第203話 死者の村
無造作に卓上に置かれた素焼きの
杯を半ばまで満たしているのは、ひどく濁った赤褐色の液体だ。
錆びた釘が浸ったまま何年も放置された汚水のようなそれは、けっして嫌がらせで出されたものではない。
土壌に含有される過剰な鉄分が地下深くにまで浸透したこの土地では、ごくわずかに湧き出る井戸水も、不気味な赤色に染まっているのだった。
「旦那さま、ご所望のものをお持ちしました」
バロマは皮肉っぽく言って、くっくと嗤笑する。
「言っておくが、ここでは水はこれしかない。嫌なら無理に飲まなくてもいいんだぜ」
「いや……せっかく用意してくれのなら、ありがたくいただこう」
「すぐに吐き出すのが関の山さ」
バロマが言い終わるが早いか、アレクシオスは杯を口に運んでいた。
黒髪の少年は、躊躇うことなく液体を飲み下していく。
もともとたいした量は入っていなかったということもあり、杯はあっという間に
バロマはしばらく感心したように見つめていたが、やがてわざとらしく咳払いをしてみせる。
「余所者にしちゃ大したもんだ。だが、それで今日の分は終わりだ。ここではそう決まってる」
「一日にたったこれだけで足りるのか?」
「ここの井戸はすぐに涸れちまうからな。汲めるほど滲み出すには、次の日まで待たなけりゃならん」
バロマはぶっきらぼうに言うと、さっさと杯を取り上げていた。
「……セイレーンがああ言わなければ、お前なんか助けなかったさ」
あの後――。
アレクシオスはセイレーンに導かれるまま、村へと入っていった。
バロマを始めとする男たちはなおも腑に落ちない様子だったが、少女の決定は、彼らの不満を押さえ込むほどの力を持っているらしい。
そうして建物のひとつに通されたアレクシオスに、バロマは不承不承にもてなしを用意したのだった。
「砂嵐が熄んだら、さっさと出ていくんだな。ここはお前のような奴がいていい場所じゃない」
「どういうことだ?」
「こういうことさ」
バロマは顔を覆っていた布切れに手をかけると、一気に取り払った。
若々しい声の印象を裏切らず、年齢はまだ二十歳を超えたかどうか。
東方人のなかでも南方に住む民族らしく、浅黒く精悍な面立ちの青年であった。
「
しばらく無言でその顔を見つめたあと、アレクシオスはぽつりと呟いていた。
バロマの顎先から右耳にかけての皮膚は、絵の具を塗ったみたいに白茶けた色に変じている。
それだけではない。表皮は鱗のようにひび割れ、ところどころめくれあがってさえいる。
痛々しい裂け目から覗くのは、石のように硬化した真皮だった。
「知ってるのか?」
「……聞いたことはあるが、実際に見るのは初めてだ」
「気味が悪いと思うのなら、素直にそう言ってくれてかまないんだぜ。こっちは慣れてるからな。へたに取り繕われるよりはよっぽど気分がいい」
バロマは自嘲するように言って、ふたたび布切れを顔に巻きつけた。
***
石膚病は、南方辺境に特有の風土病である。
この病気に関する最古の記録は、いまから千四百年あまり以前にさかのぼる。
かつて大陸南方に君臨した帝王は、この病によって何年ものあいだ苦しみぬいたすえに、天を仰いだまま息絶えたという。
他に類を見ない独特な症状から、古帝国時代には石像病とも呼ばれていた。
この病気の最大の特徴は、全身の細胞が線維化していくところにある。
すっかり乾燥して弾性を失い、硬化した皮膚がまるで石のように見えることから、石膚病と名付けられたのである。
個人差はあるものの、線維化はすこしずつ進行し、やがて臓器や脳組織にまで到達する。
そのあいだに患者はさまざまな合併症や多臓器不全を来し、発病してから遅くとも十五年ほどで死に至る。
いまのところ有効な治療法は発見されておらず、さらには症状の進行を緩和する薬も存在しないことから、おそるべき不治の病として南方辺境の人々に恐れられている。
人口十万人あたりの患者数は一、二人程度と、発症頻度はそれほど高くない。
それでも、年齢も性別も関係なく、さらには西方人だろうと東方人だろうと無関係に発症することから、南方辺境では”死神は選り好みをしない”という
治療法はおろか、予防する手立てもなく、原因さえも定かではない致死性の病。
人間は、理不尽としか言いようのない現象にも、納得のいく道理をこじつけずにはいられない。
未知の事象は、それだけで人の心に計り知れない恐怖を惹起するのだ。
――石膚病は、前世で働いた悪行の報いだ。
誰が言い出したのか、なにひとつ根拠のない迷信は、いまや人々に広く信じられるに至っている。
原因不明の病をそのように説明することで、人は不安を和らげようとしたのである。
それは同時に、難病に苦しむ者にかけられたもうひとつの呪いでもあった。
***
「おい、この村の名前を知ってるか?」
「いや……」
「死者の村ってんだ。なかなか気が利いてるだろ」
バロマはからからと笑って、わざとらしく肩をすくめる。
道化じみた所作には、しかし、やり場のない悲しみと怒りが滲んでいた。
アレクシオスは何も言わず、卓上で指を組んだまま微動だにしない。
彼らにかける言葉を持たない以上、沈黙が最善の選択であった。
「石膚病に罹った人間は、もともと住んでた場所にはいられなくなるんだよ。周りの人間に追い出されることもあれば、自分の意志で出ていくこともある。そんな連中が自然に集まって出来たのがこの村さ」
「こんな場所で生きていけるのか?」
「地下に大昔の井戸がある。作物は育たないが、日陰に生える
言いつつ、バロマはアレクシオスに背中を向けていた。
「これで分かっただろう。ここにあまり長居をすると、あんたにも病気が移るかもしれんぜ」
「おれの心配なら無用だ」
「やけに自信満々に言い切るんだな――」
ふいに奥の扉が開いた。
アレクシオスとバロマの視線が同じ方向に集束する。
はたして、扉をくぐって現れたのは、
はげしい砂嵐のなかでも目を引いた端正な容姿は、室内ではいっそうまばゆく
溌溂とした佇まいと、星を宿したようなつぶらな瞳は、死の村にはおよそ似つかわしくないものだ。
「お邪魔だった?」
セイレーンに問われて、バロマはばつが悪そうにうつむく。
「いや……俺はもう出ていこうと思っていたところだ」
「それなら、今度はあたしが話してもいい?」
「そいつは余所者だ。二人きりにはならんほうがいい。もしあんたになにかあったら、みんな悲しむ……」
言い終わらぬうちに、バロマは膝を折った。
左胸に手を当てたまま、青年は早く浅い呼吸を繰り返している。
医術の心得がないアレクシオスにも、なんらかの発作を起こしたことはひと目で分かる。
「おい、大丈夫か?」
「うるさい、俺に構うな……!! このくらい、たいしたことはない……!!」
「しかし――」
室内にあえかな音色が流れはじめたのはそのときだった。
セイレーンはやおら前に進み出ると、朗々と詠い出したのだ。
美しく澄んだ歌声であった。
神韻縹渺たる音律は、
その歌声が人間の可聴域をはるかに超えた音域を含んでいることに気づいたのは、
聴く者の心を蕩かすような歌声には、いかなる効力が宿っているのか。
苦しげだったバロマの呼吸は次第に落ち着き、いまやほとんど正常に戻ろうとしている。
「すまん……また世話になった……」
バロマはそれだけ言うと、ようやっと人心地がついたように深く息を吸い込んだ。
「どういたしまして――無理しすぎたのね。ここはあたしにまかせて、すこし休んだほうがいい」
「さっきも言ったが、そいつには……」
「分かってる。だけど、この人は大丈夫」
奥の扉へとバロマを送ったあと、セイレーンはアレクシオスに向き直る。
整った面上に浮かんだのは、年頃の少女らしい快活な笑みだった。
「ごめんなさい。驚かせちゃったかな」
「いや……みごとだった」
「あたしに出来るのはこのくらいだから。あの人たちの痛みや苦しみをほんの
ほんの一瞬、セイレーンの顔をよぎった悲しげな表情を、アレクシオスは見逃さなかった。
「ね、あなた、本当に砂漠を越えようとしていたの?」
「そのつもりだった」
「だった?」
「引き返そうと思う。このさきになにもないのなら、これ以上旅を続けても仕方がないからな」
アレクシオスの答えが意外だったらしく、セイレーンは目を丸くした。
よほど笑壺に入ったのか、少女は肩を小刻み震わせている。
「変わった人。あたしもそれがいいと思うわ。ただ、ひとつだけお願いがあるの」
「なんだ?」
「無事に帰れても、この場所のことはだれにも言わないで」
「外の人間に知られたら不都合でもあるのか?」
「前にいろいろと……ね。ここの人たちのことは、そっとしておいてあげてほしい」
セイレーンの切実な言葉に、アレクシオスはこくりと頷く。
心底から安堵したのか、少女は花のような
「あと三日もすれば砂嵐も熄むはずよ。なにもないところだけど、それまでゆっくりしていって」
出ていこうとしたセイレーンの背中にむかって、アレクシオスは努めて坦々とした声で問いを投げた。
「君は病気には見えないが、なぜこの村に?」
「悪いことをしてしまったから……」
「罪を犯したということか?」
「そう。だから、ずっとあちこちを逃げ回ってた。逃げて逃げて、ここに辿り着いたってわけ」
セイレーンの声に陰惨な響きは欠片も感じられない。
押し黙ったままのアレクシオスにむかって、少女ははにかみながら告げたのだった。
「あたし、人間の世界にいちゃいけないの――」
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