第197話 氷殺結界
ふだんであれば、皇帝への謁見を待つ廷臣や、宮廷の雑務に追われる廷吏たちでごった返しているのである。
回廊のそこかしこで立哨に当たっているはずの近衛兵の姿もまったく見えない。
すっかり
真紅と蒼の騎士――オルフェウスとエウフロシュネー。
二騎は一度も後ろを振り返ることなく、玉座の間へと急いでいる。
残してきたイセリアたちのことが心配でないと言えば嘘になる。
いかにイセリアとラケル・レヴィの双子が強力な
それでも、二人のどちらも引き返して加勢しようとは思わなかった。
もし助けに戻ったなら、あの場を引き受け、自分たちを先に行かせてくれた三人の心遣いを無為にすることになる。
この状況で最も優先すべきは、囚われている皇帝を救い出し、敵の戎装騎士を打ち倒すことなのだ。
どちらもそれを承知しているからこそ、オルフェウスとエウフロシュネーはひと言も交わすことなく、寸秒を惜しんでここまでやってきたのである。
「もうすぐだよ――」
前方に視線を据えたまま、エウフロシュネーはオルフェウスに声をかける。
「あとすこしで皇帝陛下のいる玉座の間だよ。まずは私が様子を見てくるから、お姉ちゃんは外で待ってて。どんな罠が仕掛けられてるか分からないもの」
「気をつけて、エウフロシュネー」
「ありがと――それじゃ、先に行ってるね」
エウフロシュネーはひらひらと手を振ると、オルフェウスを残して先行する。
そのまましばらく駆け続けた蒼の騎士は、すこしずつ速度を落としていく。
ついに回廊の終点に到着したのだ。
日頃は昼夜の別なく近衛兵に守られている分厚い扉の周囲には、人の気配すら感じられない。
立ち止まると同時に、エウフロシュネーは装甲表面に刺すような刺激を感じた。
閉ざされた扉の合間からなにかが漏れ出している。
それが冷気であることは、扉を開けるまでもなく分かる。
この扉の向こうに敵がいる――おそらくは、敵が擁する最強最後の
本能が危険を知らせている。
それでも、ここで立ち止まる訳にはいかなかった。
勝つことは出来ないとしても、敵に関する能うかぎりの情報を持ち帰ること。
それが斥候を買って出たエウフロシュネーの役目であり、この状況で自分が果たすべき使命なのだ。
エウフロシュネーは勇気を振りしぼり、円環状の把手を掴む。
予想に反して、すこし力を込めると、重厚な扉はあっけなく開いた。
拍子抜けする暇もなく、エウフロシュネーの装甲を凄まじい冷気が叩く。
たとえ荒れ狂う猛吹雪のなかに投げ出されたとしても、これほどの寒気に襲われることはないだろう。
マイナス二百度を下回る極低温の環境では、大気さえも凶器と化す。
視界はまたたくまに白く塗りつぶされ、極度の低温に晒された
「皇帝陛下……!!」
吹き荒れる冷気に負けじと踏ん張りながら、エウフロシュネーは声のかぎりに叫ぶ。
むろん、とても人間が生存出来る環境でないことは承知している。
それでも、こうして声を上げる意味はある。
もし二人の姉――アグライアとタレイアが無事であれば、なんらかの反応を示すはずであった。
エウフロシュネーが数歩も室内に踏み入ったところで、背後の扉が勢いよく閉ざされた。
扉はみるまに凍結し、エウフロシュネーが振り返ったときには、周囲の壁とまるで見分けのつかない氷壁へと変わっていた。
(しまった……!!)
悔やんだところでどうなる訳でもない。
エウフロシュネーには分厚い氷壁を打ち破るほどの膂力はなく、いまや玉座の間全体が巨大な檻も同然だった。
装甲にまとわりついた氷の重さによって、四肢の動きは一秒ごとにはっきりと分かるほど鈍く重くなっている。
氷雪に閉ざされていた視界が晴れたのは次の瞬間だ。
刹那、エウフロシュネーの視界を埋めたのは、氷の地獄と言うべき光景であった。
四面の壁や調度品の数々、そして皇帝の玉座さえもが無残に凍りついている。
エウフロシュネーが歩を進めるたび、足元でしゃりしゃりと快い音を立てるのは、床一面に敷き詰められた絨毯だ。毛足の長い絨毯は、冷気に晒された結果、足を置いただけでもろくも砕け散る霜柱と化したのである。
エウフロシュネーははたと足を止めた。
前方に奇妙な物体を認めたためだ。
玉座の
それが何であるかを理解して、エウフロシュネーは愕然と後じさる。
「アグライア……それにタレイアお姉……ちゃん……」
皇帝を守護する二人の騎士は、どちらも物言わぬ氷の彫像と化している。
姉たちの変わり果てた姿を目の当たりにして、エウフロシュネーはおもわず両手で顔を覆っていた。
作り物などではない。間違いなくアグライアとタレイアだ。
どちらも透き通った氷のなかに閉じ込められ、騎士としての機能は完全に停止しているようであった。
むろん、戎装騎士にとって機能停止はかならずしも死を意味しないとはいえ、身動きが取れないのでは死んでいるのと同じことだ。
と、呆然と立ち尽くすエウフロシュネーの背後で気配が生じた。
「二人とも、とてもきれいでしょう? こうして氷漬けになっているほうが、普段よりもずっとね――」
「誰!?」
とっさに振り返って、エウフロシュネーはおもわず息を呑んだ。
凍りついた絨毯を踏み分けながら、薄青色の髪の女がゆっくりと近づいてくる。
「久しぶりね、末っ子ちゃん?」
「セラス……どうしてここに……」
「呼び捨ては気に入らないけど、私のことを覚えていてくれて光栄よ。あなたたち姉妹とまた会えて、私もうれしいわ」
艶然と微笑んだセラスに、エウフロシュネーは掴みかからんばかりの勢いで詰め寄る。
「お姉ちゃんたちを元に戻せ!!」
「あらあら、女の子がそんな言葉遣いをしてはいけないわ。アグライアとタレイアが聞いたら悲しむわよ」
「こんな目に遭わせておいて、よくも!!」
エウフロシュネーが繰り出した強烈な蹴りは、しかし、むなしく空を切った。
セラスはほんのわずかに身体をそらしただけだ。
軽やかな足運びは、優雅な
ニ撃目、三撃目と手数を重ねても、結果は同様だった。
さしものエウフロシュネーも、一向に攻撃が当たらないことに焦りを感じはじめている。
ここまで繰り出したのは、どれも絶対に外すはずのない必殺の一撃のはずだった。
それなのに、なぜセラスにはかすりもしないのか?
急激に冷却されたことによって関節の柔軟性が失われ、計算通りの軌道にはほど遠い大振りになっているとは、むろんエウフロシュネーには知る由もないことであった。
「だったら、これで――」
高く飛ぼうとした瞬間、エウフロシュネーはそれが叶わないことを思い知る。
背中の装甲が凍結し、体内に収納されている翼を展開することが出来ないのだ。
翼だけではない。
胴体に内蔵された大出力の
大気を燃焼させることで推進力を生み出す
目には見えない冷気ともなれば、なおさら防ぐ手立てはない。
身体の内側から凍りついていく感覚に、エウフロシュネーはたまらず苦悶の声を漏らしていた。
いつのまにか戎装を完了したセラスは、ぐったりと倒れ伏した蒼の騎士を見下ろす。
「う……ああ……」
「本当、バカな子ね。考えてもごらんなさいな。姉たちが二人がかりでも勝てなかったこの私に、末っ子のあなたが勝てる道理はないでしょう?」
「どうして……こんなこと……」
「自業自得よ。私を北方辺境に置き去りにして、自分たちだけ帝都に行くからこんなことになるの」
歌うように言って、セラスはエウフロシュネーに人差し指を突きつける。
「それだけじゃないわ。エルゼリウス様の
セラスの指がエウフロシュネーの額に触れるが早いか、蒼い装甲はまたたくまに氷に包まれていく。
玉座の間に三体目の氷像が加わるまでには、さほどの時間はかからなかった。
凍りついた三姉妹を眺め、セラスは満足げに頷く。
「いい眺めだこと。このさきも姉妹三人でそこに立っているといいわ。この世の終わりが来る日まで、ずうっとね――」
セラスは呵々と笑い声を上げる。
勝者の余裕と自信に満ちあふれた甲高い哄笑は、すぐに熄んだ。
セラスが振り返ったのと、背後の氷壁に裂け目が走ったのは、まったく同時だった。
「ようやくのお出ましね。残念だけれど、生意気な
セラスの目交に飛び込んできたのは、美しくも恐ろしい真紅の騎士だった。
凍てついた炎の色に染められた装甲は、沈みゆく夕陽を背負って、燃えあがるような輝きを放っている。
騎士を殺すために生まれた騎士。
セラスは怖気づく風もなく、あくまで悠然と手招きしてみせる。
「私の氷の城へようこそ。あなたが来るのを待っていたわ――オルフェウス」
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