第199話 紅刃一閃

「いいざまね、オルフェウス――」


 セラスの嗤笑が氷の世界に響きわたった。

 氷青色アイスブルーの騎士は、悠揚迫らぬ足取りで真紅の氷像を一周する。

 もはや勝敗は決した。

 いかに最強の戦闘力を持つオルフェウスといえども、完全に凍結した状態から自力で脱出することなど出来るはずもない。

 勝者であるセラスを急き立てるものなど、もはや宏壮な玉座のどこにも存在しないのだ。


 アグライアとタレイア、そしてオルフェウス。

 かつてオルフェウスとともに最強格に位置づけられていたヘラクレイオスとラグナイオスは、どちらもすでに死して久しく、現存する戎装騎士ストラティオテスのなかではもっぱら彼女ら三騎が最強と目されていたのである。

 それもいまとなっては過去の話だ。

 最強の騎士の称号は、三騎をことごとく打ち破った自分にこそふさわしい――すっかり勝利に酔いしれたセラスは、上機嫌でオルフェウスの装甲を指でなぞる。

 

「本当は氷漬けにするのは三姉妹あの子たちだけの予定だったけれど、あなた、意外と悪くないわ。一緒に飾ってあげる」


 いくら語りかけたところで、返事はない。

 いまやオルフェウスの全機能は完全に凍結し、自力では指一本動かせないのだ。

 敵対者にとっては死神にも等しい真紅の騎士も、こうなってはひたすら美しい立像にすぎない。

 セラスはなおもオルフェウスの周囲を歩き回りながら、問わず語りに言葉を連ねていく。


「安心なさい。八つ当たりで壊したりしないわ。だって私、とても幸せなんですもの。この世の終わりが来るまで、ずうっとそのままの姿での目を楽しませてちょうだい……」


 言い終わるが早いか、セラスは右手を高く掲げる。

 氷の繊手が動くのに合わせて、壁面に音もなく亀裂が走った。

 熟れた果実の皮が剥けるように、壁はひとりでにめくれあがっていく。

 やがて壁一面に及んだ裂け目を通して玉座の間に差し込んだのは、茜色の残光だった。

 

 闇に覆われつつある夕空を、太陽が燃え落ちていく。

 日没まであと十五分とあるまい。

 あの陽が沈みきると同時に、皇帝ルシウス・アエミリウスの時代が終わる。

 エルゼリウスにすべての権力を委ねるか、あるいは皇帝のまま死を迎えるか。

 『帝国』において、皇帝の決断は絶対である。

 ルシウスに忠誠を誓う戎装騎士たちがどうあがいたところで、一度下された決定を覆すことは出来ない。

 よしんば抵抗を試みたとしても、最強の三騎はすでに封殺されているのだ。生き残った騎士が束になったところで、セラスの敵ではないはずであった。

 

「残念だけれど、あなたたちの頑張りはすべて無駄だったということ……」


 セラスはその場でつま先立ちになると、くるくると回り始める。

 観客のいない一人舞台で、氷の魔女は誰はばかることなくみずからの心のうちを歌い上げていく。


「意地悪な三姉妹に田舎に置き去りにされて悔しい思いもしたけれど、それももう昔の話。これからエルゼリウス様の下で、私は毎日楽しく幸せに暮らすのよ――」


 歓喜の表現が最高潮に達しようかというとき、セラスはふいに動きを止めた。

 奇妙な音に気づいたためだ。

 聞き間違いなどではない。

 戎装騎士のすぐれた感覚器センサーは、数百メートル先で針を落とした音でさえ聞き漏らすことはないのである。

 そうしているあいだにも、音は二度、三度と立て続けに起こっている。

 硬質の物体がひび割れるような甲高い音に、ときおり破裂音が混ざる。

 

「うそよ……そんな……はずは……」


 セラスは愕然と背後を振り返る。

 氷の牢獄に閉じ込められ、自力では永久に動けないはずの真紅の騎士。

 その美しくも凄絶な姿を留めた氷像の表面には、いつのまにか無数の亀裂が生じている。

 ひび割れ、ささくれだった氷は、重力の命じるままにぼろぼろと剥離していく。

 そうして剥がれ落ちた氷の下から現れたのは、凍てついた炎の色であった。

 

「なぜ……!? どうして動けるの!?」


 信じがたい光景を目の当たりにして、セラスはふたたび凍気を集中させる。


 ありえない――

 きっと、なにかの間違いに決まっている――

 二度と動き出さないように、分厚い氷の棺に閉じ込めてやる!!


 処置が遅きに失したことをセラスが理解したのは、次の瞬間だった。

 身体の自由を取り戻したオルフェウスは、自力で氷のいましめを破壊するや、そのまま高く跳躍したのだった。

 軽々とセラスの頭上を飛び越え、真紅の騎士は危なげなく着地する。


「なぜなの……!? どうやって氷の呪縛を……!?」


 セラスは知る由もない。

 みずからの勝利を確信し、余裕たっぷりに歌い踊るその傍らで、オルフェウスがひそかに脱出の準備を進めていたなどとは――。


 加速能力をもつ騎士は、能力を発動するにあたって、みずからの身体にあらかじめ行動を入力する。

 いったん加速に入れば、視覚器を始めとする一切の感覚器センサーは機能を失い、四肢へと指令を伝達することが不可能になるためだ。


 むろん、オルフェウスも例外ではない。

 のみならず、あらゆる騎士を寄せつけない超級の加速性能を持つがゆえに、加速中の行動を演算する能力もまた隔絶している。

 オルフェウスはもやから脱出するために加速能力を使用するのに先立ち、、みずからの取るべき行動を事前に組み立てたのだった。

 はたして、オルフェウスは進路上に仕掛けられていた罠によって全身を凍結された。

 その後、事前に設定されていた命令によってひとりでに起動した”破断の掌”が氷の層を破壊し、そこを突破口として全身の脱出を可能たらしめたのである。


 ようやく落ち着きを取り戻したセラスは、努めて平静を装いながら、オルフェウスに指を突きつける。


「すこし油断したけれど、まぐれは一度だけ。今度は逃げられないように念入りに凍らせてあげる」

「私におなじ手は二度と通用しない……」

「あなた、本当に生意気だわ。気に入らない!!」


 セラスが右手を突き出すが早いか、肘下を覆うように氷の魔剣が伸びる。

 

「残念だけれど、あなたの体力があまり長く続かないことはお見通しよ。ご自慢の能力ちからも、使えるのはせいぜいあと一度か二度というところかしら?」


 オルフェウスは答えず、じっとその場に立ち尽くしている。


「一度だけで、充分――」


 刹那、セラスの目の前で生起したのは、世にも奇怪な現象だった。

 全身の装甲が割れたかと思うと、分割された細かな装甲片は互いに位置を入れ替え、めまぐるしくその配列を変えていく。

 オルフェウスは、すでに戎装したうえで、さらにもう一段階の変形へんぎょうを遂げようというのだ。


 戎装殲騎ストラティオテス・ディミオス――。

 先ほどまでとは比べ物にならない威圧感と、鬼気迫る美しさをまとって玉座の間に顕現したのは、真紅の騎士のもうひとつの形態すがた

 背部からは光子推進器フォトン・スラスターを備えた一対の翼がせり出し、両のかいなにはあらたに鋭利な双剣が形作られている。

 ひたすらに戎装騎士ストラティオテスを駆逐することだけを追求し、そのために不必要な機能をことごとく削ぎ落とした姿は、まさしく死神と呼ぶにふさわしい。


 戎装殲騎となったオルフェウスを前にして、さしものセラスも本能的な恐怖を覚えている。

 凍気よりも冷たい殺気が戦場を満たしていく。

 ひりつくような緊張のなかで、セラスの心にひとつの疑問が浮かび上がる。


 いま自分の前にいるのは、本当におなじ騎士ストラティオテスなのか?

 あるいは、なのではないのか――。


 そう考えたとたん、セラスの背筋を得体の知れない感覚が走り抜けていった。

 怖気がこみ上げてくる。人間がしばしば遭うという金縛りとは、このような感覚を言うのだろうか。

 それでも、セラスは逃げるつもりなど毛頭ない。

 氷青色の騎士は、萎えかけていた闘志を奮い起こし、オルフェウスに氷の剣尖を突きつける。

 

「私は……負けない……‼ あと一歩というところまで来たのに、すべてを台無しにされてたまるものですか……‼」

 

 セラスの身体を取り囲むように、何万とも知れない微小な氷塊が漂いはじめた。

 一つひとつがちいさな氷の魔剣なのだ。

 全方位からの飽和攻撃をまともに浴びれば、いかにオルフェウスといえども無事では済まない。


「死になさい、オルフェウス‼ 私とあの方の未来のために‼」


 叫ぶが早いか、オルフェウスへと極小の魔剣が殺到する。

 絶対に回避することの出来ない、それはまさしく必殺の一撃であった。

 前後・左右・上下――どこに逃れたとしても、魔剣の弾幕は過たず目標に襲いかかる。

 転瞬、凄まじい破壊音が玉座の間を領した。

 やがて一面を閉ざしていた濃密な氷霧が晴れたあと、セラスの視界に映ったのは、氷像と化した紅殲騎の姿だ。

 呆然と見つめたのも一瞬、セラスは高笑いを上げる。

 

「ふふ……あははははっ‼ しょせん見掛け倒しだったようね‼ 驚かせてくれた割にあっけなかったわ、オルフェウス――」

 

 セラスの甲高い笑声は、そこで途切れた。

 手を触れていないにもかかわらず、氷像はひとりでに崩れ去っていく。

 まず腕が落ち、続いて首が落ちた。

 あらわになった断面は、まったくの空洞であった。

 当然そこにあるべきは、いったいどこへ消えたのか。

 セラスの頭脳は、たったひとつの答えを導き出す。

 

「うそ……うそよ……そんな、こと……」


 ふいに気配を感じて、セラスははたと頭上を仰ぐ。

 いまや物言わぬ氷像と化したのはセラスのほうだった。

 まったくの無傷で浮遊する真紅の騎士を目の当たりにしては、そうなるのも無理はない。

 光子推進器を全開したオルフェウスは、天井へと逃れていたのだ。

 量子状態さえ狂わせるほどの超加速に、氷の魔剣はと誤認して、オルフェウスの輪郭を縁取るように空気だけを凍結させたのだった。

 

「バ、バケモノ……」

「よく言われる。だけど、それはあなたもおなじ」

「ちがう‼ お前は、本物の――――」


 セラスは再度の攻撃を仕掛けようと、凍気を両手に集めはじめる。

 真紅の光芒が迸ったのは、次の瞬間だった。

 時ならぬ静寂が玉座の間を包む。

 オルフェウスが戎装を解いて立ち上がったのと、両腕を肩から斬り落とされたセラスがその場に力なく崩れ落ちたのは、ほとんど同時だった。

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