第18話 約束

「黙っているなんて、いくらなんでもひどすぎますよ」


 不機嫌そうに頬を膨らますラフィカに、ルシウスは微笑んで答える。


「そう言うな。――実際にこの目で確かめるまでは、余も確証は持てなかったのだ」


 闘技場にほど近い野原にはいくつかの天幕が並び立っている。いずれも戦場で用いられる帷幄であった。

 ルシウスとラフィカは、そのなかでもとりわけ大きな一つにいた。

 天幕の上にはためく緋紫の旌旗は、辺境ではまず目にする機会のないものだ。

 皇帝直属の近衛軍団――。

 中央軍として世に知られているかれらは、本来ならば帝都の周辺から動くことはないはずであった。

 騎兵を中心とする三千余の部隊は、皇太子ルシウスの辺境巡察の護衛としてつけられたものだ。

 昨日の日暮れになって護衛対象であるルシウスが突如として失踪したのだから、護衛軍が上を下への大騒動となったのは言うまでもない。

 もしルシウスの身に万が一のことがあれば、部隊を統率する将校たちの首が文字通りの意味で飛びかねない。


「出て行く前に軽い謎掛けを残しておいたからな。おかげでちょうどいい時に駆けつけてきてくれた」

「いつものこととはいえ、殿下はお戯れがすぎます。一時は本当にどうなることかと思いました」

「もしあのとき現れたのがパトリキウスの手の者であったとしても、こちらには騎士が二人とお前がいる。何の心配もないだろう?」

「そんなことで褒められてもうれしくありませんってば」


 ラフィカは唇をつんと尖らせる。それは抗議であり、また照れ隠しでもある。


「軽率な行いだったのは認めよう。それでも、余自らこの地まで出向いた甲斐はあった」

「それは――確かにその通りですが」

「腐敗はこの州だけに限った話ではないはずだ。父上は辺境から目を離しすぎたな」


 ルシウスは、あえて皇帝とは呼ばなかった。


「騎士の処遇も改めねばな。反乱を恐れるあまりあの者たちを辺境に追いやった挙句、謀反の駒に仕立て上げられたのでは本末転倒というものだ」


 ルシウスはほうと溜息をつくと、ラフィカに目配せをした。


「ヴィサリオンをここへ――いくつか話しておきたいことがある」


***


 とめどなく湧き出した水は、地下の闘技場を巨大な水がめに変えていた。

 すでに湧出はほとんど止まっているようだが、許容量を超えた水は外部にあふれ出し、一帯は湿地帯みたいな景観を呈している。

 にわかに出現した湖のほとりで、アレクシオスは茫洋と立ち尽くしていた。

 特に何をしているという訳でもない。

 ただ、そぞろ歩きの途中でなにげなく足を止めただけであった。


 ――あの後。

 ルシウスの号令のもと、パトリキウスと州の有力者たちはことごとく就縛された。そこかしこに立てられた天幕は、かれらの身柄を預かる臨時の監獄でもあるのだ。

 戦いが終わってしまえば、アレクシオスたち騎士に出来ることはなにもなかった。

 忙しない雰囲気のなか、手持ち無沙汰でいることに耐えかねて、野営地をそっと抜け出てきたのは今しがたのことだ。

 ヴィサリオンはあえて引き止めることもせず、


「気をつけていってらっしゃい」


 と、アレクシオスの背に声をかけただけだった。

 アレクシオスは水面を覗き込みながら、一夜の間に起こったさまざまな出来事を思い起こしていた。

 意に反して闘士に仕立て上げられ、見世物として遊興の座に供された屈辱は、そう簡単に忘れられるものではない。

 それも、自分一人ならばまだいい。

 ヴィサリオンが受けた痛苦を思うと、忸怩たる思いがこみ上げてくる。

 結局アレクシオスひとりの力では助けられなかったことも含めて、悔しさは尽きることがなかった。


(勝てなかった――)


 アレクシオスはオルフェウスとの戦いに思いを馳せる。

 完敗――。

 認めたくはないが、それ以外にふさわしい言葉は見つからなかった。

 死力を尽くしたというのは、あくまでアレクシオスがそうであったというだけの話だ。

 おそらくオルフェウスは本来の力の十分の一も出してはいないだろう。

 実際にその強さの片鱗を垣間見たアレクシオスだからこそ、計り知れない底力を推し量ることもできる。


(それだけじゃない――おれは、奴に助けられた)


 アレクシオスは、胸の奥からこみ上げる悔しさに強く唇を噛む。

 もしオルフェウスが明確な敵意や嗜虐心を持ち合わせていたなら、アレクシオスも何の負い目も感じることはなかったはずだ。

 だが、実際にはオルフェウスはそのいずれも持ち合わせてはいなかった。

 そこにあったのは敵意でも悪意でもなく、ただ純粋な善意だけだ。


――だからこそ、余計につらい。


 決着の瞬間までオルフェウスの真意に気づきもせず、がむしゃらに勝ち目のない戦いを挑み続けた自分自身に愚かさに、アレクシオスは打ちひしがれる思いだった。

 ふいに、枝葉がすれあう乾いた音が生じた。

 何者かの接近を察知して、アレクシオスは反射的に振り返る。

 山中ならば獣が出たとしても不思議ではない。あるいは、巡回中の兵士が水辺の様子を見にきたのかもしれない。


「おまえ、なぜここに……」


 木立の合間に亜麻色の髪を認めたとき、アレクシオスはおもわず声を漏らしていた。

 無理もない。目の前に現れたのは、いま最も顔を合わせたくない相手だった。


「……おれになにか用か?」

「べつに、なにも――」


 オルフェウスはそっけなく言うと、その場で膝を屈めた。

 そして白い繊手を水面に伸ばし、確かめるように水をひと掬いしてみせる。

 ガラス細工みたいに細く白く、可憐な指――

 それが恐るべき能力を秘めた凶器だとは、実際にその威力を味わったアレクシオスにも今なお信じがたいことだった。


「オルフェウス、おれは……」


 アレクシオスは唇を噛み、爪を掌に食い込ませながら言葉を紡ぐ。


「……礼を言わせてくれ。あの時おれと、そしてヴィサリオンを助けてくれたことを……」

「いいよ――お礼なんて」


 言って、オルフェウスは水面に向けていた視線をアレクシオスに移す。

 目があった瞬間、アレクシオスは澄んだ紅い双眸に映った自分自身の姿をみた。

 情けない顔。一番見られたくない相手の前で、一番見られたくない顔をしている。


「私が好きでしたことだから」


 言い終えたとき、オルフェウスはすでに立ち上がっている。

 水が滴る指先を拭いもせず、さっと踵を返してアレクシオスの前から立ち去ろうとする。

 まるで、もうこれ以上話すことはないとでも言うみたいだった。


「待て!」


 アレクシオスは追いすがり、とっさに手をつかむ。

 突然の行動に驚いたのはほかでもない、当のアレクシオス自身だ。

 今を逃せば、ふたたび言葉を交わす機会はない。そんな直感が半ば無意識のうちに少年を動かしていた。

 はたと我に返ると、指先に柔らかな感触が伝わってくる。

 慌てて手を振りほどきつつ、


「まだ話は終わっていない!」


 波立った心のうちを悟られまいと、アレクシオスはわざと大声を張り上げる。


「さっきも言ったとおり、おまえには感謝している。礼も言いたい……が!」

「……が?」 


 オルフェウスは驚いた様子もなく、不思議そうにアレクシオスの顔を覗き込む。

 アレクシオスはたじろぎながら、無意識のうちに逸していた視線を無理やり正面にもどす。


「それと勝ち負けとは、話が別だ!」


 美しい顔を見据えたまま、アレクシオスは言葉を続ける。


「たしかに、おまえに較べればおれは弱い。倒した戎狄バルバロイの数もずっと少ない……」


 アレクシオスは自分の声が震えているのを自覚した。

 当然だ。傷口を取り繕うどころか、最も見られてはならないはずの相手に向けて目一杯広げてみせているのだから。


「それでも、おれはいつか必ずおまえに追いつき――追い越してみせる。そのときはもう一度おれと勝負しろ、オルフェウス!」


 なんとか最後まで言い終えると、アレクシオスはすばやく背を向けた。

 言うまでもなく、真正面からオルフェウスと相対することが出来なくなったからであった。


(言ってしまった――)


 思いの丈をぶつけることは出来た。存分に、悔いもなく。

 その代償としていま少年の身のうちを駆け巡るのは、とめどない後悔と、すぐにでも消え入りたい衝動だった。

 最強の騎士とはいえ、相手は年頃の娘だ。

 おざなりな感謝のあとで宣戦布告を一方的にまくしたてられれば、どんな感情を抱くかくらいはアレクシオスにも分かる。

 恩知らず、身のほど知らず、助けなければよかった――。

 何を言われても文句は言えないはずだった。


「……いいよ」


 たまらず駆け出そうとしたアレクシオスだったが、背後からかけられた声におもわず足を止める。

 その声色は、事前に予想していたいかなる悪感情とも無縁のものだ。

 聞き間違いではないかと、アレクシオスはおそるおそる振り返る。


「またね、アレクシオス」


 笑いもせず、かといって不機嫌な面持ちという訳でもなく――。

 オルフェウスの端正な顔は、相変わらず無機質な美しさを湛えたままそこにある。

 水の滴る掌がアレクシオスに向けてひらひらと振られるたび、きらきらと陽光が散った。

 身ぶり手ぶりは、時として言葉よりも雄弁に感情を語る。

 少女の仕草に再会への前向きな意思が表れていることはあきらかだった。


「――――っ!!」


 横一文字に結んだアレクシオスの口から声にならない声が漏れる。

 なにか見てはならないものを見てしまったような気がして、少年はどうにもたまらず駆け出していた。

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