第19話 エピローグ
背後には峨々たる天険がそびえ立ち、残る三方を長大な城壁が取り囲む。本来なら壁の外に置かれるべき耕地や田畝、のみならず小山や湖沼までも城壁の内に内包している事実は、都市が途方もない面積を有している証左だった。
城壁の向こう側できらきらと輝く波のようなものは、どこまでも続く家々の甍が陽光に照り映えているのだ。
ありとあらゆる施設を内包し、堅牢に守護されたその外観からは、一個の独立国家の趣さえ感じられる。
帝都イストザント――。
『東』の
並ぶもののない偉大な城市は、秋のうららかな日差しのなかでいっそう輝きを増したようだった。
「あれが、帝都……」
馬車の荷台から身を乗り出したアレクシオスは、おもわず感嘆のため息をもらす。
馬車は峠の下りに差し掛かっていた。この位置からは帝都の全景を見渡すことができる。
東方辺境からの長い旅はようやく終わろうとしている。
ここに至るまでの道中には、いくつもの山脈や大河が横たわり、けっして安楽な旅路ではなかった。
そんな旅の疲れも一瞬で忘れるほどに、少年は生まれてはじめて目にする帝都の威容に感じ入っているのだった。
「ヴィサリオン、おまえは見なくていいのか?」
「ええ、私は帝都に来るのは初めてではありませんから……」
興奮気味のアレクシオスに、ヴィサリオンは苦笑交じりに答える。
闘技場で受けた傷もすっかり癒えた青年は、さきほどから膝のうえに広げた紙片に視線を落としている。
それは闘技場での一件が解決して間もなくかれらの元に送付されてきたものだ。
――騎士アレクシオスおよびその監督者ヴィサリオン。両名に対し、帝都へのすみやかなる異動を命じる。
有無を言わさぬ断定調は、この国の公文書における定型だ。
問題は文面ではなく、文末の署名だった。
本来あるべき個人名義の署名はない。
代わりにそこに記されていたのは、国花である
それは皇帝の命令によって作成された文書であることを意味している。
文官であるヴィサリオンには、この不可解な命令書が発給された事情をおぼろげに察することが出来た。
言うまでもなく、皇帝がみずからの意志で作らせたものではない。
当代の皇帝イグナティウスはすでに老境にある。
皇帝が先年より長患いの床にあるという噂は、ヴィサリオンも何度か耳に挟んでいた。
皇帝の寿命が尽きつつあるいま、その後継者である皇太子ルシウスの中央政界における存在感が増すのは当然でもある。
先だって実施された大がかりな地方巡察も、単に視察というだけでなく、次期皇帝の顔見世としての意味合いもあったのだろう。
ひとたび皇帝に即位してしまえば、帝都からそう簡単には動けなくなるのが通例だ。そのまえに各地の有力者に跡継ぎを紹介しておきたいという心遣いがあったことは想像に難くない。
もっとも、そのような旅の最中にルシウスがあのような挙に出るとは、当の皇帝も予想はしていなかっただろうが――。
いずれにせよ、今回の異動命令がルシウスの差し金であることはあきらかだった。
父皇帝に働きかけたのか、あるいは文書発給の権限はすでにルシウスに移譲されているのかは定かではない。
はっきりしているのは、銀梅花の花押が捺された命令書が辺境に届けられたということだけだ。
ルシウスは超法規的措置を取ってまで、
騎士を忌避し、辺境に追いやろうとするこれまでの国家の方針を思えば、それは重大な転換であった。
あの日――。
闘技場での一件が落着したあと、ヴィサリオンはルシウスから直々に召し出された。
ルシウスはこれまでの騎士たちが置かれてきた境遇について仔細な説明を求め、ヴィサリオンもまたおのれの知るすべてを微に入り細に入り申し伝えた。
そして、辞去しようとしたヴィサリオンにむかってルシウスはこう言ったのだった。
「そなたらをこのままにしておくつもりはない――追って沙汰を待つがいい」
そのときはたんなる気休めと思われたルシウスの言葉は、時をおかずして現実になった。
経緯はどうあれ、ひとたび正式な辞令が下った以上、官吏であるヴィサリオンとアレクシオスに拒む自由などあろうはずもない。
とはいえ、彼らも決して気が進まない訳ではなかった。
”元”州牧パトリキウスが配下ともども処断されたことによって、州内には大きな波紋が広がっていた。
アレクシオスとヴィサリオンにも影響は及んだ。一州の体制を揺るがす大事件に関わってしまった以上、たとえ被害者であったとしても、それまでと同じように生活を送ることは難しいのだ。
通常の勤務に復帰してからも好奇の視線に晒され、時には興味本位の詮索を受けることすらあった。
そんななかでの帝都への異動命令は、二人にとってまさしく渡りに船だった。
「おい、さっきからなにをボーっとしている?」
ふいにアレクシオスに小突かれて、ヴィサリオンははたと我に返る。
「いえ――すこし疲れただけですよ」
「……すまん。おれが路銀を川に落とさなければ、もう少しいい馬車が借りられたのにな」
道中、深い川底に沈めてしまった財布を拾い上げようと大勢の船客の前で戎装しようとしたアレクシオスを思い出して、ヴィサリオンは思わず苦笑いをもらす。
「気にしてませんよ。路銀のすべてを落としてしまった訳ではないですし、これでも貧乏旅行は慣れていますから」
うなだれた少年の黒髪を指で梳きながら、ヴィサリオンは慰めるように言う。
「さあ、もうすこしで城門が見えてきますよ――」
空を見上げれば、太陽はちょうど中天にかかろうとしている。
***
黄昏時であった。
日はすでに没し、わずかな残光が帝都の街並みを茜色に染めている。
アレクシオスとヴィサリオンは石造りの建物を出ると、連れ立って大通りへと進んでいった。行き先はかれらの新しい仕事場であり、今夜の宿でもある。
異動につきものの種々の手続きは、意外なほど早く完了した。
『東』の帝国が誇る官僚制度は、その高度な行政能力と引き換えに、何をするにしても煩瑣な手続きを強いられる。
とりわけあらたに帝都へ移り住む人間に対する厳しさは尋常ではなく、提出した書類に一点の不備でもあれば即座に破却される。不備を修正して再提出したとしても、それが受理されるのは早くても一日後というありさまだった。
しばしば帝都はそれ自体が独立した国家と言われるが、こうした厳重な入国審査の実施がそれを裏付けている。
官吏であるヴィサリオンはそのことを熟知していたし、たとえ銀梅花の花押があったとしても、そう簡単に通してはくれないと覚悟していたのである。
花押の真贋を吟味するのに相当の時間を費やすであろうことも想定のうちだった。
にもかかわらず、夜更けまでかかると思われた手続きは、二時間にも満たない短時間のうちに終了した。
「……上からの圧力があったと考えるのが妥当でしょうね」
応対にあたった官吏は、当初はいかにも
ともすれば不可解なほどの態度の変わりようも、上意下達を是とする官吏の性情を思えば納得がいく。
(皇太子殿下は、なぜそれほどに――)
疑問は尽きないが、思い悩んだところで詮無きことであった。
「ヴィサリオン、十七番街というのはこっちでいいのか? 道案内はおまえが頼りなんだからな」
「次の通りを右に曲がればすぐですよ」
その言葉通り、目当ての街区はすぐに見つかった。
先ほど手続きを済ませた省庁街から通りを二つ挟んだ十七番街は、主に軍関係の庁舎が密集している。
文官の街である官庁街に対して、こちらは武官の街とでも言うべき風情であった。
そのせいか、流れる空気にもどことなく緊張感が漂っている。
「私たちの仕事場は……あそこですね」
ヴィサリオンが指差した先には、見るからに豪奢な建物がそびえている。きらびやかな白亜の壁面は、街を覆いつつある夕闇のなかでいっそう鮮やかにみえた。
遠目には城塞のようにもみえる建物は、周囲を威圧するように聳立している。
アレクシオスは怪訝そうな面持ちでヴィサリオンに問う。
「……あれか? 本当に?」
「いいえ、あれは中央軍の総本部です。私たちの職場はたぶん……」
言って、ヴィサリオンは指の向きをわずかに変える。
新たに指し示した場所は、中央軍総司令部の斜向いにある古びた邸宅だった。
いったいいつ建てられたのか。その意匠は、あきらかに当世の流行に逆行するものだ。
赤茶けた壁面には蔦が絡まり、屋根の甍はところどころ抜け落ちている。
何もかもが中央軍総司令部とは対照的な佇まいであった。
「……あれか? 本当に?」
「ええ、恐らく間違いないでしょう――残念ながら……」
あまりの落差に開いた口が塞がらない様子のアレクシオスをよそに、ヴィサリオンはさっさと建物へと近づいていった。
「おや? 鍵が開いていますね」
「コソ泥でも入ったんじゃないのか」
「泥棒が入りそうな建物には見えませんが……」
二人は一歩一歩確かめるように玄関に足を踏み入れた。
ヴィサリオンが懐から
室内の状態は建物の外観ほどには悪くなかったが、快適とはほど遠いことには変わりがない。
歩くたびに埃が舞い上がり、床が軋りを上げる。そこかしこに積もった埃の層は、しばらく人の出入りがない証でもある。
暗い廊下を抜けると、広い部屋に出た。どうやら居間のようだった。
マッチの仄明かりに照らされた空間は、やはり数十年前から時が止まったかのよう。
「ちょっと待て――誰かいるぞ」
アレクシオスはとっさにヴィサリオンの前に出る。
薄暗い部屋のなか、何者とも知れない影はじっと椅子に座り、何をするでもなく佇んでいる。
心中に妙な引っ掛かりを感じつつ、アレクシオスは影にむかって詰問する。
「だれだ! ここで何をしている!?」
答えは返ってこなかった。
かわりに人影は椅子から立ち上がり、顔を二人のほうへ向ける。
「遅かったね」
マッチが燃え尽きたその瞬間、ひときわ激しく生じた燐光が、白皙の
忘れようもないその顔を見た途端、アレクシオスは声にならぬ声を上げていた。
「おまえ、なぜ……」
「あなたも帝都に呼ばれたのですか? オルフェウス」
こくり、とオルフェウスは頷く。
「ヴィサリオン、どうなっているんだ。こんな話は聞いていない!」
「何も聞かされていないのは私も同じですよ」
いきり立つアレクシオスを宥めつつ、ヴィサリオンはこの状況になんとか説明をつけようと考えを巡らせる。
(これも、皇太子殿下のいたずらでしょうか?)
二本目のマッチを擦ったところで、ヴィサリオンは小さく咳き込んだ。
どうやら埃を吸い込みすぎたらしい。
このままでは人間である自身は無論のこと、騎士たちにとっても好ましい環境とは言えない。
とっさに口を覆いつつ、青年はかれらの監督役として今なすべきことを思料する。
「とりあえず、どうでしょう。みんなで掃除でも……」
「そんなことを言っている場合か!?」
「私はいいよ。べつに――」
言って、オルフェウスは窓辺にむかってつかつかと歩き出していた。
そして細い指を鎧戸にかけると、一気に開け放つ。
決して軽くはない扉はまるで紙細工みたいにあっさりと開き、部屋じゅうに黄昏の色が差し込んだ。
秋の日は早くも没しつつある。あと一時間もしないうちに帝都は闇に包まれるだろう。
薄れてゆく夕映えに追い立てられるみたいに、二人の騎士と青年は忙しなく動きはじめた。
【第一章 完】
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