第205話 消えない傷痕

 さやけき星明りが赤い砂漠に降り注いでいた。

 数日のあいだ天地を閉ざしていた砂嵐はいつのまにか熄み、おだやかな風がゆるゆると流れている。

 砂塵が晴れた世界に広がるのは、やはりどこまでも赤く染め上げられた荒涼たる大地であった。


 セイレーンが村外れに向かったのは、すっかり夜も更けたころだった。

 周囲を見渡せば、風に削られた奇岩がそこかしこに横たわっている。

 セイレーンは、そのなかでもひときわ大きなひとつに近づくと、軽やかに地を蹴った。

 刹那、少女の身体は高々と舞い上がり、巨岩の頂上へと所を移していた。

 人間の身体能力をはるかに超えた跳躍力。

 戎装騎士ストラティオテスでなければ、およそ不可能な芸当であった。

 藤色ラベンダーの長い髪が風に吹き流れる。

 風に乗って涼やかな歌声が流れはじめた。

 セイレーンが歌いだしたのだ。

 

 ひととせ星が巡るとき いとしい影を見送って――

 ふたとせ星が巡るとき いつかの帰りを待ちわびて――

 みつとせ星が巡るとき 風の便りも絶え果てて――


 それは、遠方に旅立った男を想う女の歌。

 一年かけて夜空の星が巡るのを数えながら、女は男の帰りを待ち続ける。

 やがてすっかり髪も白くなり、ついには男の顔さえ忘れても、女は星を見上げては、二度とは戻らない昔をなつかしむ。

 東方人のあいだで古くから歌い継がれている悲恋の歌でもあった。


「懐かしい歌だ――――」


 ふいに背後から声をかけられても、セイレーンは振り返らなかった。

 ただ、ぽつりと問いかけただけだ。


「知っているの?」

「ああ。北方辺境で戎狄バルバロイと戦っていたころ、兵士たちが歌っていたのを毎日のように聞いていたからな」


 アレクシオスは奇岩のひとつに背をもたせかかりながら、セイレーンを見上げている。

 どちらも口を閉ざしたまま、もの寂しい風の音だけが砂漠を渡っていく。

 ややあって、口を開いたのはセイレーンだった。

 

「あなた、ただの人間じゃないわね」

「いつから気づいていた?」

「最初からそんな気がしてた。あたしの思い過ごしだったらよかったんだけど」


 セイレーンの麗しい声色には、どこか寂しげな響きがある。


「おれも君と同じ戎装騎士ストラティオテスだ」

「それで、あたしを連れ戻すためにわざわざここまで?」

「いまなら処罰は軽く済む。おれと一緒に戻るんだ」


 アレクシオスを見下ろすセイレーンの顔に浮かんだのは、悲しげな微笑だった。


「悪いけど、それは出来ない」

「病人たちを放っておけないのか?」

「ええ。みんなあたしを必要としてくれてる」

「君はあの女の子を殺した。人間に危害を加える騎士を捨て置くことは出来ない」


 アレクシオスはあくまで坦々と言葉を継いでいく。

 セイレーンは瞼を閉じたまま、ふっと長いため息をついた。


「私がなにもしなくても、あの子は助からなかったわ」

「だからといって、生命を奪っていい理由にはならない」

「アレクシオスは、最後まで苦しませるべきだったと思うの?」

 

 アレクシオスは、セイレーンの問いかけには答えなかった。

 それはいま考えるべきことではない。

 騎士としてのアレクシオスの使命は、あくまで目の前の少女を連れ戻すことなのだから。


「おれたちは『帝国』と皇帝陛下に忠誠を誓う騎士だ。身勝手な判断で、人間の生き死にに関わるべきじゃない」

「どこにいても、あたしの歌が人を殺すことに変わりはないわ。命令があってもなくてもおなじ……」

「どういう意味だ――」


 驚きを隠せない様子のアレクシオスに、セイレーンはぽつりぽつりと語り始める。


「ゼーロータイの反乱のとき、あたしがいた駐屯地の近くでも東方人の暴動が起こったの。街はめちゃくちゃになって、とても辺境軍の手には負えないほとだった」

「……」

「司令官は、あたしに暴徒を鎮圧するように命じたわ。歌を聞かせて、落ち着かせるだけでいいと、たしかにそう言った。それなのに――」


 セイレーンはそこでいったん言葉を切る。

 わざとそうしたのではない。

 巨大な塊が胸につかえているみたいに、話そうにも言葉が喉を出ていこうとしないのだ。

 わずかな沈黙のあと、セイレーンは意を決したように続きを話しはじめた。


「……司令官は、あたしの歌を聞いて動けなくなくなった人たちを攻撃するよう部下たちに命じたの。その後なにが起こったかは、くわしく説明するまでもないでしょう」

「君が南方軍管区から脱走したのは、その事件が原因で……」

「ねえ、アレクシオス。あたしは人間が好きよ。人間が作った歌もね。だから、あたしは人間の世界にいちゃいけないの」


 落ち着いた声とは裏腹に、セイレーンの両目からは止めどもなく涙が溢れ出している。

 あくまで上官の命令を忠実に守っただけであり、さらに言えば、実際に彼女が手を汚した訳でもない。

 それでも、許されざる罪を犯したという事実は、セイレーンの心をいまなお責め苛んでいる。

 人間を愛し、人間とともに生きることを心から望むがゆえに、その苦悩もひとかたならぬものとなっているのは皮肉であった。


 アレクシオスは、じっとその場に立ち尽くしたまま、血がにじむほどに強く唇を噛んでいた。

 セイレーンの気持ちは、痛いほどに分かる。

 出来ることなら、このまま誰にも知られることなくそっとしておいてやりたい。

 しかし――と、アレクシオスは眦を決して向き直る。

 

「そうだとしても、このままここにいていい理由にはならない」

「あたしが歌えば、石膚病の苦しみをやわらげることが出来る。どこにいても人を傷つけることになるのなら、あの人たちのそばにいてあげたい……」

「彼らもだ。こんな場所に追いやられて、ただ死ぬのを待っているなど、見過ごせるわけがない」

「だったら、あなたはあの人たちを助けてあげられるの? アレクシオス」

「それは――」


 セイレーンに反門され、アレクシオスは返答に窮する。

 いったん発病してしまえば、石膚病を治療する方法はない。

 完治させることはおろか、対症療法すら存在しないありさまなのだ。

 それが南方辺境において不治の病と恐れられる所以であり、患者は絶望とともに余生を過ごすことを余儀なくされるのである。

 そこに世間からの偏見と誹謗、そして苛烈な迫害が加わったなら、荒れ果てた砂漠の村さえも楽園に感じられるだろう。

 いかに超常の力を持つ騎士といえども、病に対してはあまりにも無力だった。

 それはアレクシオスだけでなく、あくまで症状をやわらげるのが精いっぱいのセイレーンにしても同じことだ。


 すっかり打ちひしがれた様子のアレクシオスに、セイレーンは慈しむような視線を注ぐ。

 

「あなたは優しい人ね、アレクシオス」

「どうしても戻るつもりはないのか……?」

「もう決めたことよ。それでも連れ戻すというのなら、あたしにも用意がある。出来ればこれだけは避けたかったけど、仕方ないもの」


 言い終わるが早いか、セイレーンの姿は奇岩の頂上から消え失せていた。

 とっさに背後を振り返ったアレクシオスは、おもわず息を呑む。


 夜闇にうっすらと浮かび上がった輪郭は、少女のそれとはあきらかに様相を異にして

いた。

 あざやかな青紫色ブルーバイオレットに染まったその姿は、不毛の砂漠に咲いた奇跡の花を思わせた。

 ひときわ目を引くドレープ状の装甲は、たんなる装飾ではない。ひとたび衝撃が加われば、優雅な見た目からは想像もつかないほどの堅牢性を発揮するそれは、戎装騎士のなかでも珍しい複合積層装甲コンポジットアーマーであった。


 これこそがセイレーンの戎装騎士としての真の姿。

 それは同時に、拭いがたい罪の記憶とともに今日まで封印していた忌まわしい力の象徴でもある。

 いま、人の姿を捨て去った少女は、真っ向からアレクシオスと対峙したのだった。


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