第208話 エピローグ

 石膚病せきふびょうの原因が解明されたのは、それから三百年あまりも後のことだ。


 手がかりが見つかったのは、まったくの偶然だった。

 大陸南部を流れる最大の河川・ボルボロス河の水質調査にあたっていた研究者たちが、たまたま持ち帰った泥層のなかに奇妙な卵を見つけたのだ。

 当時すでに石膚病によって死亡した患者の脳から寄生虫の死骸が発見されることは知られていたが、その感染経路は謎に包まれていた。

 さまざまな実験のすえに、ボルボロス河で発見された卵こそが石膚病を引き起こす原因であると同定されたのである。


 通常、この寄生虫は卵のまま人体を通過し、終宿主である牛や豚に寄生する。

 すなわちヒトはあくまで中間宿主にすぎず、かりに汚染された水を飲んだとしても、ほとんどの場合は無自覚・無症状のまま排出される。

 それも当然だ。運び屋である人間を死に至らしめては、みずからの種を滅ぼすことになりかねないのだから。


 問題は、なんらかの理由で人体内で卵が孵化した場合である。

 血液脳関門を突破して頭蓋内に至った幼虫は、小脳に『巣』を形成する。

 虫体は終齢幼虫でも一ミリに満たず、この時点では人体にさしたる影響はない。

 それから数年が経過し、成熟した虫体が脳の免疫機能を司る部位へと移動することで、石膚病はようやく発症へと至るのである。


 寄生虫に冒された免疫系は、重大な誤作動をきたすようになる。

 すなわち、細菌やウイルスを排除する免疫細胞が、本来保護すべき健康な細胞を激しく攻撃しはじめるのだ。

 免疫系を狂わせる機序はいまだ究明されていないが、成虫が排出するなんらかの毒素の影響によるものと考えられている。

 みずからの肉体への容赦のない攻撃は、細胞死にともなう高度な石灰化と線維化を惹起し、患者の体組織はあたかも石と化したがごとくに硬化していくのである。

 石膚病はたんなる寄生虫症というだけでなく、自己免疫性疾患としての側面も有しているのだ。


 発病の原理メカニズムが解明されたところで、石膚病が不治の病であることに変わりはない。

 ひとたび石灰化した皮膚を元に戻す方法は存在せず、外科的に脳から寄生虫を取り除くことも不可能であった。

 それでも、煮沸消毒による虫卵の死滅が確認されたことで、予防が可能になったことはおおきな進歩だった。


 国際医療機関はただちに生水の飲用を禁じるよう通達したが、当時の大陸南部はがひしめき合う紛争地域でもあり、各国政府の対応はまちまちだった。

 もともと稀な疾病ということもあり、どの国も本腰を入れて対策に取り組もうとはしなかったのである。

 支配階級に属する人々は、自分たちの住居にいちはやく上水道を整備し、使用人には十分に煮沸された水を用いるよう徹底させた。

 自分とその家族の安全を確保した時点で、対策は事足れりとしたのだ。


――『帝国』が現在いまも存在していれば……。


 政府の怠慢に業を煮やした医療関係者のなかには、かつて世界を統べた国家に思いを致す者も少なくなかった。

 もし『帝国』がいまなお大陸南部を支配していたならば、あるいは画一的な予防策を実施することも出来たはずであった。

 事実、は、それに近い偉業を成し遂げたのだから。

 それでも、かつて東方人と呼ばれていた彼らにとって、独立以前の『暗黒時代』を懐かしむことは禁忌であり、そのような意見を公言することは社会的な死を意味した。

 

 はたして、その後も貧困国を中心に、石膚病は南部の風土病として残存しつづけた。

 有効な治療法が確立されたのは、寄生虫の発見からさらに百年あまり後のこと。

 それまでのあいだ、同病は人々にとって恐怖の的でありつづけたのだった。

 患者にとっての唯一の救いは、ある時期を境に彼らに向けられる世間の目がおおきく変わったことだ。

 かつては発病とともに荒野や山奥に追いやられていた患者は、ずいぶん前から人間らしい最期を迎えることが出来るようになっていたのである。

 それは、千年の長きに渡った『暗黒時代』も終焉に差し掛かろうかという時代の置き土産であった。


***


 夏の風が梢を揺らしていった。

 新緑に覆われた山道を抜けた先に、その建物はあった。

 平屋建ての広大な木造家屋である。

 さんさんと降り注ぐ陽光の下、白い外壁はいかにも清々しい風情を醸し出している。

 周囲には低い柵が巡らされているが、それは外界と敷地内を区切るためというよりは、あくまで美観のために設えられたものであるらしい。

 柵の外に目を向ければ、建物を取り巻くように造成された遊歩道に沿って、色とりどりの花々が妍を競っている。


 建物まであと五十メートルほどのところで、アレクシオスは足を止めた。

 こちらに駆けてくるひとりの少女に気づいたためだ。

 藤色ラベンダーの髪がそよ風に揺れる。

 数年を経ても変わらない可憐な顔は、こころなしか以前よりも明るくなったようにみえる。

 

「久しぶり――アレクシオス‼」


 セイレーンはアレクシオスの傍らで立ち止まると、弾けるような笑顔を浮かべた。


「あのとき以来ね。今日はどうしたの?」

「仕事でこのあたりを通ることになってな。ちょっと様子を見ていこうと思ったんだ」

「また戎装騎士ストラティオテスが逃げ出したとか?」

「いいや……もしそうだとしても、今度は別のやつに任せるさ」


 からかうように問うたセイレーンに、アレクシオスは苦笑いを浮かべる。

 二人は建物の外周にそって整備された遊歩道を歩き出していた。


「バロマは元気でやってるか?」

「あの人は三週間前に逝ったわ。病期の進行を考えれば、ずいぶん長く持ったほうよ」


 おもわず言葉を失ったアレクシオスに、セイレーンはふっと微笑みかける。


「そんな顔しないでよ。彼、最期は笑ってたんだから。あなたにも感謝してた。こうしてベッドの上で死ねるのは、アレクシオスのおかげだって」

「おれはなにもしちゃいない」

「とぼけたって無駄よ。こんな立派な療養所が出来たのも、あなたが皇帝陛下に石膚病の患者が置かれてる状況を直訴してくれたからじゃない。ほんのすこし前に比べれば、まるで天国だってみんな言ってる」


 セイレーンの言葉には、心底からの感謝が込められている。


 あのあと――。

 アレクシオスは、セイレーンとともに死者の村の全住人を州都へした。

 患者たちをむんずと抱えたまま、黒騎士は文字通りひとっ飛びに砂漠を越えていったのである。

 そして、突然のことに困惑しきった州の高官に、被疑者である彼らを安全で清潔な場所にするように命じると、セイレーンを連れて帝都イストザントへと舞い戻ったのだった。

 

 皇帝ルシウス・アエミリウスの名義で南方辺境全域に詔勅が発給されたのは、それから数カ月後のこと。

 その内容は、およそ次の三点に要約することが出来る。


一、各州の行政府は、すべての市民を保護する義務を負う。

二、皇帝アウグストゥスより与えられた市民の権利は、いかなる病気や障害によっても毀損されない。

三、上記の不履行が認められた場合、その責任はに帰すものとする。

 

 これは、石膚病の患者がこれまでのような迫害と差別を受けた場合、各地の村長や町長、さらには州の最高責任者である州牧までもが責任を問われることを意味している。


 彼らは人が変わったように病人を保護し、手厚い治療を施すようになった。

 皇帝の叱責によって心を入れ換えた訳でも、にわかに善政に目覚めた訳でもない。

 そうしなければせっかく獲得した地位と特権を失うという恐怖が、彼らをして態度を改めさせたのである。


――政治とは、つまるところどうやって悪人に善人の仮面を被せるかということだ。一生外させないためには工夫がいる……。


 皇帝が晩年語った言葉どおり、たとえ本心ではどう思っていたにせよ、辺境の為政者たちは虐げられてきた人々のために施策を講じるようになったのである。


 南方辺境の各地に国立の療養所が創設されたのは、それからさらに数年後のことであった。

 今日アレクシオスが訪ったのは、そのなかでも石膚病を専門とする施設だった。


「あたしね、アレクシオスにずっとお礼を言いたかったんだ」

「おれは君に感謝されるようなことはなにもしていない」

「はぐらかしても分かってるわ。あたしが軍に戻されなかったのも、アレクシオスが裏で手を回してくれたからでしょう。『帝国』に戻っても、もう人殺しの道具にされないようにしてくれた……」


 アレクシオスは否定も肯定もしなかった。

 それを明確にすることに意味があるとも思えなかった。

 人間を愛し、人間とともに生きることを望んでやまなかった騎士は、もう二度と自身の意に反して人間を殺めることはない。

 どのような経緯を経たとしても、その結果だけで十分なのだ。


「ねえ、アレクシオス。あのときの言葉を覚えてる? ――騎士は人間の生き死にに関わるべきじゃない、って」

「……ああ」

「本当はあたしもおなじことを思ってた。だから、いまはありのままに任せることにしたの。あたしの歌は、病気と戦う人を応援するだけ。たとえ消えそうな生命でも、誰にも奪う権利はないはずだもの。バロマもそれがいいと言ってくれたわ」


 少女の言葉に、少年は満足げに頷いた。

 やがて遊歩道も終点に差し掛かったころ、アレクシオスはふいにセイレーンに視線を向けた。


「セイレーン、ひとつ頼みがある」

「あたしに出来ることだったら、遠慮なく言って」

「あの夜に唄っていた歌の続き、聴かせてくれないか」


 セイレーンはきょとんとアレクシオスを見つめたあと、ぱっと表情を輝かせた。

 アレクシオスの視界をいっぱいに埋めたのは、大輪の花がほころんだようなまばゆい笑顔であった。


「もちろん――よろこんで!」


 やがて少女の唇が紡ぎだしたのは、遠く去った恋人を偲ぶ悲恋の歌。

 切なく胸を打つはずの歌には、しかし、未来への希望がたしかに息づいている。

 それは絶望から立ち上がり、あらたに歩き出すための力にほかならない。


 伸びやかな歌声は風に乗り、高く澄んだ青空に響きわたっていく。

 アレクシオスは瞼を閉じたまま、いつまでも聞き惚れていた。


【終】

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