第210話 金羊館殺人事件(Ⅱ)

 城館へと近づくにつれて、雨の勢いはさらに激しくなった。

 もともと整備されているとは言いがたい未舗装の田舎道は、早くも人馬の通行が困難な状態になりつつある。


 もっとも、どのみちこれから三日間は城館――金羊館きんようかんから出られないイセリアとオルフェウスにとっては、外の状況はさほど重要ではない。

 城館が建つ丘が地すべりを起こさないかという懸念はあるものの、近づいてみれば、大小の建物はいずれも段丘状の平地に作られていることが知れた。地中深くに打ち込まれている礎石ごと流されるようなことがないかぎり、どれほどの豪雨でも城館は小揺るぎもしないだろう。


「……にしても、こんな田舎によく作ったものね」


 正門にむかって駆けながら、イセリアはぽつりと呟いた。


「さすが『帝国』でも指折りの大金持ちってとこかしら。はーあ、あたしにもすこし分けてくれないかなあ」

「イセリアはお金が好き?」


 ふいにオルフェウスに問われて、イセリアは言いよどむ。

 例によって例のごとく。この娘の質問は簡素シンプルだが、答えにくい。

 イセリアはしばらくどう答えればいいものか思案したあと、珍しくためらいがちに言った。


「そりゃまあ、ね……そういうあんたはどうなのよ?」

「私はよく分からない」

「分からないって、あんただってちゃんと毎月お給料もらってるでしょ」

「ほとんど使わずに取っておいてあるから――」

 

 あくまでそっけないオルフェウスの答えに、イセリアはおもわず眉をひそめる。

 考えてもみれば、この娘は着ているものも代わり映えしない。

 自分のようにお菓子や服飾小物や化粧品や読み物をあれこれと購入している気配もまるでない。

 給料の使いみちといえば、日々の食事や公衆浴場の入湯料、それに最低限の被服費といったところなのだろう。

 つまるところ、どうしても必要なものだけということだ。


 イセリアは呆れたようにため息をつくと、オルフェウスをちらと横目で見やる。


「仕方ないわね。今度あたしがお金の使い方を教えてあげる。お金っていうのはね、使わないと大切さも分かんないんだから」

「そういうものなの?」

「そういうものなの!」


 そうこうするうちに、城館はすでに目睫の間に迫っている。

 騎士ストラティオテスの脚力は、戎装していない状態でも早馬を追い越すほどなのだ。

 イセリアはふと気づいたように、肩に担いでいた巨大な旅行用行李を

 依頼主以外は騎士のことをよく知らないはずだ。ならば、かよわい少女の外見に見当たった立ち振舞いをせねばならない。

 革の雨合羽に身を包んだ二人の少女は、それ自体もひとつの屋敷のように巨大な門構えへと吸い込まれていった。


***


「本日は遠いところをおいでいただき、ご苦労さまでございました」


 初老の紳士は、慇懃に言って白髪頭を下げた。

 上品な佇まいの西方人である。年齢は六十歳を過ぎたかといったところ。

 然るべき場所に身を置けば、彼自身もりっぱな貴族として通用するだろう。

 事実、イセリアは、玄関に現れた彼を最初この城館の主人だと思い込んだほどであった。

 同じく玄関に堵列して二人を出迎えた女中メイドや下男たちの様子から、どうやら彼もまた使用人のひとりであるらしいと気づいたのは、ついいましがたのことだ。

 

「私は家令のカガニスと申します。お待ち申し上げておりました、騎士庁のお役人様がた」

「話は通ってるみたいね。あたしはイセリア。こっちは――」

「オルフェウス」


 オルフェウスがイセリアに続いて雨合羽を脱いだのと、声にならぬどよめきが広がったのは、ほとんど同時だった。

 イセリアただひとりを除いて、その場の誰もが呼吸さえ忘れたように陶然と立ち尽くしている。

 それも無理からぬことだ。

 純金を惜しみなく練り込んだ絹糸のような亜麻色の髪。

 長く悩ましげな睫毛の下に息づくのは、柘榴石ガーネットのごとく澄んだ真紅の双眸。

 真夜中の初雪よりもなお淡い白皙の肌は、完璧に配された目鼻の造形をいっそう際立たせる。

 灯具の薄明かりに照らし出されたのは、どこか作り物じみた美貌の少女であった。


「だーっ!! なんであんたが顔見せるといつもそうなのよ!!」


 苛立たしげに叫んで、イセリアは両掌でオルフェウスの顔を隠す。

 呆けたように見つめていたカガニスと使用人たちも、はたと我に返ったようだった。


「あんたたちも客の顔に見とれてんじゃないわよ!! 見世物じゃないんだから!!」

「申し訳ありません。これは大変な失礼を……」

「まったく、あたしのときはみんな無反応なのに、ムカつくったら――」


 戛然かつぜんたる足音が聞こえたのはそのときだった。

 音のした方向に視線を向ければ、廊下の奥から近づいてくる人影が目に入った。

 突き出た腹を揺らしながらのしのしと進み出たのは、口ひげを蓄えた三十絡みの西方人の男だ。

 真鍮色の頭髪は貴族風に編み込まれている。あるいは宮廷でよく見られるように、取り外しが出来る頭鬘かつらかもしれない。


「これはこれは――よくぞこんな片田舎にいらっしゃいました。美しいお嬢さん、それに使も……」

「ちょっと待ちなさいよ。誰がお付きの召使いですって?」

「おや、違いましたかな?」

「あたしとこの娘は同格!! 主従でもなんでもないわ!!」


 イセリアは憤然と言って、を睨めつける。


「で、あんたがドロテアスさん?」

「とんでもない――ドロテアスは僕の叔父ですよ」

「じゃあ誰なのよ、あんた」

「僕はドロテアスの甥のマルシャン。こう見えて南部のメッサリアで貿易会社を営んでおります。お嬢さんがた、以後お見知りおきを……」


 あんたみたいに失礼でウザいヤツの名前、覚えたくもない――と言いさして、イセリアはぐっと言葉を呑み込む。

 現地に到着早々、不必要な面倒ごとを起こすのはいかにもまずい。

 なにしろ三日間はこの城館に滞在することになるのである。

 好むと好まざるとにかかわらず、ここは猫をかぶっておくに越したことはないのだ。


「ふふ……貿易会社を営んでいる、ですって。ものは言いようだわねえ?」


 あらたな声は頭上から投げ込まれた。

 周囲を見渡すまでもなく、イセリアとマルシャンは同じ方向に視線を向けていた。

 声の主は、胸元の大きく開いたドレスをまとった妖艶な美女であった。

 顔つきこそ西方人らしいが、髪は漆のように黒く艶めかしい。

 玄関に向かってせり出した中二階の手すりに上半身を預けながら、女は赤紫色の液体が充たされたグラスを口に運んでいる。


「僕の会社になにか文句でもあるのですか?」

「ええ、会社というのはもはや名ばかり。『西』との取引で大変な借金をお作りになって、その返済のために自慢の船も倉庫もとうに人手に渡ってしまったんでしょう?」

「失敬な――とはいえ、それ以上の侮辱は許しませんぞ!!」


 丸っこい顔を朱に染めたマルシャンは、女に向かって吠え立てる。

 イセリアは「叔母上?」と不思議そうな表情を浮かべたのも無理はない。

 女は見たところまだ二十五、六歳。濃い化粧をしていることを差し引いても、マルシャンより年上とは思えない。


「その呼び方はやめていただけない?」

「あなたがどう思おうと、法的にはそのとおりですからな。たとえ叔父上の財産目当てに籍を入れた後妻だろうとね」

「よく言うわ。あの人の財産を狙っているのはそちらでしょうに」

「僕はドロテアス叔父上の正当な後継者だ。お前のようなどこの馬の骨ともしれない商売女とは違う!!」


 商売女という女にとってこれ以上ないほどの罵倒に気色ばんだのも一瞬のこと。

 と呼ばれた女は、咳払いをひとつすると、イセリアとオルフェウスに視線を移す。


「それより、私もお客人に紹介させてくださいな?」

「勝手になさるがよろしかろう」

「私はドロテアスの妻のエレギア。騎士さまがた、お目もじ叶って光栄ですわ。短い間ですが、なにとぞよろしくお頼み申します」


 そうするあいだも、マルシャンは射殺さんばかりにエレギアを睨みつけている。

 叔母と甥のあいだにはよほどの確執があるらしい。

 二人の板挟みになった格好のイセリアとオルフェウスは、軽く会釈を返すのが精一杯だった。

 家令のカガニスや使用人たちも途方に暮れたようにその場に立ち尽くしている。

 

「二人とも、いい加減にせんか!!」


 ふたたび罵声の応酬が始まるかと思われたとき、雷鳴のような大音声だいおんじょうが玄関に響きわたった。

 いつのまにか開け放たれていた左手の扉からのっそりと姿を現したのは、ひとりの男だった。

 かなりの巨漢である。

 縦にも横にも幅のある胴体から伸びるのは、これもまた丸太みたいに太い四肢だ。

 それでも、マルシャンのように弛んだ印象を見る者に与えないのは、豊かな肉を支える逞しい筋骨のためだろう。

 身体つきだけなら壮年のようにも見えるが、白髪が目立つ頭と、深い皺の刻まれた顔貌は、男がすでに初老と呼ばれる年代に差し掛かっていることを告げていた。


「お、叔父上……!!」

「あなた……いつからそこに……?」


 マルシャンとエレギアの声には、隠しようのない驚嘆と恐れが滲んでいる。

 男は二人にするどい眼を向けると、心底から呆れたようにため息をついた。


「気分よく午睡ひるねを満喫していたのだがな。貴様らの罵り合いのおかげで目も覚めたわ。まったく……」


 ふんと鼻を鳴らすと、男はイセリアとオルフェウスに顔を向けた。

 厳しい顔を占めたのは、先ほどとは打って変わって、いかにも好々爺然とした微笑みである。


「おまたせして申し訳ない――わしがドロテアスだ。お二人には帝都から来てもらって早々、じつにお見苦しいところを見せてしまった。どうか許してもらいたい」


 現役時代とすこしも変わらぬ堂々たる体躯をそびやかせながら、”巨象エレパス”はいかにもすまなげに言った。

 相変わらず無表情を保ったままのオルフェウスに対して、イセリアはどうしたものかと視線を宙に泳がせている。

 やがてイセリアが思いついたように口にしたのは、この場所に来た目的の再確認だった。


「あー……えっと……あたしたちの仕事は、ドロテアスさんの護衛でいいんですよね?」


 イセリアが言い終わらぬうちに、マルシャンとエレギアの口吻がほとんど同時に火を吹いた。

 犬猿の仲の二人だが、無意識の行動に関してはなかなかどうして気が合うらしい。


「護衛だと? いったいどういうことだ⁉」

「あなた、説明してくださいまし。帝都から騎士を呼んだのは、今度の宴会の余興のためだと聞いてましたのに……」


 矢継ぎ早に疑問を投げかける甥と妻に耐えかねたのか、ドロテアスの巨体がイセリアと二人のあいだを遮った。

 その瞬間、巨大な壁が動いたように感じられたのは、あながち錯覚でもあるまい。

 ただの壁との違いは、四角の隅々まで怒りに満たされているということだ。


「ええい、黙らんか‼ 貴様らが口を挟む筋合いではない‼」


 ふたたびの怒声が空気を震わせた。

 イセリアまでもがおもわず耳に手を当てたなかで、オルフェウスはひとり我関せずといった様子で佇んでいる。

 ドロテアスはごほんとおおきな咳払いをひとつすると、二人の少女騎士をそれぞれ一瞥する。


「騎士のお二方、詳しい話はあちらの応接間に場所を移してからでよろしいか。……その二人には聞かれたくないこともあるのでな」


 その場でくるりと巨体を反転させたドロテアスは、イセリアとオルフェウスを伴ってさっさと玄関を後にする。

 遠ざかっていく巨大な背中を、残されたマルシャンとエレギアは、揃って呆然と見つめることしか出来なかった。

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