第二章:帝都編

第20話 胎動

 そこはあらゆる光から隔絶された場所であった。


 闇のなかにたたずむ影は七つ。

 一人ひとりを隔てる距離は等しく、精緻な真円を形作って佇立している。

 いずれも分厚く長い黒衣を身にまとっているために、外見から性別や年格好を推測することはできない。


 ふいにかれらの足元に光が湧いた。

 どこから生じたのか、青白い炎がまるで生き物のように床面を走る。

 炎がやがて床に刻まれた紋様をひと回りすると、室内の古色蒼然たる様相があかあかと浮かび上がった。

 闇の帳が剥ぎ取られたことで明らかになったのは、室内の様子だけではない。

 七つの影の中心に、なにやら横たわるものがある。

 それは石造りの台に寝かされた女であった。

 年齢は二十歳に届くかと言ったところ。

 女は頭の先から爪先まで一糸まとわぬ姿で横臥させられている。

 淡褐色のはりのある肌に、赤みがかった艶やかな長髪。いかにも向こう気の強そうなつんとした唇――。

 身体のどの部位にも若い娘らしい溌溂とした美が満ち満ちている。暗く淀んだ空間にはおよそ似つかわしくない健康的な色彩であった。

 複数の人間に取り囲まれるなかで裸体を晒しているにもかかわらず、女はまぶたを閉じたまま微動だにしない。

 ただ単に眠っているだけなのか、それともみずからの意思で沈黙を守っているのか。

 胸がかすかに上下しているところを見るに、どうやら息はあるようだ。


「――始めるとしよう」


 黒衣の一人が口を開いた。

 低くくぐもった、それは確かに男の声であった。

 黒衣の男は整然と形作られていた円陣を崩し、横たわったままの女に向けて一歩進み出る。


「我が尊崇する”師”よ――大いなる叡智の光を以って、どうか我らに道をお示しください」

「そして、その神技の真髄をお授けください!」


 六人の黒衣はまるで熱に浮かされたみたいに口々に叫ぶと、”師”の足元に跪いた。


「これより屍徒再生の儀を執り行う――」


 ”師”と呼ばれた男は低い声で宣言すると、女の額にそっと指を添えた。

 あらかじめ指先に染料を塗布していたのだろう。軽やかに指をすべらせるのに合わせて、女の額に真一文字をえがく朱色の線が引かれた。


「準備は整った――執刀を開始するがいい。我が愛弟子たちよ」

「は――」


 言うが早いか、師の傍らから二人の黒衣が進み出る。

 一人は鋭い銀光を放つメスを、もう一人は大振りな錐に似た道具を携えている。


「切開の手順は分かっているな、ケイルルゴス」

「万事心得ております、師よ」

「脳に不要な傷をつけぬよう注意を払え。失敗すれば、ここまでの苦労も水泡に帰す」


 ”師”に命じられるまま、メスを手にした黒衣の一人――ケイルルゴスは、注意深く朱線に沿って女の額を切り開いていく。

 メスが皮膚を裂いた瞬間、血の花がぷくりと膨らみ、やがて重力に従って赤い河を形作った。この時点でかなりの痛みを感じているはずだが、女は依然として目を覚ます様子もない。

 人体のなかでも、顔面の皮膚はとくに薄い。

 研ぎ澄まされた刃は薄い脂肪の層をやすやすと切り開き、ほどなくして白い頭蓋骨があらわになった。

 ケイルルゴスは海藻を乾燥させた綿を傷口に当て、溢れ出た血液を器用に吸い取っていく。

 めくれた皮膚を短い針で留めたのは、その後の処置を滞りなく行うためだ。

 メスを用いた皮膚の切開が終わると、錐みたいな道具を持った黒衣が入れ替わるように女の傍らに立つ。


「イアトロス、ここからが肝要だ」

「お任せあれ――”師”よ。いままでご教授いただいた技術が我が血肉となって結実した成果をごらんに入れましょう」


 錐を持ったもう一人の黒衣――イアトロスは、いかにも自信ありげに豪語してみせる。

 そして錐をむき出しの頭蓋骨に押し当てて軽くあたりをつけると、そのまま躊躇なく回転させ始めたのだった。

 イアトロスが手にする錐はただの錐ではない。

 錐の表層には、ごくごく細かな螺旋が彫り込まれている。

 それは回転に伴って生じる摩擦熱を最小限に抑え、生体組織の破壊を抑制するために誂えられた特別な器具だ。そこに使い手の精妙な手さばきが加わることで、迅速かつ正確な骨への穿孔を可能とする。

 ほどなくして、女の頭蓋骨に五つの小孔が穿たれた。

 いずれも大きさは小指の爪ほど。その奥には、灰白色の脳髄がちらと覗いている。

 それにしても、皮膚を切り開かれただけでなく、頭蓋骨に穴を開けられても一向に覚醒しない女の意識はどうなっているのか。

 傷口からは絶え間なく血と髄液が流れ出ているにもかかわらず、女は安らかな寝顔を浮かべたままだ。


「イアトロス。ここから先の施術をお前に任せるのは今日が初めてだったな。今のお前ならばきっと成し遂げられるはずだ」

「私めにお任せいただけるとは、ありがたき幸せ――」

「ケイルルゴス。お前もよく見ておくがいい」


 ”師”に激励されたイアトロスは、さっそく次なる施術の準備に取り掛かる。

 ひとまず手にしていた道具を置くと、ケイルルゴスがすかさず何かを手渡した。

 髪の毛よりも幾分細いそれは、五本の針であった。

 イアトロスはもう一方の手で台の下から小ぶりな壺をつまみ上げると、指先だけで器用に蓋を開いた。

 そのまま針を一本ずつ壺に浸していく。そのたび、銀色の針先が見る間に紫色に染まっていった。


「準備は整った――わが師に代わり、このイアトロスが屍徒再生を行う!」


 五本の針すべてに薬液がしっかりと付着したことを確かめると、イアトロスは高らかに宣言する。

 傍らに控える四人の黒衣もケイルルゴスも、固唾を呑んで見守っている。

 イアトロスは手にした針を女の頭蓋骨に穿たれた穴に刺し込んでいく。

 慎重かつ大胆な動作は、これまでかれが師の下で重ねた研鑽の賜物と思われた。

 言うまでもなく脳髄は心臓と並ぶ人体最大の急所であり、わずかでも手元が狂えば女の生命はたちどころに断たれるはずであった。

 それでも見るものに不安を微塵も感じさせないのは、イアトロスがみずからの技量に絶対の自信を持っているためだ。

 五本の針はそれぞれ異なる深度と角度で脳髄を侵していった。

 そうすることで針先に付着した薬液を脳に浸透させているのだ。


 そして、最後の針を刺し終えると、イアトロスはその場でわずかに後じさった。

 どうやらしばらく経過を観察するつもりらしい。”師”も他の黒衣もそれを承知しているのか、殊更に言葉をかけることもない。


 重い沈黙が流れた。

 永遠に続くかのように思われた無言無音の時は、あっけなく破られた。

 それまで堅く閉ざされていた女の瞼がふいに開いたのだ。

 ぴったりと閉ざされていた女の両目は、いまや皿のように見開かれている。

 女の瞳は、すでに人間のそれではなかった。

 瞳孔は完全に拡散し、かつては黒々と輝いていた虹彩はすっかり色を失いつつある。

 女の身体に生じた異変は、瞳だけに留まらなかった。

 形のいい口唇は見る影もないほどだらしなく開かれ、唇の端から泡立った唾液がとめどもなく流れ出している。


「アアア……ァ……アア……」


 もはや人語を発することもままならないのか、女は言葉にならない呻き声をしきりに漏らす。

 かろうじて生命活動は保たれているようだが、女の内から人間らしい理性が消え失せているのは誰の目にも明らかだった。

 女の瞳はもはや正常な世界を視ることはなく、その人格と記憶は永久に失われたに違いない。


「成功だ……!」


 変わり果てた女の姿を見て、イアトロスは快哉を叫んでいた。

 みずからの施術によって人間が破壊されたことがよほどうれしかったらしい。

 分厚いフードに覆い隠されて表情こそ伺えないが、その声は弾むような歓びに満ちている。


「まだ喜ぶのは早い。一両日中には自力で起き上がれるようになるはずだ。それまでに然るべき処置を施さねば……」

「――我らに牙を剥く。それは無論承知しております」

「ならばよい」


 師は重々しく首を縦に振ると、踵を返した。

 六人の黒衣は、ただ深々と跪拝してその背を見送るのだった。

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