第24話 屍群跳梁

 月のない夜だった。

 低くたれこめた雲がすっかりと月を隠している。

 時刻はすでに夜半をすぎようとしていた。

 濃厚な闇が充溢するなか、黒々とした大地に浮かび上がったのは一筋の光の道だ。

 帝都イストザントを南北に貫く目抜き通りの常夜灯であった。

 帝都は夜通し灯りの絶えない様子からしばしば不夜城とも呼ばれるが、その一方で光の恩恵に与るのは広大な市街地のごく一部にとどまるのも事実だった。

 主要な通りは日没からしばらくのあいだ街灯が燈されるが、それは人々が各々の家に帰るまでの道のりを一時照らすためのものにすぎない。

 夜が更けるにつれて街灯は消えていき、やがて市街の大部分は暗闇に閉ざされる。とくに城内の最北端にあたるスフェンダミ街区は帝都でも最も暗い一角だった。

 いわゆる貧民街でもあり、それゆえに他の街区にくらべても早々に消灯されるのが常だった。

 徴収出来る租税が少ない分、住民への福祉も相応の水準に留まる――というのが役人の言い分だ。

 いま、そんなスフェンダミ街区の裏路地を駆けていく人影がある。

 文目も分かたぬ闇のためか、影はときおり足をもつれさせながら、一心不乱に疾駆している。

 家々のあいだの暗がりにうっすらときゃしゃな姿形が浮かんだ。

 十五、六の娘であった。

 娘は姉夫婦と夕食を共にするため、隣の街区にあるかれらの住居まで出かけた帰りであった。

 うっかり長居をしすぎ、思いのほか帰宅が遅くなったのは誤算だった。

 家まで送ってゆくとの義兄の申し出を断ったことを、娘は今になって悔やんでいた。

 すでに街灯は消え、狭い路地には行き交う人の姿もない。

 沿道の家々は堅く鎧戸を閉ざし、街区はさながら無人の様相を呈している。

 娘は時折、なにかを確かめるように背後を振り返る。

 そこに人影はなく、ただ地面を規則的に叩く奇妙な音だけが近づいてくる。

 追われているのだ。

 何度振り返っても姿は見えない。

 だが、確実に存在する”何か”が、少しずつ背後から迫っているのはわかる。

 見えない追跡者から逃れるべく、娘はさらに細い路地に入る。

 そこでようやく足を止め、荒い息をつく。

 顔中から汗が滴り、石畳にぽつぽつと染みをつくる。

 痩せぎすの娘は、ここまでの全力疾走で体力をほとんど使い果たしていた。

 「逃げ切れた……?」

 娘はおそるおそる背後をふり返る。

 やはりと言うべきか、細い裏路地には無人の暗闇だけが横たわっている。

 得体の知れない追跡者を振り切ったという安心感から、娘はほっと胸をなでおろす。

 「――!!」

 娘の顔に一瞬浮かんだ安堵は、次の瞬間には真逆の色に塗り替わっていた。

 つい先ほどまで何もいなかったはずの空間に、なにやら蠢くものがある。

 それは人影のようにみえた。闇のため細部は黒く潰れているとはいえ、四肢を備えた輪郭は間違いなく人間のそれに符合する。

 だが――娘には、それが人間であるとは到底思えなかった。

 人影は手足を動かしながら、ゆっくりと娘のほうへ近づいてくる。

 歩行という、本来であれば至極単純なはずの一連の動作。

 娘が違和感を抱いたのは、それが自然な人体の挙動とはあまりにかけ離れていたからにほかならない。

 通常、人間は歩行にともなって生じる衝撃を無意識に逃がそうとする。体幹の最末端に位置する頭部を安定させるためだ。

 それをしなければ歩行のたびに頭部は激しく揺られ、数歩も進まぬうちに激しいめまいに襲われるにちがいない。

 いま迫りくる人影には、そんな人体の自然な挙動が一切認められなかった。

 歩を進めるたび地面から伝わる衝撃は一切緩和されることなく全身へと伝播し、それが身体を均等に揺さぶるような奇妙な挙動を生じさせている。頭部も激しく前後左右に動揺しているが、それでもなお歩行を止めようとしないのがいっそう不気味さを強調した。

 「こ……来ないで……!!」 

 娘は喉を震わせ、必死に声を絞り出す。

 そして、ふたたび走り出そうと、人影とは反対側の路地に目を向ける。

 真反対の暗がりのなかでも同様に蠢く人影を認めた瞬間、娘は声にならぬ悲鳴を漏らしていた。

 ここにおいて、娘はようやく進退窮まったことを悟った。

 狭い裏路地に入り込んだのは追跡を撒くためだったが、皮肉にもそれが自らの首を絞める結果になった。

 娘は助けを呼ぶべく、能うかぎりの大声を張り上げようとする。

 叫び声を上げれば、沿道の住民が飛び出してくるはずだ。運がよければ巡回中の衛兵が駆けつけてくれるかもしれない。

 だが、娘の渾身の絶叫が裏路地に響くことはなかった。

 ふたつの人影は意外なほど機敏な動きで距離を詰め、娘の口に掌で蓋をしたのだ。

 「ん……ぐ!」

 腐臭――

 人影の掌が放つ臭気は、それ以外に形容しようのないものだ。

 突如として口と鼻いっぱいに広がった激烈な悪臭に、娘は思わずえずきかける。

 「――殺すなよ。貴重なだ」

 人影の背後から声が沸いた。

 声に合わせたみたいに雲間からふいに月が覗いた。

 仄白い月光が差し込む。路地裏の闇がにわかに薄くなる。

 娘の眼に描き出された光景は、月明かりの下でいっそう悪夢じみた色彩を帯びたようであった。

 暗闇のなかでは人影としか認識できなかったが、光を浴びたそれはまさしく怪人と呼ぶべき奇怪な外貌を備えている。

 かれらの正体を、むろん娘は知る由もない。

 どちらも全身に黒く染まったぼろきれをまとい、顔面に走ったわずかな切れ目から右目だけが露出している。

 その右目も赤く濁りきり、とても正常な視力を維持しているとは思われなかった。

 二体の怪人の傍らには、先ほどの声の主が佇立している。

 ひょろ長い体躯に赤黒い長衣を引っ掛けたその姿は、怪人ほどではないにせよ、どこか人間離れした風情を漂わせている。

 とくに目を引くのはその顔だ。鳥を彷彿させる嘴を備えた奇怪な仮面にすっぽりと覆われ、外から表情を伺うことは出来ない。

 「おめでとう!」

 鳥面の男は娘の前に歩み出ると、まるで翼を広げるみたいに大きく両腕を広げてみせる。

 「な、なにを……」

 「君は選ばれたのだ! 私たちのもとで屍徒再生の栄光に浴することを誇り、また歓びたまえ!」

 呆然とする少女をよそに、鳥面の男は興奮ぎみにまくし立てる。

 「何も心配はいらない――君の執刀に当たるのは、この私ケイルルゴスなのだからね!」

 鳥面の男――ケイルルゴスは感極まったように言った。

 「この私の技量は……完璧だ! イアトロスごときに決して引けは取るものか! この私こそが師の後継者に相応しいことを、いま一度あの連中にも知らしめなければ――」

 一向に状況が飲み込めぬままぽろぽろと涙をこぼす娘には一瞥もくれず、ケイルルゴスは何かに憑かれたように熱弁を振るう。

 誰に向けたものでもない、それは文字通りの独演であった。

 やがて愚痴とも恨み言ともつかぬ与太話をひとしきり語り終えると、はたと我に返ったように二体の怪人を睨めつける。

 「何をしている? 屍徒ども、さっさとその娘を連れて行け!!」

 ややあって、二体の屍徒は娘を抱えて移動を開始した。

 と、数歩も行かぬうちに鈍い音が響いた。なんともいえぬ不快な音であった。

 せめてもの抵抗とばかりに、娘が屍徒の顔面を打ったのだ。

 哀れな娘のささやかな抵抗は、しかし予想外の結果を生じさせた。

 たおやかな拳は屍徒の顔面に深々とめり込み、左の眼窩を中心に顔面を大きく損壊させたのだ。

 おそらく拳は脳まで達しているだろう。

 指先が脳漿をかき回す感覚に、娘がちいさく悲鳴を漏らしたのも無理はない。

 むろん、娘の膂力が特別優れていた訳ではない。拳を打ち込まれた屍徒の顔面が、まるで熟れすぎた果実みたいにひとりでに崩れたのだった。

 当の屍徒はといえば、顔のほとんど半分ちかくを失ったというのに悲鳴ひとつ上げることなく、娘を抱えたまま歩き続けている。

 娘はもはや何も言わなかった。

 どうやら屍徒の腕に抱えられたまま失神したようであった。

 「なんだ、もう腐りかけているのか? 仕方のないやつめ。せめて今夜いっぱいは持てばいいが……」

 横目で顔の崩れた屍徒を見つつ、ケイルルゴスはちっと舌打ちをする。

 今夜の仕事はこれで終わりではない。

 少なくとも、あと三人――

 それは、ケイルルゴスが夜明けまでに捕らえねばならない人間の数だった。

 「見ていろ、イアトロス。私をこうして顎で使えるのも今のうちだけだ」

 怨嗟に満ちたつぶやきを一つ残して、ケイルルゴスは二体の屍徒を引き連れてふたたび夜の闇へと戻っていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る