第213話 金羊館殺人事件(Ⅴ)

「それにしてもヒマねえ……」


 心底から退屈そうに言って、イセリアはあくびを放つ。

 ドロテアスの寝室へと続く回廊はしんと静まりかえって、雨音だけがやけに喧しい。

 イセリアとオルフェウスは、回廊に二つ並んで置かれた椅子に腰掛けている。

 むろん、夜どおし要人警護の任に就くためだ。

 すでに二人が配置についてから三時間あまりが経過している。

 時刻は夜半を回ろうとしているが、いまのところ変わったことは何も起こっていない。

 ドロテアスの寝室は厳重に施錠され、窓もないために外部から侵入されるおそれはない。そのうえ廊下を騎士二人が固めているとなれば、警備は万全と言っていいはずだった。


「これ、暇つぶしにこっそり持ってきてよかったわ」


 言って、イセリアは懐から一冊の本を取り出す。

 見るからに質素な装幀のそれは、帝都イストザントの書肆しょし(本屋)で広く販売されている安価な小説本である。

 帝都ではこの種の書籍が毎週のように発売され、市民の貴重な娯楽となっている。


「イセリア、なにを読んでるの?」


 ふいにオルフェウスに問われて、イセリアは紙面に落としていた視線をちらりと上げる。


「最近帝都で流行ってる小説。……なによ、もしかしてあんたも読みたいわけ?」

「ただ気になっただけ。私はそういうの読まないから」


 イセリアはふんと鼻を鳴らすと、ふたたび懐に手を突っ込む。


「もう一冊持ってきてるから、読みたければ貸してあげてもいいわ」

「いいの?」

「これも勉強よ。あんたもすこしは流行はやりってものに敏感になりなさい」


 ぶっきらぼうに言って、イセリアはさらに懐から一冊の本を取り出すと、そのままオルフェウスに突き出す。

 やはり質素な装幀の小説本である。

 見るからに紙質がいるのは、もともと中古で手に入れたか、あるいは何度も読み返したためだろう。

 糊でページを綴り合せただけのこうした廉価本は、そのぶん劣化も早いのだ。


「『伯爵令嬢エマルディーヌの恋と情熱』……?」

「これ、すこし前まで恋愛もので一番人気があったの。あたしは一晩で読み終わっちゃったけど、まあまあ面白かったわ。あんたもこういうの読まなきゃダメよ」

「そうなんだ」


 オルフェウスは本を受け取ると、しばらく表紙を眺めたあと、に指をかけた。


「……エマルディーヌの熱く沸き立った愛の源泉に、王子のたくましいつるぎが突きつけられた。十七年のあいだ堅く守り続けられてきた乙女の最後の砦は、いままさに陥落の時を迎えようと――――」


 オルフェウスが玲瓏な声で一文と読み上げたのと、イセリアが椅子からずり落ちたのは、ほとんど同時だった。


「どこから読んでんのよ!! バカ!! 変態!!」

「このページの端が折ってあったから……」

「あんた、本の読み方も知らないの!? 最初から読みなさい!! それと、いちいち声に出すんじゃないの!!」

「イセリア、顔が赤いよ。大丈夫?」

「誰のせいでそうなってると思って――」


 と、ふいに足音が生じたのはそのときだった。

 イセリアとオルフェウスは一斉に音がした方向へ視線を向ける。

 回廊の向こうから近づいてくるのは、手押し車カートを押したひとりの男だった。

 見覚えのある顔に、イセリアはおもわず眉根を寄せる。

 昼間、庭園で出会った青年――ダミアンであった。


「こんな時間におしゃべりか? お役人ってのは気楽でいいよな」


 ダミアンはおどけた調子で言うと、二人の少女をそれぞれ一瞥する。

 すでに使用人のほとんどは眠りについている時間である。

 青年がひとりで屋敷内を出歩いていることは、いささか奇妙でもあった。


「あんたこそ、なんの用? ここは朝まで立入禁止よ」

「夕食前に旦那様に頼まれたんだ。寝酒を適当に見繕ってくれ――ってな」


 そっけなく言って、ダミアンは手押し車から一本の瓶を取り出す。

 紙のラベルが巻かれた細長いガラスの容器を充たすのは、淡紫色の液体だ。

 葡萄酒ワインだということはひと目で知れた。

 千年以上前の古帝国時代から、『帝国』の上流階級が嗜む酒といえば葡萄酒と決まっている。

 それに対して、焼酒あるいは白酒と呼ばれる東方原産の蒸留酒は、もっぱら東方人が愛飲する下劣な飲み物とされているのである。

 かつて政界の重鎮として名を馳せたドロテアスが口にするのは、言うまでもなく最高級の葡萄酒だけなのだ。


「俺は酒蔵の管理も任されてると言っただろう。旦那様がお飲みになる酒を選ぶのも仕事のうちだ」

「こんな夜中じゃもう寝てるんじゃないの?」

「旦那様はいつも夜更けまで読書と書き物をなさる。それから俺が運んできた寝酒を飲み、明け方ちかくになってようやく床に就くのさ」


 ダミアンは酒瓶を手押し車に戻すと、憮然とした表情で廊下の突き当りを見つめる。


「さ、分かったらそこを通してくれないか。寝酒がないと旦那様の機嫌が悪くなる」

「毎晩こんな遅くまで起きてなきゃいけないなんて、あんたも大変ね」

「これも日課だからな――」


 そのまま目の前を通り過ぎようとしたダミアンに、イセリアは鋭い声を投げた。


「ねえ、あんた。たかが一本の酒のために手押し車を使うわけ?」

「まさか。一本だけならこんな大仰なものを使いはしないさ」

「どういうこと?」

「今日は奥様からも酒を持ってくるように頼まれたんだよ。そっちはもう届け終わったがな。いまごろ食堂で飲んだくれているだろうさ」


 ドロテアスの寝酒とは別に、エレギアのためにダミアンが酒蔵から取り出した酒は、一本や二本では済まない。

 夫に不貞をまんまと暴かれ、犬猿の仲であるの前で恥をかかされたエレギアは、家令のカガニスを巻き込んで自棄酒を呷っている最中だった。

 ダミアンが見繕ったのはどれも高級とは言いがたい安酒ばかりだが、銘柄や等級の違いなどいまの彼女には分かるはずもない。

 そのような人間に上等な酒を提供することは、みすみす美酒をドブに捨てるのと変わらないのだ。


「さて、俺はこのまま旦那様の部屋に行っても構わないかな?」

「ええ。念のためあたしもついていくけど」

「用心深いことだ」


 ダミアンと話しながら、イセリアはオルフェウスに目配せをする。

 この男が妙な素振りを見せたならすぐに制圧しろ――と、そう言外に告げているのだ。

 むろん、それだけならイセリアひとりでも事足りる。

 それでも念には念を……というよりは、自分がこの場における指揮官であることを示すためのイセリアなりのポーズであった。


***


「ご苦労だったな」


 ドロテアスは鷹揚に言って、ダミアンの手から酒瓶を受け取った。

 灯火に照らし出された葡萄酒の微妙な色合いを愛でるように、老主人はしげしげと矯めつ眇めつしている。

 イセリアは部屋の入口に立ったまま、二人のやり取りを眺めている。


 窓のない部屋は意外なほどこじんまりとして、四面の壁がいやに近く感じられる。

 さりげなく指先で壁をなぞってみれば、木目調の壁紙を通して硬い感触が伝わってきた。

 暗殺者が外部から侵入するのを防ぐために、煉瓦を組んだ上に何重にも板を敷き詰めているのだ。一分の隙もなく密閉された室内には、人間はおろかネズミ一匹入り込むことは不可能だろう。

 さらに外界と室内を繋ぐ唯一の出入り口には、かんぬきと金属錠を備えた分厚い扉がある。

 イセリアのような戎装騎士ストラティオテスならばいざしらず、常人の膂力では、何人がかりでも打ち破ることは出来そうにない。

 貴人の寝室というよりは、むしろ牢獄といったおもむきの部屋であった。

 

「では、旦那様……」

「うむ」


 ドロテアスが頷くが早いか、ダミアンはすばやく栓を抜いていた。

 ゆたかな葡萄の香気がぱっと部屋じゅうに広がる。

 葡萄酒のなかでもよく熟成された特級品だけが醸し出す玄妙な芳香に、イセリアは無意識に鼻を動かしていた。


「失礼いたします――」


 ダミアンは卓上に置かれたガラスの酒盃グラスに葡萄酒を注ぎ終えると、迷わずに自分の口へと運ぶ。

 そのまま音もなく酒を流し込んだダミアンにむかって、イセリアはおもわず身を乗り出していた。


「ちょ、ちょっと! それ、あんたが飲んじゃうの!?」

「毒見をしているだけだが。旦那様のお口に入る前に、こうして異常がないか確かめている」

「あっ……」


 にこりともせずに言ったダミアンに、イセリアは「知ってたわよ」と苦し紛れの言い訳をするのがせいいっぱいだった。

 考えてもみれば当然だ。

 ドロテアスは何者かに生命を狙われているのである。

 犯人が毒を用いない保証がどこにもない以上、飲食物には最大限の注意を払う必要がある。

 そして、酒蔵の管理を任されているダミアンには、自分が運んできた酒が安全であることを確かめる義務があるのだ。

 酒盃の中身を飲み干してから数秒が経過しても、ダミアンは平然としている。

 どうやら毒物は混入されていなかったらしい。

 あくまで重々しく肯んじたドロテアスに、ダミアンはうやうやしくこうべを垂れる。

 

「問題ありません、旦那様」

「うむ。……もう下がってよいぞ、ダミアン」 

「今宵の酒は逸品にございます。どうぞお楽しみくださいませ」


 慇懃に言って、ダミアンはその場でくるりと踵を返す。

 足早に部屋を出ていく青年の背を追って、イセリアも遅れまいと駆け出していた。

 部屋を出た直後、二人の背後で生じた硬質の音は、施錠が完了した証だ。

 ドロテアスを守護するちいさな要塞は、まさしく盤石の守りを固めたのだった。


***


 その後も、雨の夜は静かに更けていった。

 ダミアンのほかには部屋を訪ねてくる者も現れず、廊下を包み込んだ静寂が破られることはついになかった。

 やがて東の空が白みだすと、イセリアは椅子の背に上体を預けて、いかにも疲れたといった様子でをした。


「んー、結局なにも起こらなかったわねえ……」


 イセリアの声色には、安堵よりも落胆の色が強く滲んでいる。

 無理もない。

 要人警護とは名ばかりで、二人ともただ椅子に腰掛けて本を読むほかにはすることもなかったのだ。

 刺客が襲いかかってきたほうが面白かったのに――と心の中で呟いて、イセリアはちらとオルフェウスを流し見る。

 亜麻色の髪の少女は、小説を膝の上に置いたまま、黙然と端座している。


「あんた、もうその本読んじゃったの?」

「うん」

「で、どうだったのよ? せっかく貸してあげたんだから、あたしに感想を言ってみなさい」

「面白かったと思う。……でも、よく分からないところもあったよ。たとえば――」


 オルフェウスの唇を、イセリアはとっさに掌で塞いでいた。


「言わなくていい! どうせいやらしいところでしょ! 分かってるんだから!」

「そうなの?」

「あんた、女の子ならすこしは恥じらいってものを持ちなさい!! あたしのほうが恥ずかしくなるわ!!」


 と、廊下に気配が生じたのは次の瞬間だった。

 誰かがこちらに近づいてくる。

 イセリアは一瞬身構えて、すぐにその必要はなかったことを悟った。

 

「おはようございます、騎士さまがた。昨晩はご苦労さまでございました――」


 二人の前で立ち止まったカガニスは、丁重に腰を折った。

 すべての使用人を統括する家令だけあって、その立ち振舞いは堂に入ったものだ。

 こんな早朝に主人の寝室を訪ねることが許されているのも、彼がこの屋敷の誰よりもドロテアスに信頼されている証だろう。

 イセリアはあわてて居住まいを正すと、すまし顔でカガニスに向き合う。

 

「一晩じゅうここで見張ってたけど、なにもなかったわよ」

「それは重畳でございました」

「で、もう起こしにきたわけ? 明け方に寝てるって聞いたけど、早すぎるんじゃないかしら」

「旦那様は朝は早くお起きになり、日中に午睡ひるねをなさるのが日課なのです」


 カガニスはにこやかに言って、イセリアとオルフェウスの前を通り過ぎていく。

 軽く戸を叩く音は、やがて悲鳴にも似た問いかけに変わっていった。


「旦那様? 旦那様!! お返事をしてください!!」


 イセリアとオルフェウスはどちらともなく椅子から立ち上がり、カガニスのもとへ近づいていく。


「どうしたの?」

「それが……いくら呼びかけてもお返事がないのです」

「まだ寝てるんじゃない? 起きるまでそっとしておいてあげたら――」

「そんなはずはありません。旦那様はいつも私が来るより早くお起きになっているのですから」

 

 狼狽を隠せない様子のカガニスに、イセリアの表情が険しくなる。

 

「この扉、ぶち破るわよ! いいわね?」

「無理です!! この扉は内側からしか開かないように作られて……」

「いいから、あたしに任せときなさいっての!!」


 言うが早いか、イセリアは扉にむかって体当たりを敢行する。

 次の刹那、爆発にも似た轟音とともに、分厚い扉はあっけなく吹き飛んでいた。

 大掛かりな攻城兵器でなければ突破出来ない扉も、戎装騎士ストラティオテスきっての力自慢であるイセリアにとっては紙細工も同然なのだ。

 寝室に踏み込んだ三人の視界に飛び込んできたのは、信じがたい光景だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る