第211話 金羊館殺人事件(Ⅲ)

 テラスに面した応接間は森閑と静まりかえっていた。

 そぼ降る雨の音がやけに大きく聞こえるのは、けっして気のせいではない。

 ちょっとした広間ホールほどの面積がある室内を彩るのは、さまざまな形の陶磁器やガラス器だ。

 一見すると典型的な成金趣味にもかかわらず、不思議とそんな印象を与えないのは、飾られている品々のどれもが上品な風趣を帯びているがゆえだろう。


 広壮な応接間の中心で対峙するのは、一人の男と二人の少女だ。

 玄関からこの部屋まで同行してきた女中メイドは、三人分の茶を淹れるとそのまま退出し、いまや室内はおろか外の廊下にも人の気配は感じられない。


「楽にしてくれたまえよ」


 ドロテアスは鷹揚に言って、目の前に置かれた茶杯カップに手を伸ばす。

 ”巨象エレパス”と渾名されただけあって、掌も人並み外れて大きい。

 太くごつい指にちょこんと摘まれた白磁の茶杯は、ほとんどままごとの道具みたいにみえる。


 イセリアとオルフェウスは、ドロテアスと向かい合うように並んで座っている。

 天鵞絨ベルベットが敷き詰められた長椅子ソファはふかふかと柔らかく、イセリアはかえって居心地の悪さを覚えるほどだった。

 目の前で湯気をくゆらせる茶杯には、どちらも手を付けていない。

 外見はたおやかな乙女の繊手でも、戎装騎士ストラティオテスの腕力はドロテアスの比ではない。

 見るからに値が張りそうな茶杯をうっかり壊してしまうことへの気後れから、どうにも手を伸ばしかねているのだ。


「さて……まずはなにから話すべきか……」


 ドロテアスは茶をひと啜りすると、二人の顔を交互に見やる。

 わずかな沈黙のあと、ためらいがちに問うたのはイセリアだった。


「あのー……その前にひとつ質問いいですか? ちょっと失礼なことかもしれないんですけど」

「わしに答えられることであれば、なんなりと尋ねてくれたまえよ」

「もしかして、さっきの二人に生命を狙われてる、とか……?」


 おずおずと問うたイセリアに、ドロテアスは深く首肯した。


「その可能性は否定できん」

「でも、二人はご家族なんじゃ……?」


 ドロテアスの言葉には、隠しきれない失望と嘆きの響きがある。

 八割がたからになった茶杯を置いたドロテアスは、渋い顔で言葉を継いでいく。


「お恥ずかしい話だが、妻も甥もわしの遺産を虎視眈々と狙っておるのだ。わしが死ねば、あやつらのどちらかが財産を相続することになろう。むろんいくらかは国庫に返納することになろうが、それでも労せずして巨万の富を得ることにはちがいない……まったく、なんと浅ましき者どもよ」


 言って、ドロテアスはふうとため息をついた。

 厳しい顔には疲労の色が濃く浮かんでいる。

 かつて政財界にその人ありと称された”巨象”も、自分をたんなる金蔓としか見ていない妻と甥に囲まれて老後を過ごすうちに、逞しい心身をすっかり摩耗させたようであった。

 

「むろん、わしも身内のくだらん遺産争いのために騎士ストラティオテスを動かすほど耄碌してはおらん。これを見てもらいたい――」


 ドロテアスが懐から取り出したのは、一通の封書だった。

 封蝋はすでに破られている。ドロテアスが封を破り、すくなくとも一度は中身に目を通したという証だった。


「なんですか? これ?」

「読んでみたまえ。これが君たちを帝都から呼び寄せた真の理由だ」

「はあ――――」


 イセリアは封書を開くと、オルフェウスにも見えるように広げてみせる。

 宛名も差し出し主も不明の手紙には、次のような短い文章が記されていた。


――六月七日を憶えておいでですか。

――あの日に犯した罪を潔く認めるか、さもなくばその生命を以って償うか。そのどちらかを選んでいただきます。

――願わくば、貴卿が賢明な選択をされんことを。


 手紙の内容にひと通り目を通したイセリアは、おもわず小首をかしげていた。

 おそらくドロテアスに向けた脅迫状なのだろうそれは、しかし、あまりにも曖昧模糊としたことしか書かれていない。

 かろうじて「生命を以って償う」という一文が殺害を仄めかしていることは分かるものの、なぜ脅迫状の差し出し主がそのような行動に及ぼうとしているのかは、イセリアには見当もつかない。

 訝しげな雰囲気を察したのか、ドロテアスのほうが先に口を開いた。


「君たちは”六月事件”を知っているかね」

「たしか、いまから二十年くらい前に中央軍の将校が気に入らない政治家や官僚を襲ったっていう……」

「そのとおり。十七人の元老院議員と五十五人の幹部官僚が殺され、最終的な死傷者は五百人あまりに上った大事件だ。事件が起こったのは、まさに六月七日のことだった」


 いかにも苦々しげに言って、ドロテアスは眉根を寄せる。

 イセリアたちにとっては生まれる前の出来事だが、目の前の老漢にとってはつい先日のことのように感じられるのだろう。

 爪が皮膚に食い込むほどに拳を強く握りしめながら、ドロテアスはぽつりぽつりと語りはじめた。


「わしはあの事件でまっさきに槍玉に挙げられた。世直しを叫ぶ青年将校どもは、わしがみずからの職権を濫用して国家の財政をほしいままにし、貧民から法外な暴利を貪っておるなどと喧伝しおったのだ。すべては根も葉もない言いがかりよ」

「それで、どうなったんですか?」

「危ういところだったが、かろうじて難を逃れることは出来た。……そのために払った犠牲はけっして小さくはなかったがな。最初の妻と一人息子を失ったよ」


 ドロテアスは両目を閉じると、そのまま顔を俯かせた。

 まるで天上の神にすがるような所作は、”巨象”の二つ名に反して、ひどく繊細で神経質な印象をイセリアたちに与えた。

 もっとも、妻子を同時に失った痛恨時に思いを馳せているのであれば、それも当然といえた。


「ともかく、この手紙の差し出し主は、あの事件の再演をしようという腹積もりなのだろう」

「犯人に心当たりは? まさか昔と同じっていうわけじゃ……」

「”六月事件”の首謀者は全員が処刑されておる――が、いまもあの狂った若造どもに共感する者は少なくないという。そのような輩なら、二十年越しの遺恨を晴らそうとしても不思議はなかろう」


 ドロテアスは唸るように言って、丸太のような両腕を組む。


「今日は六月六日だ。明日を無事に乗り越えるまで、君たちにはわしの身辺警護を頼みたい」

「それだけだったら、なにもあたしたちでなくても……」

「ならば、わしの警護はいったい誰に頼めばいい? まさか中央軍にかね?」

 

 ドロテアスにすかさず反問され、イセリアは言葉を飲んだ。


 世直しの大義名分を掲げ、『帝国』史上まれにみる凶行に及んだ青年将校たちを輩出したのは、ほかならぬ中央軍なのである。

 そんな中央軍とドロテアスの対立は、事件を経てますます深まっていった。

 たとえば――いまから十五年ほど前、ドロテアスは財政健全化という名目で中央軍の規模縮小を主張し、実際に帝都防衛軍団から二個師団を削減することに成功している。

 財政健全化というもっともらしい大義名分を掲げてはいるものの、実際は自分を殺そうとした軍部への報復措置であることは誰の目にも明らかだった。

 第二次”六月事件”の勃発も危惧されるなか、中央軍は表向きはあくまで沈黙を守った。

 それでも、軍内部での軍縮への反発は凄まじく、公然とドロテアスの殺害を口にする者も後を絶たなかった。

 けっきょく両者の関係は最後まで修復されることなく、ドロテアスが元老院議員を辞職した日には、中央軍総司令部から祝砲が打ち上げられたほとであった。


 都合が悪いことに、中央軍はたんなる軍事組織というだけでなく、帝都周辺の警察組織を兼ねている。

 帝都からさほど遠くない場所に建つこの金羊館も、中央軍の管轄内にあるのだ。

 これまでの経緯を鑑みれば、うかつに中央軍に保護を求めることは、かえってドロテアス自身の生命を危険に晒しかねなかったのである。

 彼ら自身も帝都における有力な政治勢力である中央軍は、かつての敵対者をあたたかく保護してくれるほど善良で公正な組織ではないのだ。

 政敵を事故や自殺に見せかけて暗殺することは、『帝国』の歴史においてさほど珍しくはない。

 まして、相手がすでに元老院議員の肩書を手放しているとなれば、彼らにとって遠慮する理由はないはずだった。


 かくなるうえは、私的に用心棒を雇い入れるか、を頼るかのどちらかにひとつ。

 もっとも、すでに引退したとはいえ、政界の大立者が市井の用心棒と接点を持つというのはいかにも外聞が悪い。

 任務もそこそこに金品を持ち逃げされるならまだいいほうで、最悪の場合は用心棒が凶賊となって依頼主に襲いかかってくるおそれもある。


 悩んだすえに、ドロテアスはもうひとつの選択肢――すなわち、騎士庁ストラテギオンに白羽の矢を立てた。

 騎士庁は言うまでもなく中央軍とは別個の組織であり、さらに戎装騎士は一人ひとりが万単位の兵士に相当する実力を有している。

 いまも元老院に隠然たる影響力を持つドロテアスにとって、は元老院直属の組織である騎士庁を動かすことはさほど難しくない。

 この金羊館に騎士たちを呼び寄せたのは、現状で選びうる最良の選択肢であるはずだった。


(それにしても、さっきからなんか引っかかるのよね――――)

 

 理屈の上ではなるほど筋が通っているが、イセリアはどうにも腑に落ちなかった。

 脅迫状を送った者の正体は判然としないが、たんなる脅しという可能性も充分ある。

 あるいは、本当にドロテアスを襲撃するつもりだったとしても、犯人の数はたかが知れているはずだ。

 そんなことのためにわざわざ自分たちがここまでやってきたと思うと、おもわずため息が漏れそうになる。

 だいたい、警護を依頼しておいて帝都まで迎えも寄越さないというのはどういう了見なのか。

 不満を隠そうともしないイセリアの表情は、しかし、次の瞬間にドロテアスが発した一言によって嘘みたいに明るくなった。


「ともかく、わしは君たちの力を信じて警護を任せようというのだ。みごと任務を成し遂げたなら、それに見合うだけの謝礼はさせてもらうつもりだよ」


***


 イセリアとオルフェウスが応接間を出ていったあと、ひとりその場に残ったドロテアスは、近くの戸棚からガラスの容器を取り出した。

 酒瓶だ。

 透き通った中身は、それが東方で古来から作られている度数の高い蒸留酒であることを示している。

 コルク栓を抜くなり卓上の茶杯に酒を注いだのは、茶道具の扱いとしてはまずもって許されないマナー違反である。

 知ったことかとばかりに茶杯を呷ったドロテアスは、酒精アルコールを含んだ熱い息をどっと吐き出した。


「まさか、奴が生きているはずはない……しかし……」


 ドロテアスは、懐からひと切れの紙片を取り出す。

 横長のそれは、イセリアたちに渡した手紙の下半分だ。

 あらかじめ鋭利なナイフで裁断しておいたのである。

 少女たちにはあえて見せなかったその部分には、送り主の名前がはっきりとしたためられている。

 ドロテアスは、早くも酔いが回り始めた目でその名前を見つめる。


「わしはここまで上手くやってきたのだ。いまさら貴様に邪魔などさせんぞ。二十年前の亡霊め――――」


 雨音に支配された応接間には、その呟きを聞く者とていない。

 ”巨象”の落ち窪んだ瞳の奥で燃えさかるのは、凄まじい憎悪の炎だった。

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