第212話 金羊館殺人事件(Ⅳ)

 雨まじりの風が広大な庭園を渡っていった。

 大気は夏も間近の六月とは思えないほどに冷え込んでいる。

 ドロテアスの元を辞したイセリアとオルフェウスは、女中メイドに先導されて長い渡り廊下を進んでいく。

 二人が向かっているのは、ドロテアスが起居する屋敷のすぐとなりに建てられた別館だ。

 金羊館には来客者ゲストのための豪奢な部屋も存在するが、要人警護という任務の性質上、依頼主のそばを離れることは出来ない。

 何事かあればすぐに飛び出せるようにと、二人は使用人が寝泊まりする一室をあてがわれたのだった。


「それにしてもさぁ……」


 イセリアはオルフェウスをちらと横目で見ると、ひとりごちるみたいに言った。


「なーんか引っかかるのよね」

「なにが?」

「さっきの話よ。あのジジイ、絶対なにか隠してると思わない?」


 イセリアは先を進む女中に聞こえないように声を抑えながら、なおも続ける。


「あの脅迫状にしたってそうよ。あたしは身内が送ったんじゃないかと思うんだけど」

「私にはよく分からない――」

「ま、あたしたちにはどっちでもいいけど。とにかく明日一日守りきれば謝礼がもらえるっていうんだから、適当にこなしてさっさと帰りましょ」


 と、言い終わらぬうちにイセリアははたと足を止めていた。

 視線の先にあるのは、庭園の一角に作られた花壇だ。

 あふれんばかりに植えられた多種多様な花々は、氷雨に打たれながら、互いに妍を競うように咲き誇っている。

 そのなかにあって、ひときわ目を引くあざやかな花がある。

 紅色と薄紫が玄妙に入り混じった花弁の色合いは、おぼろな雨靄あまもやに包まれて、どこか浮世離れした風情すら醸し出している。


「なんの花かしら、あれ?」


 イセリアは花壇を見つめながら、誰にともなく言った。

 

「あんなきれいな花、帝都の花屋でも見たことないわ。あんた、知ってる?」

「ううん――私も初めて見た」

「せっかくだし、近くで見てみましょ」


 女中の制止にも聞く耳を持たず、イセリアは花壇にむかって駆け出していた。

 そのまま吸い寄せられるように花弁に手を伸ばそうとしたときだった。


「それにさわるな!!」


 突然の叱声に、イセリアはびくりと背筋をこわばらせた。

 声のした方向に顔を向ければ、いつのまに現れたのか、ひとりの青年が雨に打たれている。

 年齢は二十五、六歳といったところ。くすんだ真鍮色の髪と青白い肌から、西方人であることはすぐに知れた。

 たっぷりと雨を含んだ前髪が鼻のあたりまで垂れ下がっているために、顔かたちは杳として伺えない。

 右手に剪定鋏を持っていることから、どうやら花々のあいだにうずくまって庭仕事をしていたらしい。

 まるで幽霊みたいなその出現に、イセリアはすっかり面食らったようだった。


「な、なによ? あたしは花を見てただけだけど?」

「いま花びらにさわろうとしていただろう」

「ちょっとさわるくらいべつにいいじゃない。べつに持ち帰ろうって訳じゃないんだし……」


 青年は呆れたようにため息をつくと、皮肉っぽい微笑を浮かべる。


「なにも知らないんだな。いちおう言っておくが、その花は毒草だ」

「毒!?」

「そうだ。害虫避けのために植えてある。素手で触れれば皮膚がかぶれるし、うっかり口に入れようものなら死ぬことになる……」


 青年の言葉を耳にするや、イセリアは反射的に指を引っ込めていた。

 猛毒とはいうものの、それはあくまで人間に対してそうであるというだけのことだ。

 どんなに強力な毒も、戎装騎士ストラティオテスにはなんらの効力も発揮しないのである。

 とはいえ、そのような毒物にはできるだけ触れたくないと思うのも、人間とまったく同じ心理を持っている以上は当然の反応でもあった。

 イセリアはばつが悪そうに横を向くと、消え入りそうな声で青年への感謝を述べる。

 

「あ、ありがと……教えてくれて」

「分かったなら、もう花壇に近づくなよ。その花だけじゃない。この庭に生えているものに勝手に触れるな」

「ちょっとあんた、言ってることはもっともだけど、もうすこし言い方ってもんがあるんじゃない? あたしたちはこう見えても――――」

「帝都から派遣されてきたストラなんとかって役人だろう。旦那様から聞いているよ」

「だったらなおさら……」

「招待されたお客様ならともかく、仕事で来ているだけの役人に愛想をふりまく義理はないんでね」


 青年はあくまで無愛想に言って、濡れた前髪をかきあげる。

 イセリアがおもわず眉根を寄せたのは、人を喰ったような態度に腹を立てたばかりではない。

 伝法な言葉遣いに反して、あらわになった青年の顔貌は、意外なほどの気品を湛えていた。


「俺はダミアン。旦那様から庭と酒蔵の管理を任されてる。この屋敷にいるあいだはせいぜいお行儀よく頼むぜ、手くせの悪いお嬢さん」


 言い終わるが早いか、ダミアンの背中はそのまま樹々のあいだに消えていった。


***


「あーもうっ!! なんなのよ、あいつ!!」


 部屋に着くなり、イセリアは耐えかねたように叫んでいた。


「そりゃあたしだって勝手に花にさわろうとしたのは悪かったけど……いくらなんでも失礼すぎるわ!!」

「イセリア、落ち着いて……」

「言われなくても落ち着いてるわよ。ふん――」


 やり場のない苛立ちを発散するように、イセリアは雨に湿った旅装を乱暴に脱ぎ捨てていく。

 下着姿になるまでには一分とかからなかった。

 前もって部屋に運ばせていた荷物のなかから普段着を取り出そうとして、イセリアは気づいたようにオルフェウスを見やる。


「あんたは着替えないの?」

「いいよ。私は雨に濡れてないし、それにあまり着替えを持ってきてないから」

「仕方ないわね――」


 ぶっきらぼうに言って、イセリアは荷物に手を突っ込む。

 次の瞬間、オルフェウスに投げつけられたのは、折り畳まれた上下の衣服だった。

 衣服を手にきょとんと立ち尽くす亜麻色の髪の少女に、イセリアは早口気味にまくし立てる。


「あたしの貸したげる。言っとくけど、今回だけよ」

「いいの?」

「ちゃんと洗って返しなさいよね」

 

 ぷいと顔を背けたのは、イセリアなりの照れ隠しだ。

 そうとはつゆ知らず、オルフェウスはいそいそと服を脱ぎはじめる。

 互いに背を向けたままの少女たちのあいだを、かすかな衣擦れの音だけが満たしていく。

 と、イセリアはふいに片眉を吊り上げた。

 オルフェウスの荷物の少なさに思い至ったのである。

 もしや、この娘は最低限の衣服さえ持ってきていないのではないか。

 ありえないことではない。世間の常識が通じないことは、これまでの付き合いで何度も思い知らされている。

 

「ねえ、あんた、自分の下着くらいちゃんと持ってきて――」


 顔の半分だけ振り向いたところで、イセリアは塑像と化したみたいに硬直した。

 その程度で済んだのは、かろうじて正視しなかったおかげかもしれない。


 オルフェウスは何をするでもなく、そこに佇んでいただけだ。

 その姿には何の変哲もない――ただひとつ、一糸まとわぬ裸身であることを除けば。


 薄暗い部屋の中にあって、遮るものとてない白い裸体はひときわ輝いてみえた。

 透きとおった乳白色の雪膚は、まるで内側から光り輝いているみたいな錯覚を見る者に抱かせる。

 女性らしい優婉な丸みを帯びながら、贅肉とは無縁のしなやかな肢体が形作るのは、一点の破綻もない完璧な輪郭だ。

 絹糸のような金髪は、やわらかな曲線を描く乳房から腹、そして太腿へと流れ、えもいわれぬ美相を呈している。

 過ぎ去りし古帝国の時代、空前絶後の高みへと至った写実彫刻の名品も、圧倒的な天与の造形に比すれば、しょせん人の手になる石細工にすぎない。

 イセリアの目交を埋めたのは、それほどみごとな肉体美であった。


 気死したように棒立ちになっているイセリアに、オルフェウスは不思議そうに首をかしげてみせる。


「どうしたの?」

「あ、あんた……なんて格好してんの……」

「せっかくだから下着も新しいのに替えようと思って。イセリア、顔が赤いけど、大丈夫?」

「な、なんでもない!! それより、さっさと着替えなさい!!」


 上ずった声で叫ぶと、イセリアはふたたびオルフェウスに背を向ける。


(あたしってば、なに慌ててんのよ。あの子の裸なんてお風呂で何度も見たことあるのに、バカみたい――)


 脳裏にくっきりと焼き付いた美しい残影をかき消すように、イセリアはぶんぶんとかぶりを振る。

 あたしは女になんてこれっぽっちも興味ないんだから……と、心の中で強く念じながら。


***


 その夜――。

 天地を覆う夜闇がどれほど濃くなっても、金羊館からすっかり灯火が消えることはない。

 ことに丘の頂上に建つ本館には、日没と同時におびただしい数の灯具が掲げられ、夜通し周囲にまばゆい光を振りまくのが常だった。

 さしたる目的も理由もなく、一夜のうちにむなしく蕩尽される油は、一般的な家庭の三年分にも相当する。

 『帝国』屈指の大富豪だけに許された、それは夜ごとの贅沢であった。


 いま、晩餐が終わって小一時間ほどが経った食堂には、ドロテアスとマルシャン、そして家令のカガニスだけが残っている。

 ドロテアスが就寝前の晩酌を楽しんでいるところに、マルシャンが半ば強引に押しかけたのである。


「どうもいけませんなあ、これは……」


 窓の外を眺めながら、マルシャンはわざとらしく呟いた。

 眺めると言っても、何が見える訳でもない。

 一面に墨を塗り込めたような夜闇にかろうじて認められるのは、篠突く雨の紗幕だけだ。

 雨の勢いは、日没とともにますます激しさを増したようだった。

 先ほどから聞こえる地鳴りのような轟音は、凄まじい量の水が大地を洗う音にほかならない。

 窓の傍らに立ったマルシャンは、外の景色とドロテアスのあいだで忙しなく視線を往復させている。

 

「どうやら近くの川が氾濫したようですな、叔父上」

「そんなことは言われずとも分っておる」

「この城館は高台にあるのでひとまず心配はないでしょうが、水が引くまでは身動きが取れませんなあ」


 ドロテアスはカガニスに葡萄酒を注がせると、赤紫色の液体に満たされた酒盃グラスを鼻に近づける。


「ずいぶんとうれしそうだな、マルシャン」

「うれしいですって? とんでもない。叔父上ともあろう御方が、このようなときにお戯れを申されては……」

「わしを侮るでないわ。貴様の肚はとうに読めておる」


 落ち着き払ったドロテアスの言葉には、刃物のような鋭さがある。

 マルシャンは平静を装ってはいるものの、その視線はあてどなく宙をさまようばかりだった。

 たるみきった二重顎から滴るのは、暑くもないのに吹き出た汗の粒だ。


「貴様が二十年ぶりにわしのもとを訪ねてきた理由はひとつしかない」

「ぼ、僕は隠居なさった叔父上の無聊をお慰めするために……」

「とぼけるな。……貴様が自分の会社を潰し、十二億ディナルもの負債を抱えていることはとうに調べがついておる。まともに働いては子孫こまごの代までかかってもとても返しきれん額だ。だが、わしの遺産を相続することが出来れば、完済して釣りが来ような」

「叔父上っ!! どうか僕の話を聞いてください!!」

「貴様の話にわしが耳を傾けるほどの値打ちがあるのならばな。いつまでわしのところに居候するつもりかしらんが、借金取りから不出来な甥を庇ってやるつもりはないぞ」


 すげなく言って、ドロテアスは手にした酒盃に口をつける。

 マルシャンは悔しさに肩を震わせながら、血がにじむほどに強く唇を噛みしめている。

 叔父は自分に虫けらほどの価値も見出してない――。

 冷酷な事実をあらためて突きつけられ、資産家崩れのはいまにも泣き出しそうになっていた。

 

「まったくですわね」


 ふいに生じた艶めかしい声に、ドロテアスは悠然と、マルシャンはバネ仕掛けの玩具みたいな勢いで背後を振り向いていた。

 食堂の入り口から、藍色のドレスに身を包んだ美女が二人のほうへ近づいてくる。

 妖艶な笑みを浮かべたエレギアは、マルシャンに冷たい視線を送る。

 

「本当に現金な人だこと。主人が現役の元老院議員だった頃は怖がって近づきもしなかったくせに、隠居するやいなや毎月山のように借金を無心する手紙を送りつけてきたのですからねえ?」

「あなたも貴婦人のなら、言葉には気をつけていただきたい。いくら叔母上とはいえ、それ以上の侮辱は聞き捨てなりませんぞ」

「その言い方はやめてくださらない。それに、わたくし嘘はひとつも申しておりませんことよ」


 勝ち誇ったように高笑いを上げた若妻に、ドロテアスは鋭い視線を注ぐ。

 射抜くような眼光は、先ほどマルシャンに向けらたときに劣らず冷えきっている。


「エレギア、お前もそこのたわけ者と大差なかろう」

「なんとおっしゃいました?」

「お前があれこれと理由をつけて外に出かけるたび、間男と逢瀬を繰り返しておるのをわしが知らいでか。それも一人や二人ではない……」

「あなた、それは誤解です‼」


 青ざめた顔で叫んだエレギアにはもはや目もくれず、ドロテアスはのっそりと椅子から立ち上がる。

 すでに葡萄酒の瓶をひとつ空にしているにもかかわらず、”巨象エレパス”の足取りは確固たるものだ。

 くいと指を曲げて白髪頭の家令を差し招いたドロテアスは、二人以外には聞き取れない声で何事かを命じる。


「わしはもう休む。カガニス、わしがいいと言うまで誰も部屋に近づけてはならんぞ」


 ゆるゆると動き出した広く太い背中にむかって、エレギアは常にも増して甲走った声を張り上げた。


「待ってください! あなた、わたくしはまだお話が……」

「お前と話すことはなにもない。マルシャン、貴様もよく聞いておけ」

 

 呆然と突っ立ったままの妻と甥をそれぞれ一瞥したドロテアスは、低い声で告げる。


「くれぐれもわしの部屋に無断で近付こうなどとは思わぬことだ。護衛が一晩じゅう目を光らせておるからな」

「あの娘たちのことですか? 騎士は奇妙な術を使うと聞いておりますが、どちらもしょせん小娘ではありませんか‼」

「小娘か。なにも知らぬ者にはそのように見えような」

 

 ドロテアスは意味深長な笑みを浮かべる。

 それも一瞬、ふたたび険しい表情に戻った老富豪は、底冷えのする声で念を押した。


「ともかく、わしの言いつけを破った愚か者は、おそろしい鉄の怪物に喰い殺されるとおもえ。たとえ何人であろうとな――――」



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