第198話 氷界の罠

 白く凍てついた世界に、真紅と氷青色アイスブルーの装甲があざやかに映えた。

 霜柱を踏みながら進んでいたオルフェウスは、はたと足を止めた。

 二騎を隔てる距離は三十メートルあまり。

 オルフェウスが加速能力を発動すれば、たちどころに消え失せる程度の距離でしかない。

 セラスの背後には、アグライアとタレイア、そしてエウフロシュネーの氷像が堵列している。

 

「……エウフロシュネーたちを元に戻して」


 真紅の騎士は、常と変わらず抑揚に乏しい声で言った。

 

「ふふ――面白いことを言うわ。どうして戻せると思ったのかしら?」

「戻せないなら、私はあなたを殺すのをためらわない。私に見えるところに三人を置いておくのは、……」

「ぼんやりしているように見えたけれど、意外に頭は働くのね」


 セラスは呵々と笑い声を上げる。

 

「ご明察と言っておくわ、オルフェウス。三人はまだ生きているわ。私が戻そうと思えば、いつでも元通りにすることが出来る……」

「だったら、いますぐに――」

「人の話は最後までお聞きなさい。それは逆に言えば、私がその気にならなければ、姉妹揃って永遠に氷漬けということでもあるの。もちろん、このまま木っ端微塵に砕いてしまえば、二度と再生することは出来ないわ」


 歌い上げるように言って、セラスは三騎の氷像を撫でていく。

 いかに騎士の身体が頑強でも、凍結によって通常時とは比べものにならないほど脆くなっている。

 セラスがほんの少し力を込めれば、三色の装甲はいずれも玻璃ガラス細工みたいに砕け散るはずであった。

 

「お分かり、オルフェウス? いくら最強の戎装騎士ストラティオテスだろうと、あなたは私に何も出来ない。ここでお話でもしながら、陽が沈むのを待ちましょう」

「もう一度言う。エウフロシュネーたちを元通りにして」

「あなた、私の話を聞いていなかったの? 自分の置かれてる状況が分かってないのかしら?」

「分かってる。……私に出来ないことは、


 オルフェウスの輪郭が滲んだのは次の瞬間だった。

 セラスはとっさに防御の構えを取る。

 身体の全周囲に氷の防壁を展開し、オルフェウスの接近を妨げようというのだ。

 万物を破壊する”破断の掌”の前では気休め程度にしかならないことは、むろん承知している。

 それでも、初撃をやり過ごせば、反撃の糸口を掴むことも出来るはずだった。


 実時間にして、わずかにコンマ数秒。

 須臾しゅゆの間に生じた変化を、セラスの感覚器センサーは鋭敏に捕捉していた。


「なっ――!?」

 

 セラスは愕然と背後を振り返る。

 つい一瞬前までそこに佇立していた三姉妹の氷像は、いまや忽然と消え失せている。

 オルフェウスは何をするでもなく、反対側の壁際にじっと佇んでいる。

 むろん、ただ移動しただけではない。

 美しい真紅の騎士は、戎装騎士にも認識出来ない速度で、所期の目的を達成したのだった。

 

「あの子たちを埋めたのね?」

「これであなたには手出しが出来なくなった……」

「小賢しい子。ますます気に入らないわ」


 セラスは苛立たしげに言って、展開した氷の防壁をみずから消し去っていく。

 あの瞬間、加速能力を発動させたオルフェウスは、セラスの背後にすばやく回り込んだ。

 同時に、”破断の掌”を構成する十六兆もの微細な刃が駆動する。

 むろん、そのままとどめを刺そうというのではない。

 セラスを倒せば、氷漬けにされた三騎をよみがえらせる術は永遠に失われてしまう。

 オルフェウスは”破断の掌”を用いて、アグライアとタレイア、エウフロシュネーの足元を瞬時に掘削したのだった。

 けっして身体を傷つけぬよう、細心の注意を払いながら、手際よく三騎を地中へと埋めていく。床と地面を覆った分厚く硬い氷層も、分子間構造を破壊する”破断の掌”の前では、たっぷりと水を含んだ泥濘ぬかるみとなんら変わるところはない。

 すべての作業を完了するまでに要した時間は、一瞬にも満たない。

 氷像と化した三騎はすっかり地中に隠され、もはやセラスでも容易に手出しすることは出来なくなっている。


「これで勝ったつもりかしら、オルフェウス?」

「……」

「まさか、私があなたを恐れてあの子たちを人質に取ったなんて思っていないでしょうね。私は出来れば手荒な真似はしたくなかっただけ。、ね……」


 意味ありげに言って、セラスは右手をオルフェウスに向ける。

 

「私に攻撃を仕掛けなかったのは賢明だったわね。私が本気になれば、あなたを倒すことなんて造作もないもの」


 優美な五指が宙空にゆるやかな軌跡を描いた。

 オルフェウスは何をするでもなく、セラスの行動をじっと注視している。

 加速能力と”破断の掌”の同時使用は、ただでさえエネルギーを著しく消耗する。

 複雑な動作を行ったとなればなおさらだった。

 次の攻撃のためにも、いまは不用意に動かないことこそが最善策であった。


「たとえば、そう……こんなふうにね」

 

 セラスが掌を握り込んだのと、オルフェウスの足元から無数の氷柱が隆起したのは、まったく同時だった。

 鋭利な氷柱は、むろん無から突如として生じた訳ではない。

 地下茎のように床下に張り巡らせた氷の神経組織ネットワークを通して、セラスは意のままに氷柱を作り出し、そして操ることが出来る。

 いまオルフェウスに襲いかかった氷柱は、一つひとつがセラスの身体の延長と言っても過言ではないのだ。

 ほんのわずかでも触れれば、その部位はたちどころに凍結する。

 いかに最強の戦闘力を誇るオルフェウスといえども、四肢が凍りついてはもはや十全の能力を発揮することは出来なくなる。

 

 ほとんど無意識に上方に飛んだオルフェウスは、結氷した壁面をまっすぐに駆け上っていく。

 両足裏の装甲が爪状に突出し、アイゼンの役割を果たしているのだ。

 氷壁に食い込む鋼の爪に、戎装騎士の卓越した脚力が加わることで、人間には絶対に不可能な垂直登攀を可能たらしめている。


 難を逃れたと思ったのもつかの間、オルフェウスの背後で生じたのは、おそろしくも奇怪な光景だった。

 壁面が波打ったかと思うと、氷の波となって真紅の騎士を追撃したのである。

 極低温下における氷の物質的状態は、液体と固体の中間に位置している。

 その特性を利用して、セラスは氷を水のごとく操っているのだ。

 凄まじい凍気を吐き出しながら、セラスに操られた氷の波濤は、四方からオルフェウスを押し包もうとしている。

 もはやどこにも逃げ場はない。

 アレクシオスやエウフロシュネーとは異なり、体内に一切の推進器スラスターを持たないオルフェウスは、空中に退避することも出来ないのだ。

 もっとも、よしんば推進器を備えていたところで、この極寒の環境下でうかつに使用すれば、我が身の破滅を招くのが関の山でもあった。

 

「いまのあなたは袋のネズミ。もうどこにも逃げられはしないわ。観念なさい、オルフェウス‼」


 垂直の壁に立ったまま身じろぎもしない真紅の騎士にむかって、セラスは高笑いを放つ。

 そうするあいだにも、氷の波はオルフェウスの足元にまで押し寄せている。

 加速能力を発動したところで、凍気に触れれば同じことだ。

 いまさらどう足掻いたところで、絶望的な状況は動かせない――そのはずであった。


「なにをするつもりなの……⁉」


 セラスの目の前で展開されたのは、およそ信じがたい光景だった。

 オルフェウスは左右の掌を前方に突き出すやいなや、そのまま氷の波に突進したのである。

 言うまでもなく、この状況においては自殺行為にほかならない。

 真紅の装甲はたちまちに凍結し、オルフェウスは壁面に立ち尽くしたまま、美しくも奇妙な氷像と化すだろう。

 最強の騎士は、みずからの敗北を悟り、戦うことを放棄したというのか?

 そうでないことはすぐに知れた。

 

「そんな、バカな――」


 オルフェウスの掌を中心として、氷の波が音もなく左右に裂けていく。

 悠然と壁面を進む真紅の騎士の姿は、荒波を割って進む一艘の優美な船を彷彿させた。

 むろん、セラスの意思でそうしているのではない。

 ”破断の掌”に触れたとたん、絶対零度に近い氷の波は、あっけなく消滅したのである。

 温度とは、とりもなおさず原子の動きの多寡を意味する。分子レベルの破壊をもたらす”破断の掌”に触れれば、もはや極低温状態を維持することは出来なくなるのは道理であった。

 オルフェウスの四囲に迫っていた氷の波は、もはや消え失せて跡形もない。

 壁面にアイゼンを突き立てる快音を響かせながら、オルフェウスは壁伝いにセラスへと近づいていく。

 

「あなたの攻撃は、私には通じない」

「言ってくれる……本当に気に入らないわ、あなた」

「私のことはどうでもいい。エウフロシュネーたちを元に戻して。そして、皇帝陛下のところへ案内してほしい」

 

 責めるでもなく、嘲るでもなく。

 オルフェウスの玲瓏たる声色は例によって担々として、またそれゆえにセラスの激情にいっそう油を注ぐことになった。

 怒りに身を震わせたセラスが取ったのは、なんとも不可解な動作だった。

 両手を頭上に掲げたまま、氷青色の騎士はその場に根を張った樹木みたいに微動だにしない。


「何をしているの?」

「知りたいなら、教えてあげましょうか」


 先ほどまでとは打って変わって、セラスの声色は勝者の余裕に満ちている。


「べつに構わないのよ。だって、」 


 言い終わるが早いか、オルフェウスの周囲に乳色のもやが漂いはじめた。

 濃霧によく似たそれは、しかし、あきらかに通常の霧とは様相を異にしている。

 オルフェウスの装甲に刺すような痛みが走ったのはそのときだった。

 

「……‼」


 指で触れてみても、装甲表面に傷らしい傷は見当たらない。

 ただ、針で突かれたような激しい痛みだけが全身を駆け抜けていく。

 むろん、錯覚などではない。

 オルフェウスの全身に突き立てられたのは、まさしく針にほかならない。

 それも、ただの針ではない。戎装騎士の視覚器を以てしても認識出来ない極細の氷の針は、もやに紛れて空気中を漂い、真紅の騎士を襲ったのだ。

 

「私の作った針はとっても痛いでしょう? だけど、心配いらないわ。おとなしくしていれば、すぐ痛くなくしてあげるから――」


 心底から愉しげに言って、セラスは宙空に指を踊らせる。

 指の動きに合わせて乳色のもやは揺れ動き、そのたびに何千何万と知れない無数の氷針がオルフェウスを責め苛んでいく。

 ”破断の掌”を使おうにも、空気中に漂う希薄なもやと、視認出来ない微細な針に対してでは、思うような効果は望めない。

 

 全身をたえまなく責め立てる痛みにも悲鳴ひとつ上げず、オルフェウスは加速の準備に入る。

 もともと長時間の戦闘には不向きなオルフェウスである。

 体内に残されたエネルギーはまもなく底をつくはずであった。

 それでも、ひとまずこのもやを脱出しなければ、このままじわじわと消耗していくだけなのだ。

 一か八かの賭けに出ようとするオルフェウスに、セラスはいかにも気遣わしげに声をかける。


能力ちからを使うつもりなら、早くしたほうがいいわ。手遅れになってからでは遅いでしょう?」

 

 オルフェウスは答えず、加速中の軌道計算に全能力を傾ける。

 衝撃波が玉座の間を震わせたのは、次の刹那だった。

 乳色のもやは瞬時に吹き飛ばされ、砕けた氷の破片がセラスに降りかかる。

  

「ふふふ、バカな子……」

 

 セラスは満足げに呟いて、頭上に視線を向ける。


「目に見えないほどちいさな氷が混ざったもやでも、もの凄い速度でぶつかれば分厚い氷の壁とおなじ。私があらかじめ仕込んでおいた罠を避けられないのも当然。あなたは私と戦うまでもなく自滅したのよ、オルフェウス」


 セラスの氷の指が示したのは、奇妙な氷像だった。

 揃えた指先も、まさに飛びかからんと力をみなぎらせた四肢も、これ以上ないほどの躍動感に溢れていながら、けっして動くことはない。

 薄氷に覆われた装甲は、凍てついてなお美しい真紅を湛えている。

 『帝国』最強の騎士――オルフェウスの変わり果てた姿であった。

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