第25話 来訪者

「……つかれた」

 聞こえよがしにため息をつきつつ、心底うんざりという風でイセリアが言った。

 作業机も兼ねた大振りなテーブルの上には途中で作業を放り出した書類が散らばっている。

 イセリアが詰め所を訪ねた明くる日。

 四人で仕事に取り掛かってから、二時間ほどが経過したころであった。

 「さっき始めたばかりだろう。まだ昼にもなっていないぞ」

 「疲れたものは疲れたの!」

 たしなめる、というよりはむしろ責めるような口調のアレクシオスに対して、イセリアも負けじと駄々をこねてみせる。

 「だいたい、なんであたしたちがこんな仕事しなくちゃいけないんだか」

 イセリアは山と積まれた未処理の文書の中から一枚をつまむと、ひらひらと揺らす。

 アレクシオスとヴィサリオン、オルフェウスの前にはすでに選別済みの文書が小さな山を形作っているが、イセリアはほとんど手付かずのままだった。

 「……とにかく、今は黙って仕事に集中しろ」

 「これが仕事? 冗談じゃないわ!」

 イセリアは手にした書類を指で弾き飛ばす。

 「あたしたちは騎士ストラティオテスでしょ。人間が何人束になっても勝てないくらい強いのよ。そのあたしたちに、こんなどうでもいい仕事させるなんてどうかしてると思わない?」

 「……」

 アレクシオスはそれ以上言葉を継げなかった。

 イセリアの言い分は、つい先日まで自分がヴィサリオンに訴えていたことでもある。

 自分が口にする分にはなんとも思わなかったことでも、他人の口を通して聞けば異なった感慨を抱くものだ。

 この場合は、むろん悪い意味でだが――。

 「まあまあ、そう言わずに……」

 ヴィサリオンがあくまで穏やかな口調で割って入る。

 「地味ですが、大事な仕事であることには変わりありません。やってみれば案外楽しいものですよ」

 イセリアは「はん」と鼻で笑う。

 この線の細い青年をみずからの上位者として認めていないことは明白だった。

 「また戎狄バルバロイが現れてくれないかしら? そうすれば、あたしたちだって戦場で思う存分活躍出来るものね」

 「……馬鹿なことを言うな」

 アレクシオスはあくまで感情を押し殺して言った。

 おそらくイセリア自身、不謹慎であると承知の上で言葉を弄んでいるのだ。

 怒りに任せて声を荒らげれば、かえって調子づかせることにもなりかねない。

 「なによ、アレクシオスだってそう思うでしょ? 戦いが終わったから、こんなくだらない仕事をする羽目になってるんじゃない」

 言って、イセリアはふいにアレクシオスから視線を外す。

 「それも仕方ないわね。どこかの誰かさんが調子に乗って戎狄を倒しまくってくれたおかげで、あたしたちの仕事もなくなっちゃったんだし――」

 視線を移した先では、オルフェウスが黙々と作業をつづけている。

 愚痴も言わず、さりとて世間話に興じるでもなく。

 ただ仕事が終わるまで黙然と手を動かし続けるのがこの少女の常だった。

 「イセリア! いい加減にしろ!」

 「べつにあの娘のことだなんて言ってないわ」

 我慢できず怒声を発したアレクシオスに、イセリアは待ってましたとばかりに嬉々として言葉を返す。

 「最強の騎士だかなんだか知らないけど、すまし顔でお高く止まってるのは気に入らないわね――誰とは言わないけど!」

 オルフェウスはやはり沈黙している。

 その様子がイセリアにはよほど気に障ったらしい。

 痺れを切らしたように紙片の端をちぎり、そのままくしゃくしゃと丸める。

 そうしてできた小指の先ほどの大きさの塊をつまむと、オルフェウスめがけて弾いたのだった。

 放物線を描いて飛んだ紙塊は、まるで吸い込まれるみたいにオルフェウスの頬に当たった。

 「聞こえてるんでしょ。返事くらいしたら? 有名人さん」

 オルフェウスはゆっくりと顔を上げ、イセリアに向き直る。

 「……私のこと?」

 「他に誰がいるのよ。ここまでやらないと気づかないとか、あんたちょっとニブいんじゃない?」

 イセリアの言葉は、もはや遠回しな揶揄や当てこすりといった次元には留まらない。

 それはあきらかな敵意に基づいた攻撃だった。

 ここに至って、アレクシオスとヴィサリオンもようやく理解した。

 先ほどからの不遜な言動の数々は、すべてオルフェウスを挑発するための布石だったのだ。

 「さっきから一人だけいい子ぶって仕事しちゃってさ。もしかして点数稼ぎしてるつもり?」

 「べつに――そんなつもり、ない」

 「とぼけんじゃないわよ。そうやっていかにも素直で従順なふりしようたって、あたしの目は誤魔化せないわ」

 イセリアは席を蹴立てて立ち上がると、猛然とオルフェウスに詰め寄る。

 ただならぬ事態を予感したアレクシオスとヴィサリオンも椅子を立とうとするが、イセリアはすかさず手をかざして二人を制止した。

 「あんただって本当はこんなことしたくないんでしょ? ほら、言ってみなさいよ。こんな退屈な仕事、私には相応しくない――ってさ!」

 言ってやった。

 口にこそ出さないが、イセリアは得意満面だった。

 昨日、オルフェウスとはじめて顔を合わせたとき、イセリアは気後れする自分自身をはっきりと自覚していた。

 先の戦役においてイセリアが討ち倒した戎狄の数は、ゆうに百を超える。

 それは騎士としてなんら恥じるところのない、堂々たる戦果だった。

 だが――最強の騎士の一人であるオルフェウスを前にしては、その程度の戦果はもはや自信の拠り所とはなりえない。

 人一倍負けん気の強いこの少女にとって、わずかでも自信が揺らいだのは耐えがたいことだった。

 ひとたびそのような感情に囚われてしまえば、イセリアの目にはオルフェウスのしずかな挙措のすべてが鼻持ちならない傲慢さの現れと映るのだった。

 もちろん、単純に自分より先に帝都に着任していたことが気に入らなかったということもある。

 「――ちがうよ」

 「なんですって?」

 「私はこの仕事、嫌いじゃない。それに……」

 オルフェウスの双眸がイセリアを見据える。

 澄んだ玻璃ガラス玉のような瞳からは、何の感情も読み取ることはできない。ただ、どこまでも美しい真紅色を湛えてそこにあるだけだ。

 「私は自分がそうしたいからそうしているだけ。――

 例によって平坦で一本調子だが、その言葉は確固たる意思に裏打ちされていた。

 見えない壁に押し出されるように、イセリアはわずかに後じさる。

 「……本っ当、気に入らないわね」

 視線をそらしたまま、イセリアは吐き捨てるように言った。

 「だけど、いい気でいられるのも今のうちよ! いつかあんたの化けの皮を剥がしてやるわ!」

 そうして自らの椅子に腰を下ろすと、手付かずになっていた文書を手に取る。

 ひとしきり暴れて多少は気分も晴れたのだろう。

 あるいは、オルフェウスへの対抗心がそう仕向けさせたのか。

 いずれにせよ、イセリアが目の前の仕事に取り込む気になったのは確からしい。

 アレクシオスとヴィサリオンは互いに目配せをし合うと、示し合わせたみたいに安堵のため息を吐いた。


 朝のひと波乱が終われば、一日はつつがなく過ぎていった。

 イセリアもあれほど不平不満を漏らしていたにもかかわらず、その後はまるで何事もなかったかのように仕事をこなしていった。

 正午の鐘の音を合図にいったん作業の手を止め、そろって昼食をとる。

 変わったことといえば、イセリアが加わったことで食事中の会話が増えた程度だ。

 水を向けられるのはもっぱらアレクシオスだった。

 アレクシオスとしてはいつものようにヴィサリオンの傍らに座るつもりだったのだが、いまは半ば強引にイセリアの差し向かいに座らされている。

 同じ部屋で昼食をとる四人は、アレクシオスとイセリア、ヴィサリオンとオルフェウスの二人組に分かれた格好になった。

 「そういえば、さ」

 肉の詰まった包子パンを口に運びながら、イセリアはアレクシオスに言う。

 「食べながらしゃべるな、行儀が悪いぞ」

 「少しくらいいいじゃない」

 イセリアは咀嚼もそこそこに包子を飲み込むと、

 「あのとき、二人で何してたの?」

 アレクシオスの顔を覗き込み、いつになく神妙な面持ちで問うた。

 「”あのとき”というのは、どの時のことだ」

 「ここでアレクシオスを待ってたとき。あの娘と一緒に帰ってきてたでしょ」

 「……なぜ分かる」

 「ふふん、あたしにはそのくらいお見通しなんだから!」

 得意げに胸を張るイセリアに、アレクシオスは呆れたようにそっぽを向く。

 「おまえには関係のないことだ」

 「そうかもしれないけど、何してたかくらい教えてくれてもいいじゃない? べつに減るもんじゃないしぃ」

 イセリアは興味津々といった風で問いかける。

 「それともまさか……言えないようなこと、とか?」

 「バカも休み休み言え。……ただ昼飯を買いに行っていただけだ」

 「ふたりだけで?」

 「そうだが――それがどうした」

 「ふーん……」

 イセリアはついと顔を横に向ける。

 そして、そのまま視線をアレクシオスのほうに流すと、

 「アレクシオスはさ……あの娘のこと、好き?」

 あくまで真面目な調子で問うたのだった。

 先ほどまでとは明らかに声のトーンを落としているのは、オルフェウスに聞こえないようにとの配慮だろう。

 面食らったのはアレクシオスだ。

 オルフェウスとともに露店の行列に並んだとき、他の客から投げかけられた野次が鮮明によみがえる。

 あの場ではまともに取り合わなかったが、年頃の男女が連れ立って歩けば恋仲と誤解されるのも仕方ないかもしれない。

 しかし、オルフェウスへの屈折した対抗心を抱くアレクシオスにとって、そのような誤解は断固として否定せねばならないものだ。

 「ふざけるな! なぜおれが奴のことを――」

 「声、大きいわよ。あの娘に聞こえたらどうするの?」

 アレクシオスの唇に人差し指を当て、イセリアはいたずらっぽく笑う。

 アレクシオスはオルフェウスとヴィサリオンが揃ってこちらに視線を向けていることに気づくと、ごほんと咳払いをしてふたたび腰を下ろす。

 「とにかくだ。二度とそんなバカな質問はするな!」

 「へえ……じゃあ、違うんだ?」

 「当然だ!!」

 アレクシオスは一際語気を強める。

 それはイセリアに対して念押しをするという以上に、自分自身に言い聞かせるようでもあった。

 一方イセリアはといえば、ほとんど怒鳴りつけられたも同然であるにもかかわらず、満足げに微笑んでいた。

 「よかった」

 「何がよかったんだ」

 「好きじゃないってはっきり言ってくれたこと! あたし、アレクシオスがあの娘とそういう関係だったらイヤだなって思ってたから」

 喜色満面でそう語るイセリアに、アレクシオスは心底呆れ果てた風でため息をつく。

 「好きだのなんだのと、さっきからくだらないことを……。おまえ、もっと他に考えることはないのか」

 「ええ、いちばん大事なことですもの。少なくともあたしにとってはね」

 不真面目を絵に描いたみたいなイセリアの顔に、ふいに真剣な表情が垣間見えた一瞬を、アレクシオスは見逃さなかった。

 「人間だっていつも誰が好きとか嫌いとか、そんな話ばかりしてるじゃない。だから、そういうことを考えてるあいだは、あたしも人間の女の子とおなじでしょ」

 「……勝手にしろ」

 アレクシオスは努めて突き放すように言う。

 イセリアの表情のなかに翳りを看取したのは、おそらく気のせいではあるまい。

 能天気そのものに見えるイセリアの奔放な言動も、案外に真剣な悩みに根ざしているのかもしれなかった。

 (……おれには関係のないことだ)

 アレクシオスは心中でつぶやく。

 たとえどのような事情があるにせよ、これ以上イセリアに振り回されるのは我慢ならなかった。

 アレクシオスが席を立とうとしたとき、チリンと涼やかな音が部屋に飛び込んできた。

 だれかが玄関に備え付けられた呼び鈴を鳴らしたのだ。

 「……まさか、また新しい騎士が来たんじゃないだろうな」

 言って、アレクシオスは眉根を寄せる。

 なんの前触れもなくイセリアが訪ねてきたことを思えば、ありえない話ではなかった。

 お世辞にも空間に余裕があるとは言えない詰め所である。今は不便を感じることもないが、五人となればさすがに手狭になる。

 「もし騎士なら、次は男だといいが。これ以上女が増えると面倒でかなわん」

 「それもふくめて、とりあえず確かめないことには何とも言えませんね」

 ヴィサリオンは苦笑しつつ、ぱたぱたと廊下を駆けていく。

 ややあって、ヴィサリオンは戻ってきた。

 一人ではない。傍らには来訪者を伴っている。

 外套と一体になったフードに覆われているため、顔は判別できない。

 だが、顔は隠せても、小柄できゃしゃな輪郭までは隠しようもない。

 ヴィサリオンが長身であるということを差し引いても、横に並ぶとほとんど大人と子供といった風情であった。

 「だれだ、そいつは?」

 アレクシオスは訝しげに問うた。

 「嫌だなあ……私のこと、忘れてしまったんですか? アレクシオスさん」

 アレクシオスは小さく驚きの声を漏らす。

 それは、あの夜、皇太子ルシウスに付き従っていた従者の声だった。

 「お久しぶりです――はじめましての方もおられるようですが」

 軽く会釈をしつつ、ラフィカはフードを取る。

 赤銅色の髪が広がり、猫みたいな双眸が三人の騎士を見つめた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る