星詠いの乙女

第202話 砂塵の追跡

 赤い風が大地を吹き渡っていった。

 むろん、風そのものは、本来いかなる色彩いろも持たない。

 風に含まれる赤茶けた砂塵が人の目をあざむき、そのような錯覚を抱かせるのだ。

 赤錆色の大地を覆っていた砂粒は、高々と巻き上げられ、いまや地ばかりか天までも同じ色に染め上げようとしている。


 ラシャイア砂漠――。

 『帝国』の南方に位置するその土地は、実際には砂漠とは名ばかりの大荒野である。

 このあたりは年間を通して降水量が極端にすくなく、井戸を掘っても赤錆色の水がほんのわずか湧き出るばかり。保水力など皆無に等しい土壌には、いかなる植物も根付くことは出来ない。

 『帝国』が東方を版図に収めるはるか以前から現在まで、赤い砂漠は人間の居住を頑なに拒み続けている。


 いま、砂塵をかき分けるように黙々と進む人影がひとつ。

 砂漠の旅人らしく、薄黄色の長衣コートを身につけ、頭と首周りはフードにすっぽりと覆われている。

 年齢はおろか、性別さえも外見から判別することは不可能だった。

 旅人が最後の集落を発ってから、すでに三昼夜。

 とても信頼に足るとは思えない地図によれば、ちょうどラシャイア砂漠の中心部に差し掛かろうとしている。

 中心部といっても、べつに何がある訳でもない。

 始まりから終わりまで、見渡すかぎり代わり映えのしない渺々たる風景が広がっている。

 そのはずであった。


 旅人はふいに足を止めていた。

 行く手に茫洋と浮かび上がったものを認めたためだ。

 吹きすさぶ砂嵐によって視界は溟濛とかすんでいるが、どうやら建物らしい。

 それも、一軒や二軒ではない。

 十軒あまりの建物が寄り合うように密集し、遠目には砂漠にわだかまった奇怪な塊みたいにみえる。

 

 旅人は建造物群にむかって歩き出したかと思うと、数歩も進まぬうちにまたしても停止した。

 むろん、自分の意志でそうしたのではない。

 気づけば、旅人は五人ばかりの男たちに取り囲まれていた。

 どの男たちも丈の長い上衣を身に着け、頭と顔には幾重にも布切れを巻いている。

 砂塵のなかで時おり閃く銀光は、彼らが手にした曲刀であった。

 

「ここにいったいなんの用だ?」


 旅人に問いかけた声は、意外なほど若々しかった。

 自らの言葉に合わせて進み出たのは、どうやら男たちの統率者リーダーらしい。

 

「答えろ。この場所になんの用があって来たのかと訊いているんだ」


 再三の問いかけにも、旅人は相変わらず黙然と立ち尽くしている。

 口が利けないのか。それとも、あえて無視しているのか。

 四方を囲む男たちは、しびれを切らしたように旅人へとにじり寄っていく。


「……水を分けてもらえないか」


 旅人がはじめて言葉を発した。

 男たちの統率者と同じか、それ以上に若い声であった。

 どうやらまだ少年であるらしい。


 およそ敵意の感じられない言葉を耳にしても、男たちはいっかな警戒を解こうとはしない。

 旅人と男たちのあいだをひりつくような緊張感が満たしていく。

 統率者は曲刀の柄に手をかけたまま、ふたたび問うた。

 

「お前、この砂漠を渡ろうとしているのか?」

「そのつもりだ」

「渡って、どこへ行こうとしていた?」

「それは――」

 

 旅人は言いよどむ。


「言えないだろうな。この先にはなにもない。砂漠のむこうには、人間の住めない岩山がどこまでも続いているだけだ」

「……」

「下手な言い訳はしないことだな。お前はを探してたんだろう?」


 言い終わるが早いか、統率者は曲刀を旅人に突きつける。


「誰の手も借りず、一人でここまで来た根性は褒めてやる。砂漠で野垂れ死んだほうがマシだったかもしれんがな」

「どちらにしても助かる見込みはないとでも言いたげだな」

「さあな――じきに分かるさ」


 統率者は曲刀を構えながら、ほかの男たちにもう一方の掌を突き出す。

 余計な手出しは無用だと身振りで示しているのだ。

 大勢でたった一人の敵に襲いかかることをよしとしない戦士の矜持ゆえか。

 あるいは、仲間の加勢はかえって足手まといになると判断したのか。

 どちらにせよ、旅人の進退はいよいよ窮まろうとしている。

 

「俺の名前はバロマ。お前も名乗るがいい。のまま死にたいなら別だがな」


 わずかな沈黙のあと、旅人はぽつりと呟いた。


「――アレクシオス」


***


 元老院から騎士庁ストラテギオンに極秘の指令が下ったのは、いまから一週間ほど前のことだった。

 指令の内容はごく簡潔なものだ。


――南方軍管区より逃亡した戎装騎士ストラティオテスを追撃し、これをせよ。

 

 くだんの騎士は、半年ほど前に駐屯していた兵営から忽然と姿を消し、そのまま行方知れずとなっていたのである。

 程度の差こそあれ、騎士の戦闘力は、一騎あたり一個軍団の兵士に相当すると考えられている。

 それが野に放たれたとなれば、『帝国』にとってはゆゆしき問題である。

 かりに反『帝国』勢力と結託した場合には、最悪の事態を想定しなければならない。かつてヘラクレイオスらがゼーロータイに与したようなことが二度と起こらないとは、誰にも断言出来ないのだ。


 そうは言っても、『帝国』としても貴重な戎装騎士をいたずらに失うことは本意ではない。

 なにしろ、騎士は一度失われれば二度と補充がきかないのである。

 この数年のあいだに有力な騎士を相次いで失っている『帝国』としては、これ以上の損失はおよそ容認出来るものではない。

 出来るかぎり穏便な手段で連れ戻し、ふたたび戦力として復帰させたい……。

 騎士庁に与えた指令書に脱走した騎士の殺害が明記されていないのは、元老院のそうした思惑によるものだ。


 上層部の勝手な都合は、往々にして現場に押し付けられるものと相場は決まっている。

 はたして、騎士庁の責任者であるヴィサリオンと、騎士たちのまとめ役であるアレクシオスは、討伐に差し向ける人選に苦慮することになった。

 たった一騎を連れ戻すためだけに、帝都に駐留しているすべての騎士を動員する訳にはいかない。

 エルゼリウスの謀反未遂事件からまだ日も浅いということもある。不測の事態を考慮するなら、帝都にいる騎士は一人でも多いほうがいい。

 そうした事情を勘案すれば、任務に振り向けることが出来る騎士は、せいぜい一人か二人が限度だった。

  

 まずオルフェウスは論外だ。

 いかに最強の騎士とはいえ、単独行動にはまるで不向きである。極力殺さずに連れ戻すという任務の性質を考えても、まっさきに候補から外れたのは当然だった。

 ラケルとレヴィも同様の理由で除外。

 エウフロシュネーはいったんは白羽の矢が立ったものの、長距離飛行能力をもつ貴重な騎士ということもあり、最終的に起用は見送られた。

 レオンは罪には問われなかったとはいえ、いまだ中の身であり、帝都を離れることは出来ない。

 なお、イセリアは最初から候補にすら挙がらなかった。理由はあえて述べるまでもないだろう。


「もういい――おれが行く。それが一番手っ取り早い」


 けっきょく、脱走した騎士を連れ戻す任務には、アレクシオスが一人だけで赴くことになったのだった。

 単純な攻撃力はけっして高くないアレクシオスだが、今回に限ってはそれも好都合だった。

 傷つけない程度に相手の動きを封じるのであれば、他のどの騎士よりも上手くやってみせる自信もある。


 自分以外にまともに交渉が出来る騎士がいないことを心底から苦々しく思いながら、アレクシオスはヴィサリオンに見送られて、南方辺境へと旅立ったのだった。


***


「バロマと言ったな。おまえは丸腰の相手を斬るのか」


 アレクシオスに面と向かって揶揄されても、バロマは一向に取り合おうとしない。

 嘲笑うように、ふんと鼻を鳴らしただけだ。


「俺たちの村を見られた以上、生かしておく訳にはいかない。それに……」

「それに、なんだ?」

「たとえここで見逃してやったとしても、どのみち生きて砂漠を出ることは出来ない」


 バロマは曲刀を目線の高さに掲げる。


「そういうことだ。悪く思うなよ、アレクシオス――」


 刹那、赤い砂塵が真一文字に裂けた。

 するどい斬撃が大気を断ち割り、砂の粒子を弾き飛ばしたのだ。

 にぶい輝きを帯びた銀刃は、アレクシオスの咽喉のどをあやまたず捉えている。

 迷いのない踏み込みといい、よほど剣術に通暁していなければまず不可能な芸当だ。

 バロマの繰り出した斬撃は、布の抵抗をものともせず、一刀のもとにアレクシオスの首を刎ねるはずであった。


「……!!」


 転瞬、バロマは言葉にならない驚嘆の声を漏らしていた。

 横薙ぎの一閃はむなしく砂塵を払い、掌には何の手応えもない。

 それどころか、ほんの一瞬前までたしかに目の前にいたはずのアレクシオスは、まるで幻みたいに消え失せている。


「上か!?」


 バロマが叫んだときには、もう遅い。

 大地を蹴って高々と跳躍したアレクシオスは、引力に身を任せながら、バロマの右手にしたたかな蹴撃を放っていた。

 肘を打たれたことで前腕の神経が麻痺したバロマは、自分の意志とは無関係に曲刀を取り落としていた。

 とっさに得物を拾おうと伸ばした手首を、アレクシオスは容赦なく踏みつける。


 信じがたい光景にどよもしたのは、戦いを周囲で見守っていた男たちだった。

 

「バロマさん!! いま助けに……」

「よせ!! 近づくんじゃない!!」

 

 バロマはとっさに駆け寄ろうとした仲間に叱声を飛ばす。

 もはや勝負は決した。

 にもかかわらず、バロマはなおもアレクシオスを睨めつけている。

 幾重にも巻かれた布切れに隠された瞳には、憎悪の炎が暗々と揺らいでいる。


「俺を殺すつもりか?」

「いや――」

「それなら、どうするつもりだ!?」

「おれの望みはさっき話したとおりだ。すこし水を分けてほしい。出来れば、この砂嵐が熄むまで、あの建物の中で休ませてくれるとありがたいが」


 それきり、周囲に鉛のような沈黙が降りた。

 咳きひとつない静寂のなかで、砂漠を渡る風の音だけがやけに喧しい。

 やがて口を開いたのはバロマだった。


「本当にそれだけか……?」

「なぜそうまで疑う? いきなりおれを殺そうとしたことといい、なにをそんなに恐れている?」

「恐れてなどいない!! 外の世界の連中の言うことなど信用出来ないというだけだ……!!」


 バロマはアレクシオスを見据え、声のかぎりに叫んだ。

 統率者の一喝に背中を押されたのか、男たちも我に返ったみたいにそれぞれ曲刀を構える。

 アレクシオスは彼らを一瞥すると、軽く手首を回す。その挙措は、いつでも相手になるという意思表示だ。


 涼風のような声が響いたのは、まさに戦いの幕が上がろうという瞬間だった。


「そこまでにしなさい、バロマ。それに、ほかのみんなもよ」


 全員の視線が一点に注がれる。

 いつからそこにいたのか、アレクシオスと男たちからすこし離れた砂の上に立つのは、一人の少女だった。

 齢はまだ十六、七歳といったところ。

 赤い砂塵に霞んだ世界にあって、輝くような藤色ラベンダーの髪と、楚々とした佇まいは水際立っている。

 少女は数歩進み出ると、アレクシオスにむかって頭を下げる。


「さっきから話を聞いていても、あなたの言葉に嘘は感じられなかった。……許してもらえるかどうか分からないけど、あたしからも謝らせてほしいの」

「あんたがこの連中の元締めか?」


 直截な問いに、少女はゆるゆると頭を振る。


「あたしはセイレーン。この人たちとこの村で暮らしているだけよ」


 アレクシオスは答えず、ただ少女に黒瞳を向けるだけだった。

 セイレーン。

 その名前を聞くのは、これが初めてではない。

 それは、アレクシオスがはるばる砂漠を越え、ここまで追ってきた標的――南方軍管区から脱走した戎装騎士の名前にほかならなかった。

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