第196話 皇帝の目

「もうまもなくか――」


 窓の外を眺め、ルシウスはぽつりと呟いた。

 玉座の間の裏手に設けられた小部屋である。

 ふだんは控室として用いられているが、ほかならぬ皇帝が使用するだけあって、その内装は豪奢そのものだ。

 窓からは薄朱色の日差しが差し込み、床に敷き詰められた緋毛氈に斑斑と影を落としている。


 時刻はまもなく午後四時を回ろうとしている。

 日没までの猶予は、あと二時間にも満たないだろう。

 傾いだ太陽がすっかり地平の彼方へと沈めば、ルシウスは好むと好まざるとにかかわらず、みずからの運命を選択しなければならない。

 事実上の禅譲か、さもなくば死。

 どちらにせよ、ルシウスがのは、今日かぎりであるはずだった。


「いいかげんに覚悟は決まったか、アエミリウス?」


 ふいに背後から声がかかった。

 部屋の出入り口に視線を向ければ、得意げに胸をそらしているエルゼリウスの姿が目に入った。

 金髪と白雪を思わせる肌。そして、冬の海の色を写し取った瞳。

 理想的な西方人の特徴をことごとく備えた貴公子は、つかつかとルシウスの傍らに歩み寄る。


「余を氷の檻に閉じ込めておかなくてよいのか?」

「ふん――あれはほんの余興にすぎん。貴様にはこの狭苦しい部屋がよく似合っているぞ、アエミリウス」


 エルゼリウスはそっけなく答えたあと、


「この私まで一緒に閉じ込めるとは、なんと迂闊なやつだ……」


 と、あるかなきかの小声で付け加えた。

 そのまま窓辺に移動したエルゼリウスは、瞼に当たった薄日におもわず目を細めた。


「見るがいい! じきに日が暮れるぞ。貴様に残された時間は幾ばくもない。もっとも、いますぐ答えを出しても一向に構わないのだがなあ?」

「決断は日没まで待つという約束だったはずだ」

「分かっているとも。アエミリウス、貴様がかりそめの玉座に恋々としがみつく無様で滑稽な姿を、最後までとくと楽しませてもらうとしよう――」


 エルゼリウスは呵々と笑声を上げると、その場で踵を返した。

 いましも部屋から出ていこうとする背中にむかって、ルシウスはひとりごちるみたいに呟いた。


「ひとつだけ訊く」

「……なんだ?」


 はたと足を止めたエルゼリウスは、首だけで振り返る。

 ルシウスは両手の指を膝の上で組んだまま、じっとエルゼリウスを見据えている。

 とても虜囚の身とは思えぬ悠然たる佇まいに、エルゼリウスはおもわず固唾をのんでいた。


「首尾よく権力を握ったとして、そなたは何を望む?」

「知れたこと――貴様が発布した馬鹿げた皇帝大詔令を撤回するのだ。東方人を図に乗らせ、歴代皇帝が守ってきた社稷のもといを揺るがせにする悪法など言語道断……」

「それはすでに聞いた。その後はどうするのかと尋ねているのだ」


 ルシウスに問い返され、エルゼリウスは顔を強張らせる。

 肩は小刻みに震え、両足は意志とは無関係に後じさっていた。


「まさか、何も考えていなかったのか?」

「ふざけるな!! 貴様に話す義理などないというだけのこと――」

「余はまだ皇帝だということを忘れたか」


 エルゼリウスは二の句を継ぐことが出来なかった。

 ルシウス・アエミリウス・シグトゥスは、いまだ皇帝アウグストゥスなのだ。

 純血の西方人であり、『帝国』に絶対の忠誠を誓うエルゼリウスにとって、皇帝の権威は絶対である。

 たとえ自分が反旗を翻した相手であったとしても、皇帝を蔑ろにすることはどうしても出来なかった。

 より正確に言うなら、皇帝という肩書きを恐れたのである。

 エルゼリウスをたじろがせたのは、ルシウス・アエミリウスという現実の人間を超えたおおいなるもの。

 いにしえの太祖皇帝から脈々と受け継がれてきた至尊者の御稜威みいつにほかならない。

 

「それほど知りたいなら教えてやる。私が国権を完全に掌握した暁には、貴様の愚行のおかげで失墜した西方人の権威をよみがえらせてみせる。つけあがった東方人どもに身のほどを思い知らせ、世界に冠たる我が『帝国インペリウム』をあるべき姿に戻すのだ……」

「本当にそんなことが出来ると思っているのか?」

「出来る‼ たとえどんな困難が待ち受けていようと、私は必ず成し遂げてみせる。それがこのエルゼリウス・ルクレティウス・アグリッパに与えられた天命なのだ!!」


 興奮のあまり満面に朱を注いだようになったエルゼリウスとは対照的に、ルシウスはあくまで落ち着き払っている。

 ルシウスはそっと瞼を閉じると、世間話でもするみたいな調子で問いかける。


「エルゼリウス、そなたは食事をするのか」

「当たり前だ。だが、それがどうしたというのだ?」

「もし東方人がいなければ、そなたは一食にも事欠くであろう。葡萄酒の一滴、パンの一欠片も、東方人の労力なくして我らの食膳に上らぬことを理解しているか。食事だけではない。そなたが身につけている衣服も、東方人の力を借りねば、ただの一着たりとも作り出すことは出来ぬだろう」

「何を言い出すかと思えば、愚にもつかないことを……」


 エルゼリウスは心底から軽蔑しきったように言うと、わざとらしく嘆息してみせる。

 ふんと鼻を鳴らした貴公子は、ルシウスにむかってあくまで冷たく吐き捨てた。

 

「それとも、貴様はそのことで東方人やつらに感謝しろとでも言うつもりか? 西方人われらとおなじ待遇を与えるべきだと?」

「そなたは自分が何に支えられ、どのように生かされているのかを知らずに帝位に就くつもりだったようだな」

「だまれ、アエミリウス!! あの者たちは選ばれし民である我々に奉仕するために存在しているのだ。人間の形をしていても、その本質は家畜となにも変わりはしない。いったいどこの世界に家畜を人間と同列に扱う者がいる? たとえ東方人がいなければ我々の生活が成り立たないとしても、私は血の誇りにかけて、断じて奴らに阿るつもりはない!!」


 エルゼリウスは傍らの壁に拳を叩きつけると、声を枯らして絶叫する。

 何事かと部屋に踏み入ろうとした見張りの兵士たちは、あまりの気迫に圧倒され、廊下で棒立ちになっている。


「語るに落ちたな、アエミリウス――やはり貴様は狂っている。貴様のような男を神聖な玉座に据えておくことなど、断じてあってはならない……!!」

「それほど皇帝の地位が欲しいか、エルゼリウス」

「私は私欲のために帝位を望むのではない。この『帝国』のため、そして先祖の名誉のため、正義の名において貴様が不当に得た権力を剥奪するまでのことだ‼」

「正義か――」


 ルシウスの端正な面上に兆したのは、憐憫とも嘲笑ともつかない微笑だった。

 それも一瞬、すぐに無表情に戻った皇帝は、エルゼリウスを見つめて問うた。


「エルゼリウス、そなたはこの国がいつまで続くと思う?」

「なにを寝ぼけたことを……。我が『帝国』は永久不滅。あまねく宇宙をうしはく唯一絶対の国家として、この世が終わるその日まで偉大な神々の加護のもとで悠久の歴史を――――」

「違うな」


 堰を切ったようなエルゼリウスの熱弁を遮ったのは、どこまでも冷ややかな否定だった。


「余とそなたのどちらが帝位に就いたとしても、この国はいずれ滅びる。それも、さほど遠い未来の話ではない。余の見たところ、長く持ってあと五十年というところか」


 エルゼリウスの顔面はすっかり色を失っている。

 乾ききった喉をなだめ、貴公子がようよう絞り出したのは、じつに情けない声だった。

 先ほどまでとは別人みたいに声は枯れ、舌は哀れなほどに震えている。


「き、貴様……‼ 皇帝でありながら、よくもぬけぬけと……」

「玉座の上からはこの国の姿がよく見える。そなたには想像もつかぬだろう。もっとも、余もそれを理由にそなたを責めるつもりはない」

「祖国が滅びると分かっていて、あのような法令を敷いたというのか⁉」

「皇帝の使命とは、この国にとってすこしでもな滅びを迎えるための道筋を選び、整えることだ」


 ルシウスは椅子に背をもたせかかると、天井を見上げてなおも続ける。


「この『帝国くに』は、船底にけっして繕うことの出来ない大穴の開いた船のようなものだ。どうあがいたところで、いずれ沈むことは避けられぬ。それでも、海原の只中で荒波に投げ出されるのと、陸地の近くで座礁するのでは、助かる生命には計り知れないほどの差があろう……」

「ふざけるな――――」


 大喝するが早いか、エルゼリウスはルシウスに詰め寄る。


「『帝国』が滅ぶなど、絶対にあってはならないことだ。仮にいまの話が真実だというのなら、アエミリウス、なおさら貴様は玉座にいてはならん。私は貴様のように破滅を受け入れ、諦めるつもりなどない。この手で、我が祖国にふたたび不朽の栄光を取り戻してみせる‼」


 エルゼリウスはルシウスの前で両手を広げると、感極まったように叫んだ。

 自惚れの強さにかけては人後に落ちない貴公子は、自分自身の語った言葉によって萎えかけていた闘志を鼓舞され、また心底からの感動に打ち震えている。


「そうだ‼ たとえこの身が灰と燃え尽きるとしても、父祖の誇りにかけて『帝国』を復活させるのだ‼」

「残念だが、そなたには無理だろうな」

「なぜそう言い切れる? 自分の置かれている状況が分かっているのか⁉」

「むろん――さて」


 ルシウスは椅子に背を預けたまま、エルゼリウスをちらと見やる。

 囚われの皇帝の顔をよぎったのは、この上なく不敵な笑みだった。


「そろそろ余の騎士ストラティオテスたちがやってくる頃合いだ」

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