第201話 エピローグ

 二人の偉大な始祖を例外とすれば、『帝国』の歴代皇帝のなかで、ルシウス・アエミリウスほど後世の関心を引いた人物はいない。

「遅すぎた名君」「最後の皇帝」として知られる彼の人生を彩った数多くの出来事のなかでも、「エルゼリウス・アグリッパの乱」は、最も謎に満ちた事件とされてきた。

 同時代の第一級史料は皆無に等しく、のちに編纂された正史には、ごく簡潔な概要が述べられているにすぎない。


 ……某月某日。北方軍管区より帝都に召喚されたエルゼリウス・アグリッパは、皇帝の面前において騒擾事件を引き起こし、当日のうちに身柄を拘束された。……


 事件について信用に足る公的記録は、これがすべてである。

 『帝国』屈指の名門に生を享けたエルゼリウスがこのような暴挙に及んだ動機と経緯、そして皇帝の面前で発生したの実態がいかなるものであったかについて、正史は緘黙している。

 すべては歴史の彼方へと過ぎ去り、いまとなっては事件の証人はおろか、ひとかけらの証拠品も見つけることは出来ない。


 それでも、現存するわずかな周辺史料を精査し、事件の実像を詳らかにしようという歴史学上のこころみは、これまで何度か行われてきた。

 芳しい成果が得られたとは言いがたいが、まったく収穫がなかった訳ではない。

 事件から半年ほどのあいだに、中央軍の将軍十五名が官位剥奪のうえ禁固刑に処され、さらに四名の高官が庶民に落とされたという事実は、彼らがエルゼリウスの罪に連座した結果と考えられている。

 いずれも微温的な処罰に留まったのは、事件を黙殺するための政治的配慮によるものと考えられるが、これも推測の域を出ない。


 では、事件の首魁であるエルゼリウスはどうなったのか?

 にわかには信じがたいことだが、エルゼリウスのその後については、何ひとつ分かっていない。

 事件のあと、エルゼリウス・アグリッパの名前はいかなる公的な記録にも表れることはなく、まさしくその存在は闇に葬られたのである。

 不可解なことに、アグリッパ家は記録の上ではその後も三十年ほど存続し、継嗣不在という理由で貴族籍を抹消されている。

 エルゼリウス・アグリッパは事件の後も生存していたようにも解釈出来るが、その可能性はきわめて低いと言わざるをえない。

 『帝国』の歴史を紐解けば、皇帝への謀反を企てた人間は、例外なく極刑に処されている。

 詳しい時期こそ不明だが、エルゼリウスも処刑されたと考えるのが妥当だろう。

 世が世なら皇帝となっていた名門の貴公子は、刑場のはかない露と消え、いまとなっては遺骨の所在さえ判然としないのである。


 余談だが、かつて『帝国』には、死刑以上に重い刑罰が存在した。

 「記憶の処刑ダムナティオ・メモリアエ」――。

 すなわち、あらゆる公的記録から削除することにより、のである。

 かりにルシウス帝がエルゼリウスに対して「記憶の処刑」を行ったとするならば、一切の記録から彼の名前が消えたことにも一応の説明はつく。

 とはいえ、最後に『記憶の処刑』が執行されたのは事件の千年ちかく前であり、当時ほとんど忘れ去られていた古代の刑罰をルシウス帝が復活させたとは考えにくい。


 これまでも、そして恐らくはこれからも、事件の詳細な全貌があきらかになる可能性はかぎりなく低い。

 遠い日の真実は、けっして光の差さない歴史の水底へと沈んでいったのである。


***


 木漏れ日が地面にまだら模様を落とした。

 街路樹に芽吹いた若葉が、ひと足先に春の訪れを告げている。

 長い冬から解放された帝都イストザントの町並みは、うららかな陽光を浴びてきらめくようであった。

 いま、帝城宮バシレイオンから官庁街へと至る通りを、二人の少年が連れ立って歩いていく。


「アレクシオスさん、本当にこれでよかったのでしょうか――」


 先を行くアレクシオスの背中にむかって、レオンは消え入りそうな声で呟いた。

 

「なんのことだ?」

「本来なら、僕のしたことはけっして許されないはずです。それなのに、僕だけがなんの処罰も受けないというのは……」

「おかしなことを言うやつだ――」


 アレクシオスははたと足を止めると、首だけでレオンに振り返る。

 その顔に浮かんだのは、早春の日差しよりもなおやわらかな微笑だった。


「おまえは皇帝陛下の危機を騎士庁ストラテギオンに知らせてくれた。そして、おれたちと協力して城内の反乱軍を鎮圧した。それがすべてだ。なにを負い目を感じることがある?」

「しかし、僕は一度はあなたに剣を向けて……」

「さあな、あいにく覚えていない。おれがそう言っているのだから、それでいいじゃないか」


 アレクシオスはわざとらしく言って、さっさと歩き出していた。

 あわてて追いすがったレオンを見やるでもなく、アレクシオスはひとりごちるみたいに語りはじめる。


「どうしても自分自身が許せないなら、これまで以上に戎装騎士ストラティオテスとして強くなることだ。それが皇帝陛下の温情に報いるたったひとつの方法だ」

「うまく出来るでしょうか。あのとき、仲間を助けられなかったこの僕に……」

「おれたちがいる。おまえはもうひとりじゃない。だから、自信を持って進めばいい」

「アレクシオスさん――」


 感極まったように言って、レオンは顔を伏せた。

 まだあどけなさの残る少年の頬を、透明な雫がひとすじ流れ落ちていく。

 忘れかけていた暖かな感情が胸にこみ上げてくる。

 それは、ヘラクレイオスとの戦いで仲間を失って以来、ずっと欠け落ちていたもの。

 もう二度と手に入らないと諦めかけていたかけがえのない絆は、いま、確かにレオンの心によみがえったのだった。


 そんなレオンの心中など露知らず、アレクシオスは何かを思い出したようにぽんと手を打った。


「レオン、分かってるとは思うが、アグライアとタレイア、それにエウフロシュネーの前では絶対に迂闊なことを言うなよ。元通りになったからいいものの、三人とも氷漬けにされていたことをまだ根に持っているみたいだからな。エルゼリウスの一味に協力していたことが知れたら、どうなるか分からん――」


 どこからか「おーい!」と叫ぶ声が聞こえてきたのはそのときだった。

 声のしたほうに目を向ければ、道の向こうで、栗色の髪の少女が手を振っている。

 

「ちょっと、二人ともなにやってんのよ! 今日はみんなでご飯食べに行く約束だったでしょ! いい加減に待ちくたびれちゃったわ」


 急かすように言って、イセリアは二人を手招きする。

 その傍らには、オルフェウスとエウフロシュネー、レヴィとラケル、そしてヴィサリオンの姿もみえる。

 アレクシオスとレオンは互いに顔を見合わせると、どちらともなく駆け出していた。

 

***


 帝都イストザントにほど近い保養地にその男がやってきたのは、ちょうど冬も終わりに差し掛かったころだった。


 奇妙な男であった。

 頭髪はすっかり白髪に変わり果てて、元の色は見当もつかない。乾ききった肌はところどころひび割れ、そのさまは、真夏の日差しに晒されて干からびた果実によく似ていた。

 一見すると老人のようだが、よくよく近づいて見れば、まだ三十歳にもなっていないようでもある。

 男の実際の年齢は定かではないものの、正気を失っていることは誰の目にもあきらかだった。

 聞き取れないうわ言を口にしたかとおもえば、だしぬけに虚空にむかって叫び声を上げることもしばしばだった。


 時おり男がを口にすることに気づく者もあったが、そんなときは誰もがなにも聞かなかったふりをした。

 『帝国』において皇帝への侮辱を公言することは固く禁じられているが、それも健康な精神の者にかぎっての話だ。

 狂人のたわごとを真に受けて、わざわざ官憲に通報するような物好きなどいるはずもなかったのである。


 狂気に取り憑かれた男は、しかし、あながち不幸とも言い切れなかった。

 それというのも、男の傍らには氷青色アイスブルーの髪の美女がつねに付き従い、昼夜の別なく身の回りの世話をしているのである。

 彼らがどのような関係なのかは、保養地の誰も知らず、あえて詮索しようという者もいなかった。


 このさき男が正気を取り戻す見込みは、まずあるまい。

 どれほど甲斐甲斐しく尽くしたところで、女の献身が報われることはないということだ。

 にもかかわらず、女の顔は、これ以上ないほどの幸せに満ちあふれている。

 いまも粥を掬ったスプーンを男の口に運びながら、女は愛おしげに囁きかける。

 

「帝都のお城で暮らせなくなってしまったのは残念だけれど、私、ちっとも悲しくありませんのよ。だって、もうひとりぼっちではないんですもの……」


 男はもごもごと粥を咀嚼するばかりで、女の言葉に答えようともしない。

 女は女で、返答があろうとなかろうと、まったく意に介していないようであった。


「ああ、皇帝陛下が私たちのことをお許しになってくださって本当によかった。だから、これからもずっと一緒にいましょうね――私の王子様♡」


***


「何をお読みになっているですか、陛下?」


 ラフィカに問われて、ルシウスは読みさしの本を机に置いた。

 うららかな光に満たされた書斎には、二人のほかに誰もいない。

 

「すこし興祖皇帝のことを調べていた」

「その御方のことなら、わざわざ他人の書いた本を読まなくても、陛下がこの世の誰よりもよくご存知なのでは?」

「そうかもしれん――」


 ラフィカはしばらく思案するような素振りを見せたあと、ちらとルシウスを見やる。


「ところで、あのとき、エルゼリウスになにを仰ったんです?」

「さて、なんであったかな」

「またおとぼけになって。きっと、人の正気を失わせる恐ろしい魔法でもお使いになったのでしょう」


 言い終わるが早いか、ラフィカの姿は幻のように失せていた。

 主人の読書を妨げないようとの気遣いか、気配までも完全に消し去っている。


 ルシウスはふたたび本を手に取ると、ぱらぱらとページを手繰る。

 やがて、ルシウスはあるページで指を止めた。

 そこに描かれていたのは、美しくも凛々しい女性の肖像であった。

 

 皇后ユーリア。

 その名がつとに知られているのは、彼女が『東』の国家を創立した興祖皇帝の妻であったからだけではない。

 流刑の身であった夫を陰に日向に助け、さらに彼ら夫婦のあいだに生まれた子供たちは歴代王朝の始祖となったことから、『すべての皇帝の母』と呼ばれる伝説的な女傑。


 またの名を、青い瞳のユーリア。

 国家の正史が伝えるところによれば、ユーリアは西方人であったという。

 大陸東方ではけっして生まれることのない青い瞳は、彼女の出自を証明する何よりの証拠であるとされている。


 ルシウスは椅子の背に身体を預けると、そっとまぶたを閉じる。

 皇帝の眼裏まなうらに浮かんだのは、忘れもしないあの夜の出来事。

 いまは亡き父・イグナティウス帝は、いよいよ崩御する前夜、皇太子であったルシウスを枕頭に呼び寄せた。

 念入りに人払いをさせたあと、老いた皇帝は病体に鞭打って、先祖から受け継がれてきた『帝国』最大の秘密をみずからの後継者に打ち明けたのだった。


――『東』の皇帝家には、東方人の血が流れている。


 もし公表されたなら、国家そのものが根底から覆りかねない真実。

 エルゼリウスが正気を失ったのも無理からぬことだ。

 彼の信念と誇りの根源であった「皇帝の血を引く純血の西方人」という幻想は、ルシウスの一言によって、砂の城を崩すようにあっけなく崩れ去ったのだから。


 ふっと息を吐いて、ルシウスはふたたび書物のページに視線を落とす。

 後世の画家が描いたいにしえの皇后は、西で、はるかな子孫を見上げていた。


【特別編 完】

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る