第21話 帝都の日々

 吹きすさぶ風は、日を追うごとに冷たさを増した。

 帝都イストザントの後背にそびえる天険から吹きつける山おろしは、長い冬の到来を予告する晩秋の風物詩だった。

 あと一月もせぬうちに風花が舞い、年の暮れには降りしきる雪が街を白く染める。

 帝都へと通じる主要な街道は文字通り国家の生命線であり、降雪は文字通りの死活問題ともなる。

 それゆえ、毎年冬季になると、帝都周辺では信じがたいほどの巨費を投じて街道の通行維持が徹底されるのだった。

 大陸の東方全域を支配する『帝国』の文化・商業・行政・司法の中心である帝都がこのような厳しい気候の土地に建設されたのは、利便性の観点からみれば不可解というほかない。

 むろん理由のないことではない。

 そして、それはこの国が歩んできた歴史と密接に結びついている。

 かつて太祖皇帝アウグストゥスの下で西方世界を統一した古帝国は、続けざまに東方へと侵掠の手を伸ばし、やがては大陸の全土を掌握するに至った。

 有史以来のはじめての世界帝国の誕生――

 しかし、大陸の統一から百年と経たぬうちに、栄華栄耀を誇った古帝国は地上から消え去った。

 ただしく言うなら、大陸における唯一の権威であった偉大な国家は、『東』と『西』に引き裂かれたふたつのいびつな『帝国』へとその身をやつしたのだ。

 分裂の原因については諸説あり、いまなお定見を得ない。

 あらたに獲得した東方領地の分割をめぐる有力諸侯の内訌、皇帝の度重なる失政、肥大化の極致にあった統治機構の自壊……。

 東西両王朝の正史はまったく異なる説を記述し、古帝国の終焉から千年あまりの歳月を閲した今となっては、もはや真相を知るすべはない。

 確実に言えるのは、時の皇帝が有力諸侯によって西方世界を逐われ、流謫された東方でふたたび皇帝の位に就いたという事実のみ。

 全幅の信頼を置いていた股肱の臣にことごとく裏切られ、身分の一切を剥奪されて東方に配流された父祖の苦い記憶は、のちの『東』の皇帝たちの心理に抜きがたい不信感を扶植したのだった。

 その暗い情念は、帝都イストザントの建設を通じてはっきりと形を取った。

 帝都は首都であると同時に自己完結した小国家であり、四方を高い城壁と峨々たる山脈に取り囲まれた難攻不落の城塞都市である。

 城内にはさらに三重の城壁が築かれ、市街を見下ろす皇帝の居城――帝城宮バシレイオンは、山肌に築かれた堅固な山城そのものだった。

 そして、極めつけとでも言うように、皇帝とその一族を守ることを使命とする中央軍の精鋭十万が帝都の防備を固めている。

 厳しい気候も、決して良好とは言い難い交通の便も、皇帝を守るという至上の大目的の前にはなんら欠点とはなりえない。

 そこには大陸を二分する超大国の支配者には似つかわしくない、『東』の皇帝一族の矮小な本音が見え隠れしている。

 ひとたび謀反が起きれば自国のすべてが敵地であると考える『東』の皇帝にとって、交通の不便さはかえって好都合ですらあった。

 街道の通行を維持するために払う多大な労力は、それを放棄してしまうだけで敵に対する足止めとして機能するのだ。

 はじめて『東』の帝都を訪れる西方の旅人は、誰もがその規模と殷賑ぶりに驚かずにはいられない。

 イストザントに比肩する大都市は西方世界には存在せず、大多数の者は無邪気な興奮と感動を胸にこの街を後にした。

 だが、旅人のなかでも賢明な者は、この都市を作り上げた皇帝たちの心中ををするどく察知してみせる。

 『臆病者の都』――

 かつて皇帝を放逐した西方の諸侯は、イストザントをそう呼んで嘲笑った。

 独立国と呼べるほど自己完結した都市構造も、堅牢無比な防備も、すべては恐怖心から生じたものだからだ。

 もっとも、当の帝都の住民たちにとってそんな風評は知る由もない。

 それは先ごろ帝都に移り住んだ騎士たちも同様であった。

 皇太子ルシウスの差し金でかれらが帝都に召喚されてから、すでに二週間近い時が流れている。

 

 「……ありえん」

 帝都イストザントの一角、白亜の威容を誇示する中央軍総司令部……その斜向い。

 今にも崩れそうな古ぼけた家屋の一室で、黒髪の少年は苛立たしげにつぶやいた。

 眼前の机の上には、さまざまな部署の印が押された書類が積み上げられている。

 「なにがありえないんです? アレクシオス」

 「なにもかもだ!」

 向かい合って座る線の細い青年に問われ、黒髪の少年――アレクシオスは、もう我慢ならないと言った風で声を荒らげる。

 「いつまでこんなことを続けさせるつもりだ!」

 「それは分かりませんが、仕事は仕事です。しっかりやらなければいけませんよ」

 「おれたち騎士ストラティオテスの仕事は戦うことだ! 書類を選り分けることじゃない!」

 なおも食い下がるアレクシオスに、ヴィサリオンはいかにも困ったという様子で眉を曇らすと、

 「ほら、オルフェウスはあんなに真面目にやっているじゃないですか」

 すこし離れた場所に座る少女を見やる。

 陽光を受けて輝く亜麻色の髪と、透き通るばかりの白皙の雪膚。

 街を歩けば誰もが振り返るであろうその美貌は、古ぼけた部屋のなかでかえって際立っている感さえある。

 騎士オルフェウス――

 かつて北方辺境で三百体以上の戎狄を討ち倒し、最強の騎士の一人として名を馳せた少女は、黙々と書類を手繰っている。

 一枚一枚確かめては、時折手元の紙片に何かを書き記す。そうして書類を然るべき宛先に選り分けているのだ。

 仕事に取り掛かってすでに四時間あまりが経過しているが、とくに疲労した様子もない。その動作はどこまでも精確だった。

 「ヴィサリオン、おまえ、結構いい性格してるな……」

 アレクシオスはぷいと横を向くと、わざと拗ねたように言った。

 「おれよりずっと強いあいつが、文句も言わずに仕事をしている――そう言いたいんだろう?」

 「そういう訳ではありませんが……どう受け取るかはあなた次第です」

 ヴィサリオンは苦笑しながら答える。

 「だいたい、なんで奴がこんなところにいるんだ」

 アレクシオスは中断していた作業を再開しつつ、オルフェウスに聞こえないようにぽつりと呟いた。

 「彼女を責めてはいけませんよ。すべては私たちの与り知らないところで決まったことなのですから」

 「……おれとおまえの二人だけならよかったのに」

 最後の言葉は、はたしてヴィサリオンにも聞き取れたかどうか。

 それはアレクシオスの偽らざる本音だったが、だからこそ声を潜めざるをえない。

 かれらが帝都に到着してからというもの、今日に至るまでずっとこの調子であった。

 

 帝都に着いて最初の数日は、廃屋同然だった家屋の清掃に費やされた。

 三人は床を掃き清め、あらゆる場所に堆積していた埃を払い、どうにか人が住めるだけの環境を構築したのだった。

 客人が訪ねてきたのは、ちょうど大掃除が終わった晩のことだった。

 蛇を思わせる酷薄な目つきの中年男であった。

 男はみずからを元老院の使者と名乗った。

 アレクシオスは訝しんだが、外套に染め抜かれた元老院の紋章を見てしまえば口を噤まざるをえない。

 使者は今後騎士たちには元老院の指揮下で動いてもらう旨を慇懃に言い渡すと、さっさと引き上げていった。穢らわしい空気は一秒たりとも吸っていたくないとでもいうような、なんとも慌ただしい挙措であった。

 露骨な嫌悪は、言うまでもなくアレクシオスとオルフェウスに向けられたものだ。

 去り際、聞こえよがしに舌打ちをしてみせたのは、気の進まない役目を仰せつかった鬱憤を晴らしたつもりだろう。

 そうした事情を察してか、ヴィサリオンは

 一方オルフェウスはといえば、使者の非礼な振る舞いに対して何も感じていないようであった。

 「……おまえはなんとも思わないのか?」

 そう問うたアレクシオスに、相変わらず感情の篭もらない声で「べつに」と返しただけだ。

 アレクシオスは、それを彼女なりの気丈さの表れとは解さなかった。

 度を越した鈍感、あるいは無関心さがオルフェウスをしてそのような態度を取らせている。少なくともアレクシオスにはそうとしか思えなかった。

 あの夜、闘技場でわずかに通ったかと思われた二人の心は、ふたたび遠く離れた。

 元老院から辞令が下ったのは、その翌日のことだった。

 帝都に存在するさまざまな省庁宛ての書類を分類し、然るべき宛先に振り分ける――およそ戦いとは縁遠いその仕事が、アレクシオスとオルフェウスに与えられた役目だった。

 日々の職務に当たるようになってからも、一度アレクシオスの心に芽生えたしこりは残りつづけた。

 結局、その溝を埋めるきっかけもないまま今日に至っている。


 「……どっちを向いても気に入らないことばかりだ」

 瑕疵の見つかった書類をひとまとめにしながら、アレクシオスは誰にともなくひとりごちる。

 高らかな鐘の音が一帯に響いたのは、ちょうどその時だった。

 街区ごとに設けられた鐘楼では二時間ごとに鐘が打ち鳴らされ、帝都に暮らす人々に時を告げる。

 通常鐘が鳴るのは一度きりだが、この時は続けざまに二度響き渡った。

 「おや……もう正午ですか」

 ヴィサリオンは作業の手を止め、黙念と書類を手繰っているアレクシオスとオルフェウスに交互に視線を送る。

 「二人とも、このあたりで一休みしてください。朝から働き詰めで疲れたでしょうし、続きは食事の後にしましょう」

 「……そうだな」

 アレクシオスは言うと、椅子に座ったまま伸びをしてみせる。

 騎士はこの程度の作業で疲労を感じることはない。それでも身体をほぐすような動作をしてしまうのは、人間を真似ようとするうちに身についた癖だった。

 「おいヴィサリオン、一緒に昼飯を買いに……」

 「私は朝のうちに買っておいたので、ご心配なく。今日はオルフェウスと二人で買いに行ってください」

 「なぜあいつと一緒に行かなければならないんだ!」

 アレクシオスは胡乱げに眉根を寄せた。

 オルフェウスには背を向けたまま、ヴィサリオンだけに見えるように渋面を作っている。

 「女性一人で買いに行かせるつもりですか? 帝都は物騒ですし、それに道を知っているのはあなただけですから」

 「それは――まあ、たしかにそうだが……」

 アレクシオスは諦めたように言うと、オルフェウスのほうへ振り向いた。

 少女は作業を中断し、今は何をするでもなく机上に肘を乗せている。

 アレクシオスは一瞬の逡巡を経て、意を決したように声をかける。

 「……オルフェウス、なにか食べたいものはあるか?」

 「べつに……」

 「腹が減っていないのか?」

 オルフェウスは小さくうなずく。

 実のところ、アレクシオスも空腹という感覚を正しく理解している訳ではない。

 騎士にも味覚はある。

 少なくともアレクシオスのそれは、人間と同じように食物の味を感じることができる。

 だが、食事を取らなかったとしても人間のように空腹感に襲われることはなく、そのまま数日を過ごしたところで衰弱することもない。

 北方で戎狄と戦っていたころ、戦いでひどく傷ついた時などは無性に何かを口に入れたくなったことはあるが、それが人間の食欲と同質のものだという確信は持てなかった。

 それでもアレクシオスが人間と同じ間隔で食物を摂取しているのは、かれなりの理由があってのことだ。

 「私は食べなくても平気だから――」

 オルフェウスはそう言うと、ついと視線を外した。

 必要がないから食物を摂取しない。

 たしかに理に適った判断だ。

 不必要な行為にいちいち労力を割くのは賢明とは言いがたい。

 だが――正しい一方で、アレクシオスには決して受け入れることの出来ない理屈でもある。

 アレクシオスはオルフェウスのそばに大股で歩み寄る。

 そして、白くたおやかな手を取ると、ぐいと自分のほうへ引き寄せた。

 オルフェウスはバランスを崩すこともなく、上体をひねって椅子から立ち上がってみせる。

 自らの行動が招いた結果とはいえ、予期せぬ接近にアレクシオスは多少の動揺を覚えざるをえない。

 「……平気かどうかの問題じゃない」

 精一杯の冷静さを装いながら、黒い瞳は赤い瞳を真っ向から見据える。

 「人間は飯を食うものだ――おまえも一緒に来い」

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