。

 おそるべき強磁界の真っ只中で、イセリアの動きは鈍るどころか、ますます冴え渡っていくようであった。

 するどい爪が陽光を散らす。

 琥珀色の騎士を間合いに捕捉するまで、あと数歩とあるまい。


(うそだ……うそだ!!)


 想定外の事態が出来しゅったいしたことで、テルクシオペーはほとんど錯乱状態に陥りつつあった。


 あの瞬間――。

 爆発の際に生じた熱波をまともに浴びたことで、イセリアの装甲表面は一時的に四千度以上の超高熱を帯びた。

 地中に潜行したために、熱の大部分は空気中に発散されることなく、いまなおイセリアの装甲は高温を維持している。

 その結果、どのような現象が生じたか。


 熱消磁デガウス

 物体の温度が上昇するにつれて、磁力は低下していく。

 どれほど強力な磁性を帯びた物体も、熱運動によって分子間の磁気モーメントを撹乱されることで、等しくその効力を失うのである。

 いかにテルクシオペーの能力が強力だろうと、自然界を支配する物理法則からは逃れられない。

 いま、高熱を帯びたイセリアの装甲は磁力線をかき乱し、周囲に展開されている強磁界そのものを無効たらしめている。

 テルクシオペーがどれほど出力を上げたところで、イセリアの突進を止めることは不可能なのだ。


「まさか……最初からこれを狙って、わざと自爆を……!?」

「何ゴチャゴチャ言ってんのか知らないけど、あんたのはもう通用しないってことよ!!」


 当然、消磁の原理などイセリアは知る由もない。

 レヴィとラケルに一芝居打たせ、テルクシオペーを巻き込んで自爆させたところまでは計画のうちだ。

 それは取りも直さず、そこまでの計画であったということでもある。


――いったん仕切り直したあとは、とにかく気合で突っ込む!!

――たとえ身動きが取れなくなっても、死ぬ気でなんとかする!!


 イセリアの向こう見ずな突撃は、本人もまったく想定していなかった物理効果に助けられて、テルクシオペーに一矢を報いようとしている。


(まずい……!! このままじゃ、やられる!!)


 もはや回避は不可能と悟ったテルクシオペーは、その場で足を止めた。

 イセリアの爪が身体を引き裂くまでの猶予は、あと数秒。

 まともに避けようとしたのでは、かえって手ひどいダメージを受ける。

 ならば、をすればよい。

 テルクシオペーは全身の関節に意識を集中させる。

 四肢を繋ぎ留めていた固定具ロックが外れていくのが手に取るように分かる。

 テルクシオペーはちょうど腰のあたりで上半身と下半身を切り離す。

 さらに両腕を分離させたのは、目くらましとして用いるためだ。イセリアめがけてぶつけようというのである。

 他の部位を犠牲にしても、戎装騎士ストラティオテスの全機能を司る中枢部が存在する胸部への直撃だけは、なんとしても避けねばならない。

 最悪の場合は、身体の部位をことごとく切り捨て、胴体だけで戦場を離脱するという手もある。

 屈辱的ではあるが、背に腹は変えられないのだ。

 

「――――!!」


 次の瞬間、テルクシオペーは絶句していた。

 まっさきに後方に飛び退いているはずだった上半身と頭部は、空中でぴたりと静止している。

 むろん、自分の意志でそうした訳ではない。

 イセリアの二本の尾がテルクシオペーの身体を絡め取り、逃走を阻止しているのだ。

 自分にむかって飛来した両腕を難なく掴み取ったイセリアは、半分になったテルクシオペーをぐいと引き寄せる。

 

「ようやく捕まえたわよ」

「は、放せ……!!」

「はぁん? なに寝ぼけたこと言ってんのよ。せっかくここまで追い詰めたのに、ハイそうですかと放してあげるとでも思った?」


 テルクシオペーは苦し紛れに磁力線を浴びせるが、熱消磁の効力はいまだ持続しているらしい。

 イセリアは多節の尾でぎりぎりとテルクシオペーを締め上げつつ、冷酷に宣言する。


「さて――お待ちかねのお仕置きの時間よ。覚悟はいい? クソガキ」


 鋭利な爪を備えた五指が固く握りしめられる。

 荒れ果てた大広間に響く耳障りな音は、金属同士の摩擦音だ。

 イセリアの全膂力パワーを込めた、文字通りの鉄拳。

 まともに叩き込まれれば、たとえ戎装騎士でもひとたまりもない。

 命中と同時に琥珀色の装甲は無残にひしゃげ、全身から血とも油ともつかない赤黒い液体を撒き散らしながら、はるか彼方まで吹き飛ばされることになるはずであった。

 

「さんざん人に向かってババアだどうのと言ってくれたわねえ?」

「い、言ってない……あたし、ババアなんて一言も言ってないよお……」

「うっさい!! あんたのせいでお菓子は食べそこねるわお気に入りの店は出禁になるわでいい加減にイライラが溜まってんの!! あんたみたいな生意気なクソガキは、この手でブッ殺さないと気が済まないわ!!」


 イセリアは右腕をおおきく後方に引き下げる。

 全力打撃の構え。

 ヘラクレイオス亡き現在、イセリアの拳打の破壊力は、全戎装騎士のなかでも最強級に位置づけられている。

 テルクシオペーの装甲がカタカタと小刻みに震えているのは、避けがたい死への恐怖ゆえであった。

 

「た、助け……」

「声が小さいんだけど? それじゃ何言ってるかぜんぜん分かんない」

「ごめんなさい! 許してください! いままでの失礼は謝るから、こ、殺さないで……っ!!」


 二騎のあいだを沈黙が満たした。

 やがて、イセリアはため息をつくと、やれやれと言うように頭を振った。


「ふうん、ずいぶん殊勝な態度になったじゃない」

「それじゃ……!!」

「ええ、あたしだって鬼じゃないもの。反省してる相手を殺したりしないわ。――――死なない程度にしといたげる」


 イセリアが言い終わる前に、テルクシオペーはじたばたと暴れだしていた。

 とはいえ、四肢を切り離した胴体と頭だけで何が出来る訳でもない。

 テルクシオペーの必死の抵抗を、イセリアは冷ややかに見つめている。


「ひどい!! ちゃんと謝ったのに!! 鬼‼ 悪魔‼ 人でなし!!」

「ふん、人にさんざん失礼こいといて『ごめん』で済むほど世の中は甘くないの。あんたみたいなつけあがったクソガキに教育してやるのも大人の務めよ!!」


 突っぱねるように言って、イセリアはあらためて拳を構える。

 背後で凄まじい物音が生じたのはそのときだった。

 イセリアが背後を振り返れば、大広間の壁面が轟音とともに剥がれ、いまにも倒れようとしている。

 壁際に置かれていた調度品や、かろうじて天井にぶら下がっていた梁、窓枠といったさまざまな構造物が床に降り注ぐ。

 すべての物体は重力に逆らい、巨大な渦となって室内の一点へと突き進む。

 イセリア――正確には、イセリアが掴んでいるテルクシオペーのもとへと。


「どういうことよ、これ……!?」

「あっはっは!! バーカ!! まんまと引っかかったわねぇ」

「あんた、この期に及んで悪あがきを……」

「あたしが黙ってやられるとでも思ったの? ニブいんだよ、!!」


 渦を巻いて乱れ飛ぶ調度品や梁には、いずれも釘や鋲が使用されている。

 テルクシオペーは不可視の磁力場を形成することで、それらの金属を引き寄せ、廃材の竜巻を生み出したのである。

 一つひとつの物体の質量は小さくとも、密集すれば恐るべき威力を発揮する。

 渦に巻き込まれる寸前、イセリアは右側方に飛んでいた。

 わずかに尾の拘束が緩んだことに気づいたときには、もう手遅れだ。

 テルクシオペーの身体は渦に吸い込まれ、一瞬にイセリアの視界から消えていた。


「そんなことだろうと思ったわ。だけど、このまま逃げられると思ったら大間違いよ‼」


 すかさず追いすがろうとしたイセリアは、ほとんど無意識のうちに後方へと飛んでいた。

 本能的に危険を察知したためだ。

 黒い竜巻のなかで何かが揺らいでいる。

 最初は目の錯覚かと思ったが、そうでないことはすぐに知れた。

 飛び交う廃材をかき分けるようにして渦の外に突き出されたのは、巨大なかいなであった。

 五本の指を備えた右腕は、何かを求めるように空中をさまよっている。

 黒ぐろとした表層はたえまなく波打ち、もぞもぞと蠢いている。見ているだけで全身の毛がそそけ立つような怪異な姿は、とてもこの世のものとは思えない。


「な……何なのよ、これ……⁉」


 イセリアの声もこころなしか震えている。

 それも無理からぬことだ。

 いままで多くの敵と戦ってきたが、これほど奇怪で不可解な敵と遭遇したことはないのだから。


 そうするうちに、反対側からは左腕、さらには右足、左足と、渦の内部からは次々に身体の部位が生み出されていく。

 やがて渦そのものを引き裂いて出現したのは、大広間の天井に届こうかという黒い巨人であった。

 その身長は、少なく見積もってもイセリアの三倍以上はあろう。

 呆然と立ち尽くすイセリアにむかって、巨人は悠然と歩を進める。

 ほとんど胴体に埋まった頭部を青い光が流れていく。


「あっはっは‼ ビビッて動けなくなっちゃったみたいねぇ?」


 黒い巨人はイセリアを見下ろすと、テルクシオペーの声で嘲笑する。

 

「さっきまでの威勢はどこ行っちゃったわけ? ほらあ、お仕置きしてみなよぉ」

「こ、この……‼」

「出来るものならね――」


 刹那、イセリアの立っている場所は、ごっそりと消滅していた。

 力任せに叩きつけられたテルクシオペーの腕が、床ごと地面をえぐり取ったのだ。

 もし回避がわずかでも遅れていたなら、イセリアは致命的なダメージを被っていたはずであった。


「なんで急にあたしの能力ちからが通用しなくなったか分かんないけど、それで勝ったなんて思わないでよね。あんたなんか、こうして力ずくでひねり潰すことだって出来るんだからさぁ‼」


 テルクシオペーは嘲るように言って、矢継ぎ早に攻撃を繰り出す。

 巨大な身体は、廃材に含まれていた金属や地中の砂鉄をもとに形成されたものである。

 寄せ集めのくず鉄は、テルクシオペーの磁力を媒介として強力に接着され、いまや一個の鉄塊にも等しい剛性と重量を持つに至っている。

 いかにイセリアが防御力にすぐれているとはいえ、自身の数十倍もの大質量を叩きつけられれば無事では済まない。

 隙を突いて反撃に出ようにも、これほどの体格差があっては、テルクシオペーの攻撃を受け止めることすらままならないのだ。

 

「どうする? 頭下げて命乞いするなら許してあげるけど?」

「笑えない冗談ね。誰があんたみたいな根性の腐ったガキに頭下げるもんですか」

「ふふ、そう言うと思ってた。ま、最初から助けてあげるつもりなんてなかったけどねぇ‼」

 

 言うが早いか、テルクシオペーの放った手刀が横薙ぎにイセリアを襲う。

 一髪の差で躱しきれなかったイセリアは、そのまま反対側の壁まで吹き飛ばされていた。

 もうもうと立ち込める土煙のなかで無骨な影が立ち上がった。

 かろうじて致命傷こそ回避したものの、イセリアの全身の装甲は無残にひび割れ、噴き出した黒血が床にまだら模様を作っている。

 もはや後がないことはあきらかだった。


「へえ、まだ生きてるんだ? ずいぶん手こずらせてくれたけど、次で終わりにしてあげる――――」


 イセリアは俯いたまま、あるかなきかの声で何事かを呟いている。


「……じゃないわよ……」

「はあ? 言いたいことがあるならはっきり言えばぁ?」

「あんたに話してるんじゃないわ。ちょっと黙ってなさい」


 イセリアは片足を上げると、だんと激しく床を踏みつける。

 怪訝そうに見つめるテルクシオペーをよそに、イセリアはなおも声のかぎりに叫ぶ。


「あんたたち、いつまで寝てんのよ‼ いいかげんに出てこないと承知しないわよ‼」


 転瞬、テルクシオペーのすぐ後ろで轟音が生じた。

 巨大な質量をもつ何かが地面を押し上げている。

 はたして、瓦礫と土砂を盛大に巻き上げながら大広間に現れたのは、赤と緑に彩られた異形の巨人――戎装巨兵ストラティオテス・ギガンティアだった。

 レヴィとラケルもまた、爆発に耐えて地中へと逃れていたのだ。

 無事では済まなかったことは、その姿をみればすぐに分かる。

 爆風と熱波を至近距離で浴びた緑の半身――レヴィの側はひどく焼けただれ、装甲はなかば溶解している。


「まったく、人遣いの荒いだ――」


 レヴィとラケルどちらの声ともつかない声で言った戎装巨兵に、テルクシオペーは心底から苛立たしげに舌打ちをする。


「くたばり損ないがもう一匹……いや、二匹かな? どっちでもいいや。何匹束になっても、このあたしの敵じゃないんだからさあ」


 いずれ劣らぬ雄姿をそびやかせる二体の巨人は、真っ向から向かい合う格好になった。

 すこし離れた場所で、イセリアはその様子を固唾を飲んで見守っている。

 荒みきった大広間を舞台に、かつてない巨人同士の死闘ティタノマキアーの幕が上がろうとしている。

 

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