第204話 懺歌蕭々
二日が過ぎても、砂嵐は一向に熄む気配を見せなかった。
赤い砂は紗幕のように天地を覆い尽くし、かすかな日差しだけが昼夜の弁別を可能たらしめている。
物置のような小部屋をあてがわれたアレクシオスは、壁に背中をもたせかかったまま、何をするでもなく天井を見つめている。
寂然と静まりかえった室内を流れるのは、さらさらと砂が壁を叩く音だけだ。
日干し煉瓦を積み上げて作られた建物は意外に頑丈で、室内への砂の侵入はほとんどない。
いったい誰がこの村の家々を作ったのかとバロマに尋ねてみたが、彼も詳しいことは知らないということだった。
ただ、
――もう千年以上も昔、このあたりには東方人の国があったらしい。たぶんその時代の遺跡だろうな。
それだけ言って、なぜそんなことが気になるのか解せないという風に肩をすくめてみせてだけだ。
と、ふいに扉が開いた。
わずかに顔を上げたアレクシオスの視界に飛び込んできたのは、はたして、浅黒い肌の若者だった。
もう隠す必要もないと判断したのか、いつも顔と首に巻いていた布は見当たらない。
「……今日の分の水だ」
つっけんどんに言って、バロマは
杯を半ばまで満たすのは、やはりと言うべきか、赤錆色に染まった濁水だった。
バロマはちらとアレクシオスを一瞥すると、心底から忌々しげに呟いた。
「おい、いつまでここにいるつもりだ」
「砂嵐が熄むまではここにいてもかまわないという話だからな。お言葉に甘えさせてもらっている」
「セイレーンのお人好しにも困ったものだ。余所者がいると、水だって余分に――」
「せっかく持ってきてくれたところすまないが、その水は他の奴にやってくれ。おれのことなら心配ない」
アレクシオスの言葉に、バロマは動揺を隠せないようだった。
昨日もアレクシオスは掌に数滴の水を垂らしただけで、杯を手つかずのままバロマに返したのだった。
舞い上がった砂塵によって直射日光が遮られ、日中でも気温はさほど高くないとはいえ、ひどく乾燥した環境であることに変わりはない。
人間であれば、じっとしているだけでも喉が渇いて仕方がないはずであった。
どれほど屈強な男であっても、二日もろくに水を飲まずにいられる道理はない。飢餓には慣れることが出来ても、水なしで生きていける人間などどこにもいないのだから。
バロマが狼狽した理由は、しかし、それだけではなかった。
「どうかしたのか?」
「べつになんでもない。ただ……」
「ただ?」
「セイレーンも水をほとんど飲まないんだ。いつも他人に分け与えて、自分はほんのすこしだけでいいと言う。水だけじゃない。食事だってめったに……」
アレクシオスは何も言わず、じっとバロマの言葉に耳を傾けている。
自然界に存在する放射線や自由電子、さまざまな波長の光を体内に取り込むことで、半永久的に稼働することが出来るためだ。
セイレーンも騎士である以上、みずからの体内で
騎士はみずからの意志で摂食を望まないかぎり、たとえ何年も飲まず食わずであろうと活動に支障をきたすことはない。
アレクシオスにしても、砂漠を旅するあいだ、一滴の水すら口にしていないのである。
「なあ、あんた……もしかしてセイレーンとなにか関係があるのか? あの娘のことをなにか知っているのか?」
「その言い方、おなじ村に住んでいるのになにも知らないみたいだな」
「それは――」
アレクシオスに問い返されて、バロマは言いよどむ。
重い沈黙のなかで、二人はお互いの腹を探りあっているようでもあった。
やがて、訥々と言葉を紡ぎはじめたのはバロマだった。
「そうさ。俺たちはあの娘のことをなにも知らない」
「……」
「もう
「おれと同じように殺そうとしたのか?」
「女相手にそんなことはしない――そのとき、ちょうどひどい発作に襲われてな。死にかかっていた俺を見て、あの娘はだしぬけに歌いはじめたんだ。するとどうだ、どんな薬草も
バロマは遠い昔を懐かしむように言って、ふっと息を吐いた。
死病を患う人間にとって、一日を生き延びるのはたやすいことではない。
二ヶ月前の出来事は、常人にとっての数十年前にも等しいだろう。
「それから、セイレーンは俺たちと一緒にこの村で暮らすようになったのさ」
「おまえたちを助けるためにここに留まったと?」
「さあな。ただ、あの娘の歌は
バロマの声は、語るほどに熱を帯びていった。
言葉に尽くせない悲しみと、世間への恨みと怒りが綯い交ぜになった声色は、ほとんど涙声に近づいている。
石膚病は、病に罹った当人だけでなく、その家族までもが白眼視される。
肉親に患者がいるというだけで、結婚や就労はむろん、まともに買い物さえ出来なくなるほどであった。
迫害と偏見を免れる唯一の手立ては、患者の存在を抹消することだけだ。
たとえそれが愛する妻や夫、あるいは幼い我が子であったとしても、家族全員の今後の人生と生活を守るために、心を鬼にして共同体から追放するのが常なのだ。
あてどなく放浪しようにも、患者は村や町に足を踏み入れることさえ許されない。
死者の村は、そんな彼らが存在することを許される唯一の場所だった。
砂漠を渡る過酷な旅路そのものが、彼らを死に追いやる儀式であることは、あえて言うまでもない。
そうして運よく目的地に辿り着いたわずかな者は、苦痛と渇きのなかで最後の時を迎えるのだった。
「だが、あの歌も病気を治してくれる訳ではないのだろう」
「そんなことは百も承知だ。セイレーンが歌ってくれるかぎり、苦しまずに死ぬことが出来る。それだけでも、俺たちには十分すぎるほどさ」
バロマは吐き捨てるように言って、アレクシオスに背を向けた。
「日が沈んだら、大広間に連れて行ってやる。見せたいものがあるんだ」
***
夕刻、アレクシオスはバロマに連れられて大広間へと足を向けた。
大広間と言うだけあって、かなり広い空間である。
壁の一面には、古代の東方文字が彫り込まれた扁額が掲げられている。
いにしえの時代には東方人のあいだで広く用いられていたという複雑精妙な文字体系は、いまとなっては使う人間も絶えて久しい。
奇怪な記号の羅列が、かつてこの場所に存在した国の名前を表していることは、むろんアレクシオスにとっては知るよしもないことであった。
少年騎士の関心は扁額とそこに記された文字ではなく、その下で車座になっている人々へと向けられている。
十五人ほどの集団であった。
雑多――。
彼らを形容するなら、その言葉がもっともふさわしいだろう。
男女比はちょうど半々。
若者もいれば、年かさの者もいる。
ほとんどは東方人だが、西方人らしい顔も見える。
ともすれば、まったく無作為に寄せ集められたようにも見える人の群れ。
全員に共通しているのは、身体のどこかしらに石膚病の症状が表れているということだ。
細胞組織の繊維化が進行し、枯木のように乾ききった皮膚は、いかなる治療を施してもふたたび健康な状態に戻ることはない。
傍目にも痛々しいその姿は、彼らが歩んできた苦難の人生の象徴でもあった。
「バロマ、あの人たちはいったいなにを……」
「すぐに分かるさ」
バロマはアレクシオスにそこで見ているように言いおいて、車座に加わる。
アレクシオスはバロマの背中を追ううちに、ようやく人の輪の中心に横たわっているものに気づいた。
ひとりの少女であった。
あどけなさを残す顔つきから察するに、まだ十四、五歳といったところだろう。
胸元から喉にかけての皮膚は石のような色に変わり果てている。
病巣はすでに内臓にまで達しているのか、少女は苦しげに浅く早い呼吸を繰り返す。
若い生命に終わりが訪れようとしていることは、遠目にもあきらかだった。
人々の視線が一点に集束したのはそのときだった。
セイレーンが音もなく大広間に入ってきたのだ。
一見すると平素と変わらない楚々とした足取りには、どこか聖職者のような荘厳さが宿っている。
車座になっていた人々は、セイレーンの通行を妨げまいと進んで道を開ける。
やがて、セイレーンは横たわった少女の傍らで足を止めた。
苦しみ喘いでいた少女もセイレーンの存在に気づいたのか、やつれきった顔に精いっぱいの微笑みを浮かべる。
セイレーンは痩せきった手を取ると、
「大丈夫……よく頑張ったね。もうなにも心配しなくていいの」
慈しみに満ちた声でそう告げたのだった。
次の刹那、セイレーンの唇から妙なる音色が流れ出した。
人間の耳には、どこまでも美しく澄み渡った歌声だけが聞こえただろう。
誰もが目を細め、陶然と耳を傾けているのがなによりの証だ。
その裏に秘められたもうひとつの音色に気づいたのは、騎士であるアレクシオスただひとりだけだった。
人間の可聴域をはるかに超えた超音波。
高度の指向性を持った音の波長は、次第に細い針のように集束し、少女の胸へと吸い込まれていく。
「やめろ――‼」
セイレーンの歌が少女の心音に同期したことを理解して、アレクシオスはおもわず叫んでいた。
場違いな制止の声は、しかし、人々のどよめきにかき消された。
彼らが見守るなかで、少女がついに息絶えたのだ。
それも、ただ絶命しただけではない。
病を発してからというもの、ひたすら辛酸だけを舐めてきた少女の幸薄い面貌は、これ以上ないほどの幸福と充足に彩られていた。
不治の病を患わなければ得られたはずの一生分の幸せをいっときに得たような、それは誰もが羨むような笑顔だった。
「ありがとう……」
人々のあいだから一歩進み出て、セイレーンに頭を下げたのはバロマだ。
「セイレーン、仲間を代表して礼を言わせてほしい」
「私はなにも……ただ、心細くないようにそばで歌ってあげただけよ」
「あんたの歌がなければ、きっと最後まで苦しみ抜いて死んだだろう。あの子も感謝しているはずだ――」
バロマと言葉を交わしながら、セイレーンはちらとアレクシオスを見やる。
自分に向けられたただならぬ視線に気づいたためだ。
少年の黒い瞳を染めたのは、まごうかたなき怒りの色だった。
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