第200話 終幕、そして…

 氷に閉ざされた玉座の間に、夕陽の色がひとすじ差し込んだ。

 さらにもうひとすじ、ふたすじと、壁面のそこかしこから陽の名残りが滲み出してくる。

 それに合わせて、室内を覆っていた分厚い氷はみるまに溶け崩れていく。

 触れただけで万物を凍てつかせる魔氷は、氷点下に保たれた結界の内部でしか存在し得ない。翳りゆく日差しのなかで、おそるべき氷の城はもろくも崩れ去る宿命であった。

 いま、ぬかるんだ絨毯に膝を突くのは、もはや氷青色アイスブルー戎装騎士ストラティオテスではない。

 両腕を肩から失ったひとりの女だ。


「ま……だ……」


 セラスは苦しげに喘ぐ。

 ここまでの激しい戦闘で体内のエネルギーは払底しかかっている。

 そのうえ、凍気を操る制御器コントローラーの役割を果たしていた両腕を失ったとあれば、もはやセラスに戦う術はない。

 氷で切断面の再接合を図ろうにも、それを実行する力さえ残ってはいないのだ。

 にもかかわらず――。

 オルフェウスをきっと睨めつける氷の瞳には、いまなお凄まじい闘志が漲っている。


「このくらいの傷、どうってことない……私はまだ戦えるわ……!! あなたなんかにむざむざと負けるものですか……!!」


 射殺さんばかりのするどい視線と、呪詛にも似た言葉を浴びせられても、オルフェウスは常と変わらぬ無表情を保っている。

 亜麻色の髪の少女は、紅く澄んだ柘榴石ガーネットの瞳をセラスに向けると、抑揚のない声で告げたのだった。


「諦めたほうがいい。あなたはもう戦えない」

「だまりなさい!! それを決めるのはこの私よ……!!」

「なぜそうまでして戦おうとするの?」


 オルフェウスに問われて、セラスは言葉に詰まる。

 やがて、氷の魔女の面上を占めたのは、恥じらいと躊躇いが入り混じった表情だった。


のために……」

「あの人?」

「そうよ!! もう少しであの人の願いが叶うのに、私がこんなところで負ける訳にはいかないの……!!」


 セラスの悲痛な叫びをかき消すように、扉を力任せにぶち破る音が重なった。

 おおきく開け放たれた扉から玉座の間になだれ込んだのは、十人ほどの集団であった。

 クロスボウを構えた中央軍の兵士たちと、彼らに守られるように進み出た二人の男。


 そのうちの一人を認めたとたん、セラスは感極まったように呟いていた。


「エルゼリウスさま……!?」


 エルゼリウスはセラスをちらと一瞥すると、オルフェウスにむかって大喝する。


「動くな、皇帝の戎装騎士!! おかしな真似をすれば、ルシウス・アエミリウスの生命はないと思え!!」


 その言葉に呼応するように、周囲の兵士たちがルシウスに弩を突きつける。

 彼らがほんのわずかに引き金を絞れば、皇帝の生命はたちまちに失われる。

 当のルシウスはといえば、絶体絶命の窮地にもかかわらず、あくまで飄然と佇んでいる。


「我が騎士たちを破り、ここまで辿り着いたことは褒めてやろう。だが、それもここまでだ。もはや私の勝利を邪魔することは誰にも出来ん!!」


 エルゼリウスはオルフェウスを指差すと、勝ち誇ったように宣言する。


「アエミリウス、約束は守ってもらうぞ。私に皇帝としての権限のすべてを譲るか、それともここで死ぬか……好きなほうを選ぶがいい」


 ルシウスは黙したまま、エルゼリウスに顔を向ける。

 夕陽に照らされた皇帝の面貌をよぎったのは、どこまでも不敵な笑みだった。

 その表情を自分への嘲弄と解釈したのか、エルゼリウスはおもわず声を荒げる。


「なにがおかしい? まさか約束を違えるとつもりではないだろうな、アエミリウス!?」

「よく見るがいい、エルゼリウス。まだ太陽は沈みきってはおらぬ。勝ったと思うのはいささか早計ではないか」

「貴様、この期に及んでまだそんな世迷い言を――」


 落日の色に染め上げられた玉座の間に、ふいにあざやかな色彩が生じたのはそのときだった。

 真紅の烈風かぜが玉座の間を吹き抜けていく。

 周囲の兵士たちが一人残らず倒れていることにエルゼリウスが気づいたのは、すべてが終わった後だった。


「な……えっ!?」


 情けない声を漏らしたきり、エルゼリウスは言葉を失った。

 それも無理からぬことだ。

 貴公子の喉首には、美しくも恐ろしい凶器が突きつけられている。

 この世のいかなる名刀よりも鋭利なそれは、まさしくオルフェウスの手刀であった。

 戎装したオルフェウスは、使、並み居る兵士たちを一瞬になぎ倒していった。

 生身の人間を制圧する程度であれば、あえて消耗の激しい能力を用いるまでもない。

 

 エルゼリウスの首筋を冷たいものが伝っていく。

 オルフェウスが軽く手首を滑らせれば、人間の頸骨などたやすく切断されるだろう。

 先ほどまでの勝利者の余裕はどこへやら、ほとんど恐慌状態パニックに陥りかかったエルゼリウスは、裏返った声で叫ぶ。


「ぶ……無礼者!! 貴様、私にこんな真似をして許されると思っているのか!? 私はエルゼリウス・ルクレティウス・アグリッパだぞ!!」

「知らない」


 玲瓏な声色は、死刑執行の告知に等しかった。

 すっかり血の気の失せたエルゼリウスの顔は、いまや死人みたいに白茶けて、両肩はあわれなほどに震えている。

 命乞いをしようにも、咽頭の筋肉は意に背いてむなしい痙攣を繰り返すばかりだった。


「……?」


 と、オルフェウスの足に何かがぶつかった。

 エルゼリウスに手刀を突きつけたまま、真紅の騎士は下方を見やる。

 正体はすぐに知れた。

 セラスが床を這いずりながら、オルフェウスに何度も身体をぶつけているのだ。

 両腕を切り落とされ、もはや戎装することもままならない女騎士にとって、体当たりだけが唯一の攻撃手段であった。


「絶対にエルゼリウスさまを殺させたりしない……!!」

「邪魔をしないで――」

「私からその人を奪わないで!! エルゼリウスさまは、私の王子様なの!!」

「王子様?」


 オルフェウスに問われて、セラスは切々と語り始める。


「そうよ!! ……私は三姉妹あの子たちに置いていかれてから、たったひとりで辺境でくすぶってた。強がっていたけど、本当はひとりぼっちで寂しくて、毎日泣きながら暮らしていたわ。そんなときに、エルゼリウスさまは私に声をかけてくれた。私のことを必要だと言ってくれた。どんなにうれしかったか、あなたには想像もつかないでしょうね」

「それとこれと、なんの関係が……」

「その人を愛してるの!! だから、殺させない!! 私が守るの!!」


 涙を浮かべながら身体をぶつけてくるセラスを、オルフェウスは困惑したように見下ろすことしか出来ない。

 気づけば、エルゼリウスもまた、両眼から涙を溢れさせている。

 それが死の恐怖に由来するのか、あるいはセラスの痛切な想いに心打たれたのかは判然としない。

 ともかく、オルフェウスは恥も外聞もなく泣きじゃくる男女に挟まれて、どう動いてよいものか思案に暮れている。


「もうよい――そやつを放してやれ、オルフェウス」


 見かねたように言ったのはルシウスだ。

 オルフェウスはすばやく手刀を引っ込めると、そのまま後じさる。

 同時に、エルゼリウスは糸が切れた人形みたいにその場に尻餅をついた。

 どうやら腰が抜けてしまったらしい。自力では立ち上がることも出来ず、茫然とへたり込んでいる。

 ルシウスはエルゼリウスの傍らに歩み寄ると、すっかり意気消沈した貴公子に鳶色の瞳を向ける。

 

「そなたの負けだ、エルゼリウス」

「お、おのれ……アエミリウス……!!」

「皇帝に二言はない。余の騎士はかならず来ると言ったであろう」


 しばらく呆気にとられたようにルシウスを見つめていたエルゼリウスの顔に、にわかに生気が戻りはじめた。

 べったりと尻餅をついたまま、エルゼリウスは声も枯れよと咆哮する。

 

「ま……まだだ!! まだ終わりではないぞ!!」

「ほう?」

「貴様は知るまい。いまごろ私の命令によって、北方辺境軍三十万の大軍勢が帝都にむかって南下しているはずだ。かくなるうえは、貴様の狂った王朝もろとも帝都を灰燼に帰してくれる!! 貴様を葬り去ることが出来るのであれば、なんの帝都のひとつやふたつ、焼いたところで惜しくはない!!」

「なるほど――ラフィカ、聞いていたか?」


 ルシウスが手を打つと、エルゼリウスの背後でふいに気配が生じた。

 次の瞬間、音もなく玉座の間に進み出たのは、長剣を腰に差した小柄な人影だった。

 夕陽が赤銅色の髪をいっそうあざやかに輝かせている。

 ラフィカは手に持った小包を無造作に破ると、その中から何かを探り出す。

 

「お初にお目にかかります、エルゼリウス閣下。ところで、イストザントからヒュペルポリスへの郵便馬車の料金、ご存知でした?」

「なんだ、貴様は……!? いったいなんの話をしている⁉」

「ほんのちょっとお代が足りなかったようです。そういうことなので、郵便配達の規則に従って差出人にお返ししますよ、これ――」


 言い終わるが早いか、エルゼリウスの目の前に放り捨てられたのは、一通の書簡だ。

 薔薇の花弁をあしらった封蝋を認めて、エルゼリウスはおもわず瞠目していた。

 見間違えるはずもない。

 ルクレティウス朝の象徴であり、その末裔であるアグリッパ家だけに使用が許された特別な紋章。 


「なぜ、これが、こんなところに――――」


 その書簡こそ、北方軍管区総司令官の名義でエルゼリウスが発給した極秘の命令書にほかならない。

 クーデーターを実行に移すまでの機密保持を優先して、帝都に到着してから早馬で北方辺境に送ったはずの命令書は、誰の目に触れることもなく、ふたたびそれをしたためた張本人の手元に戻ってきたのだった。

 ヒュペルポリスに向かっていた早馬が昨夜のうちにラフィカに追いつかれ、命令書があっけなく奪取されたことなど、むろんエルゼリウスは知る由もない。

 

「な、なにかの間違いに決まっている……こんなことがあってたまるか……」

「見てのとおり、大事なお手紙は戻ってきてしまいました。帝都に向かって進軍中の三十万の大軍などどこにもいないということです」

 

 言って、ラフィカは呆れたように肩をすくめてみせる。

 

「まったく、陛下もお人が悪い。本当はもっと早くから謀反に気づいていたのに、ギリギリまで泳がせておいたんですからね」

「どういうことだ……!?」

「言ったとおりの意味ですよ。『どうせ謀反を企んでいるなら、いっそ引っ込みのつかないところまでやらせてやろう。そうすれば、いちいち奴の共犯者を調べ上げる手間も省ける』などと言って、ここまであなたの好きなようにやらせていた訳です」


 ラフィカの言葉に、ルシウスはゆるゆると肯っただけだ。

 エルゼリウスにひとしきりを語り終えたラフィカは、戎装したまま立っているオルフェウスに視線を移す。


「とはいえ、みなさんを呼ぶために騎士庁ストラテギオンを訪ねたら、とっくにもぬけの殻だったのにはさすがに焦りましたけど。どこの誰が通報したかは知りませんが、終わってみれば上手く事が運んだものです――」

 

 ルシウスはエルゼリウスに近づくと、ふと相好を崩す。

 憐憫に満ちた微笑は、一度は勝利を掴みかけた敗残者に対して、どんな暴力よりも残酷な仕打ちであるはずだった。


「そういうことだ、エルゼリウス。そなたに同調して部隊を動かした中央軍の将軍や、帝城宮への侵入を手引きした高官たちも、今ごろはひとり残らず就縛されているだろう」

「よくも謀ったな、アエミリウス‼ 皇帝でありながら卑劣な真似を‼」

「謀反人にだけは言われたくない言葉だ」


 頑是ない子供のようにむせび泣くエルゼリウスに、セラスはそっと身体を寄り添わせると、涙を流しながら優しく語りかける。

 

「お可哀そうなエルゼリウスさま……‼ でも、ご安心なさってください。この私がついております……‼」

「セラス、私を助けてくれるのか……?」

「もちろんですわ。愛し合う二人は、現世では結ばれなかった悲劇の恋人同士として末永く語り継がれるのです。ああ、なんて素敵なの――」


 すっかり自分の世界に没入し、恍惚とした表情で語るセラスの言葉は、もはやエルゼリウスの耳には届いていない。

 『帝国』において、皇帝に反逆を企てた者の辿る末路はひとつしかない。

 栄光から一転して奈落の底に落ちた貴公子の精神は、肉体に先んじてすみやかな死を迎えつつあった。

 

「エルゼリウス、最後にひとつだけ言っておく」

「わかっている……わたしは死ぬのだろう……我がアグリッパ家はもう終わりだ……」

「皇帝しか知らぬ秘密は、もうひとつある。最後に聞いておくのも悪くはなかろう?」


 ルシウスはエルゼリウスの顔をなかば無理やりに引き寄せると、耳元で何事かを囁いた。

 直前まで死人のようだった面上に兆したのは、心底からの驚愕だった。

 疑念や怒り、悲嘆といった種々の感情がめまぐるしく過ぎ去ったあと、エルゼリウスは蒼然と俯いた。

 焦点の合わない視線を宙空に漂わせながら、見る影もなく憔悴しきった貴公子は、ぶつぶつと聞き取れない言葉を口にしている。

 

「うそだ……信じないぞ……」

「あいにくだが、すべて本当のことだ」

「それでは、私がいままでずっと信じていたものは……最初から……」


 エルゼリウスが白目を剝いて意識を失ったのに前後して、建物の外からけたたましい物音が聞こえてきた。

 

 王宮内の反乱軍を制圧し、ジェルベールを筆頭とする反乱の首謀者をことごとく捕縛したアレクシオスとレオンが玉座の間に突入したのは、それから数分後のこと。

 漆黒と白銀の騎士がまっさきに目にした光景は、ほとんど廃人と化したエルゼリウスと、その傍らに悠然と立つ皇帝ルシウスの姿だった。

 

 

 


 

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