金羊館殺人事件

第209話 金羊館殺人事件(Ⅰ)

 銀糸のような細雨が天地を霞ませていた。

 まだ降り始めてさほど時間が経っていないためか、さいわいにも地面はぬかるんでいない。

 それも、今のところはそうであるというだけにすぎない。

 このまま雨が熄まなければ、未舗装の田舎道は遠からず一面泥の海と化すはずであった。


 時刻は正午を回ったところ。

 本来なら中天に輝いているはずの太陽は、低くたれこめた黒雲に隠されたままだ。

 大気は重くよどみ、時おり吹きつける湿った風は、早くも夜の気配を孕んでいる。


 いま、人気ひとけのない畦道を進む影がふたつ。

 どちらも丈の長い革製の雨合羽を頭から被っているため、顔はおろか性別さえ判然としない。

 旅人らしく、ひとりはひと抱えほどもある旅行用の行李を携えている。

 ふつうは馬車に積んで持ち運ぶ大きさの行李である。それを持ち歩いているだけでも人を驚かせるには充分だが、奇妙な点はそれだけに留まらない。

 旅人は、力自慢の男でも往生するであろう巨大な行李を軽々と肩に担ぎ上げたまま、雨のなかを突き進んでいる。

 

「ああもう、最悪っ!!」


 大股で泥を跳ね上げながら、旅人は苛立った声で叫ぶ。

 女――それも、まだ年若い少女の声だ。


「なんだってあたしが雨に降られなきゃいけないのよ!? 面倒な仕事を押し付けられたうえにこんな目に遭うなんて、とんだ災難だわ!!」


 雨合羽姿の少女は、自棄を起こしたみたいにさらに速度を上げる。

 もうひとりの旅人も、息を切らす様子もなく追従していく。

 何も知らない人間がこの場に居合わせたなら、あまりにも異様な光景に我が目を疑ったに相違ない。


「だいたい誰なのよ、こんな山ほど荷物詰め込んできたのは……」

「それはイセリアが自分で――」

「……分かってるわよ。ただ言ってみただけ!!」


 玲瓏な声で指摘され、イセリアはふんと拗ねたみたいに鼻を鳴らす。

 声の主――オルフェウスが持っているのは、イセリアとは対照的にごくちいさな旅行鞄だけだ。

 二泊三日の短いということもあり、本来であればこれだけの荷物で充分に事足りるのだ。

 出立の準備にあたって、イセリアは服から菓子類から、あれもこれもと手当たり次第に詰め込んでいった。

 膨れ上がった荷物は手持ちの旅行鞄に収まりきらなくなり、とうとう馬車旅行用の大型行李を持ち出す羽目に陥ったのである。

 それでも、帝都を出てしばらくは何の問題もなかった。

 主要な街道には駅馬車が往来し、それに乗っているあいだはまさしく馬車旅行そのものであったからだ。むろん、狭い車内に乗客がすし詰めになる乗合馬車の性質上、その内実はお世辞にも優雅とは言いがたいものではあったが。

 問題は、目的の場所に辿り着くためには、街道を外れた辺鄙な田舎道を通り抜けなければならないことだった。

 そのような道を巡回する公共の馬車は存在せず、当然ながら旅人は未舗装の荒れた道を自分の足で歩いていくことになる。

 折悪しく雨が降り出したのは、まさに二人が馬車から降りた直後のことであった。


「っとにもう、なんであたしたちがこんな仕事……」

「それはイセリアが引き受けたから――」

「ぜんぶ分かってるわよ。あんたにいちいち教えてもらわなくてもね!」

「『なんで』と訊かれたから答えただけだよ」

「そういうときは適当に相槌打っとけばいいの!! こんな大荷物背負って雨の中を走ってるだけでもウンザリなのに、あんたと話してると余計疲れて……」


 イセリアはそこで言葉を切った。

 雨に霞む視界の彼方に、あきらかに周囲の景色とは異質な物体を認めたためだ。

 常人にはそぼ降る雨によって蒼く烟った世界でも、イセリアの目にはまったく別の光景が広がっている。

 戎装騎士ストラティオテスの視覚器は、たとえ戎装していない状態であっても、数キロ先の物体を精確に捕捉することが出来る。

 

「ふん、ようやく見えてきたわね。遠くからでもよく目立つこと」


 イセリアはひとりごちると、ちいさく舌打ちをする。

 田舎道の彼方にうっすらと浮かび上がったのは、純古帝国風の城館だ。

 輝くような白亜の外壁と、整然と連なる太い列柱バシリカは、視界の悪い雨中にあってなお目を引く。

 見たところ城館の建つ一帯は小高い丘になっているらしく、斜面を回るように何棟かの建物が螺旋状に配置されている。

 その頂上でひときわ壮麗な威容をそびやかせるのは、するどく尖った屋根をいただく奇怪な屋敷であった。

 ひとつの丘をそっくり建物で覆ったかのような豪壮な佇まいは、しかし、鄙びた土地にはおよそ似つかわしくないものだ。


 その城館こそがイセリアとオルフェウスの目的地――金羊館きんようかんだった。


***


 騎士庁ストラテギオンに任務の依頼が舞い込んだのは、つい四日前のこと。

 依頼の内容はじつに簡明だった。


――身辺警護のため、貴庁の保有する戎装騎士ストラティオテスを数日のあいだわが屋敷に派遣して頂きたい。


 要人警護の依頼そのものはさほど珍しくない。

 なにしろ戎装騎士は『帝国』の最強戦力であり、一人ひとりが文字通り一騎当千の力を有しているのである。相手が人間であるかぎり、何人がかりで襲ってきたところで騎士の敵にはなりえない。

 おもに元老院からの要請で護衛対象のもとに騎士を派遣することになるが、依頼を受諾するかどうかの最終的な判断は長官であるヴィサリオンに一任されている。

 もし中央軍でも事足りると判断したなら、依頼を断る自由もあるのだ。

 アレクシオスが脱走した戎装騎士を連れ戻すために南部辺境に旅立った直後ということもあり、いったんは理由をつけて断ることも考えたヴィサリオンだったが、依頼主の名前がそれを許さなかった。


 ドロテアス。

 依頼を持ち込んだのは、誰あろう先の元老院副議長その人であった。

 かつては元老院議長デキムス・アエミリウスのもとで元老院きっての名政治家として名を馳せ、堂々たる体躯と豪放磊落な性格から”巨象エレパス”の二つ名でとみに知られた人物である。

 政治家としてだけでなく、やり手の実業家てしても名を馳せたドロテアスは、『帝国』でも指折りの資産家として知られている。一説には、議員の副業によって皇帝家にも匹敵する蓄財を成し遂げたとさえ言われているほどなのだ。

 いくらかの脚色と誇張はあるにしても、ドロテアスがかつて帝都イストザントの商店のほとんどに融資していたことは紛れもない事実である。


 そして、巨万の富を気づいた権力者の例に漏れず、ドロテアスには在職中から黒い噂が絶えなかった。

 いわく――元老院副議長の特権を利用して各州の収穫高をつぶさに調べさせ、穀物の先物市場で一人勝ちを収めた……。

 あるいは、かつて東方辺境が記録的な不作に見舞われた際、べつの地方で安く買い叩いた食料を法外な高値で売り捌き、貧しい人々から容赦なく財産をむしり取った……。

 そういった噂の真偽はさておき、政商ドロテアスを妬み恨む者は数知れない。

 彼の政界における出世がデキムスの次席に留まったのも、そうした評判の悪さが尾を引いたとするのが大方の見方だった。


 いまから二十年ほど前、中央軍の青年将校グループが世直しを掲げて武装蜂起に及び、汚職官僚や腐敗政治家を襲撃した一連の事件――いわるゆる”六月事件”でも、ドロテアスはまっさきに標的とされたのだ。

 ドロテアスは運よく難を逃れたものの、帝都市中ではその悪運の強さを揶揄し、一方で青年将校らの義挙を称える声が絶えなかったという。


 その”巨象”ドロテアスが年齢を理由に政界を退いたのは、いまから五年ほど前のこと。

 それ以来、ただの一度たりとも表舞台に姿を見せることはなく、風のうわさでは田舎に建てた屋敷でしずかに老後を過ごしているという。

 現役当時ならいざしらず、すでに隠居の身であるドロテアスがなぜいまごろ騎士庁に接触してきたのはさだかではない。

 それでも、かつての元老院の重鎮は、引退して数年を経たいまもなお政界に隠然たる影響力を持っている。

 そのような人物の依頼を無碍にはねつければ、騎士庁に対して有形無形の圧力がかけられることは想像に難くない。

 当代の皇帝ルシウス・アエミリウスとひとかたならぬ繋がりを持つ騎士庁ではあるが、それだけに他の官公庁や元老院との関係には気を遣う必要もある。

 かりに騎士たちの所属が他の部署に移るようなことになれば、現在のように人間と円滑な関係を維持出来るとはかぎらないのだ。

 辺境軍でたびたび生じている彼らの脱走・反逆事件は、『帝国』における戎装騎士の扱いの難しさを物語っている。


 どうしたものかと思案に暮れるヴィサリオンは、ちらとイセリアに目を向けた。

 アレクシオスが南部辺境に出立してからというもの、栗色の髪の少女は不機嫌を絵に描いたような膨れっ面で駄菓子を貪っている。

 どうやら任務に置いていかれたと思っているらしい。

 もっとも、アレクシオスとしては最初から連れて行くつもりもなかった以上、イセリアの憤慨は筋違いもいいところだった。

 ヴィサリオンはおそるおそる様子を伺いつつ、イセリアにそれとなく依頼の話を振る。


――はあ~? なんであたしが? そういうのはヒマなやつに頼みなさい!


 やはり……と、ヴィサリオンは肩を落としかけて、駄目元でぽつりと付け加えた。


――依頼主のドロテアス氏は『帝国』でも指折りの資産家として有名な方なのですが、嫌だと言うなら仕方ありませんね……。


 その瞬間、ヴィサリオンの背後ですごい音が起こった。

 イセリアが椅子から滑り落ちたのだ。

 やがてようよう立ち上がった少女は、さっきまでの不機嫌顔が嘘みたいに、表情を輝かせて首肯したのだった。


――べ、べつにお金目当てじゃないわよ! どうせここにいてもアレクシオスがいなくて退屈だし! それに、たまには帝都の外に出てみたくなったのよ!


 ただし、出張手当はたんと弾むこと――と、そう付け加えて、イセリアは口に入れたままの駄菓子をボリボリと噛み砕いたのだった。

 ヴィサリオンが安堵に胸をなでおろしたのもつかのま、あらたな不安がむくむくと首をもたげた。

 イセリアの無軌道でわがままな性格は、ヴィサリオンもよくよく知悉している。

 そんな彼女に単独行動の自由を与えたなら、どのような事態を招くか想像するだに恐ろしい。

 確実に任務を遂行させるためには、だれか然るべきお目付け役をつける必要がある。

 エウフロシュネーやラケル・レヴィ、レオンではとても役者不足だ。

 さりとて、皇帝直属の騎士であるタレイアとアグライアを動かす権限はヴィサリオンにはない。

 現在騎士庁に在籍している騎士のなかで、イセリアの暴走を止められそうな者といえばひとりしかいない。

 なおも一抹の不安を覚えながら、ヴィサリオンはを同行させることを決定したのだった。


 オルフェウスが同行することをイセリアが知ったのは、出立の朝のこと。

 旅装姿で大城門に立つ亜麻色の髪の少女を認めて、イセリアは目を皿のように見開いていた。

 

――ちょっと、なんであたしがこんなボンヤリした娘のお守りしなきゃいけないのよ!? せっかく楽しみにしてた旅行が台無しじゃない!! いままで隠してたなんて卑怯よ!! サイテー‼


 額の汗をしきりに拭いつつ、『これは旅行ではなく任務ですよ』とイセリアをなだめるヴィサリオンは、喉まで出かかったもうひとつの言葉をぐっと呑み込んだ。


 お守りをされるのは彼女ではなく、あなたのほうです――と。

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