第214話 金羊館殺人事件(Ⅵ)
扉を力任せにぶち破り、部屋に突入したイセリアは、その場で足を止めた。
一晩じゅう室内に閉じ込められていた空気が廊下へと流れ出す。
そのなかに混じった微かな香りに気づいて、イセリアは我知らず眉をひそめていた。
よく熟成された
それはダミアンが酒瓶を開栓したときに立ちのぼった香気とよく似ていた。
(……あれ? こんな匂いだったかしら……?)
脳裏をよぎった疑念を、イセリアはしかしそれ以上追求しなかった。
いまなによりも優先すべきは、ドロテアスの安否を確かめることなのだ。
さほど広くない部屋ということもあり、ドロテアスを見つけるのは容易だった。
”
一見すると書き物をしている途中でうとうとと寝入ってしまっただけのようにもみえるが、それにしてはいささか様子が妙でもある。
ただ眠り込んでいるだけであれば、扉を破った際に生じた轟音に跳ね起きているはずであった。
「だ、旦那様……?」
おそるおそる手を伸ばしたカガニスを、イセリアはすばやく制止する。
「そこで待ってなさい」
「ですが……」
「いいから。あたしがいいと言うまでそこを動かないで」
険のある声で言って、イセリアはドロテアスに近づいていく。
丸太みたいに太い首筋にそっと人差し指と中指を当てる。
そのまま顎を掴み、顔を軽く持ち上げたところで、イセリアは首を横に振った。
「……ダメね」
「騎士さま、それはどういう――――」
「死んでるってことよ」
あくまで落ち着いた声で言ったイセリアに対して、白髪の家令はおおきく目を見開いていた。
それも無理からぬことだ。返事がなかったことに一抹の不安を感じていたとはいえ、そこから主人の死まではかなりの飛躍を必要とする。
前触れもなく突きつけられた事実に、カガニスも狼狽を隠せないようであった。
「す、すぐに医者を呼んでまいります!!」
「残念だけど、手遅れよ。もうすっかり冷たくなってるもの」
「そんな……」
イセリアはオルフェウスを手招きすると、巨体を片手だけで軽々と持ち上げる。
護衛対象の突然の死。
その事実に多少なりとも動揺しているのは確かだが、ただ狼狽するばかりでは何の意味もない。
ドロテアスはなぜ死んだのか。
自然死ならともかく、殺されたのであれば、イセリアとオルフェウスは要人警護に失敗したということになる。
とはいえ、イセリアとオルフェウスに気づかれることなく唯一の出入り口である扉からひそかに室内に侵入し、殺人を行ったうえでやはり気づかれずに脱出することは絶対に不可能であるはずだった。
そうだとしても、ろくに調べもせずに結論を出すことは出来ない。
イセリアたちにとっては、ドロテアスの不可解な死の真相を突き止めるのが目下の急務であった。
「イセリア、なにか分かりそう?」
「とりあえず目立った傷はなさそうね……見た感じ服もきれいなままだし……」
大の男でも取り扱いには往生するであろう巨大な亡骸を、イセリアはまるで紙人形みたいに軽々と転がし、ひっくり返していく。
上等な
刺殺、撲殺、
もしなんらかの外力が加えられたのであれば、その痕跡は被害者の肉体や着衣にかならず残る。
やはり自然死か――とイセリアが納得しかけたとき、ふいにオルフェウスが口を開いた。
「イセリア、見て」
「なによ? なんかおかしなところでもあった?」
「あそこ……右の襟のところ。赤いシミがついてる」
オルフェウスの白い指が示した先には、たしかに小指の爪ほどのちいさなシミが付着していた。
「血……じゃないみたいね?」
あざやかすぎる色合いから、それが血液でないことは一目瞭然だった。
イセリアはシミを軽くなぞると、そのまま指先を鼻に近づける。
「……これ、葡萄酒じゃない」
「そうなの?」
「飲んでるときに飛び散ったんじゃないかしら。手がかりかと思ったけど、死んだこととは関係なさそうね」
言いさして、イセリアはちらと寝台の脇に置かれた酒瓶を見やる。
酒瓶の内容物は、ほとんど底を突きかかっている。
ダミアンが毒見をした分を差し引いても、ドロテアスは一晩のうちにかなりの分量を身体に入れたらしい。
むろん、人並み外れた巨体をもつドロテアスにとってはたいした量ではないだろうが、就寝前の飲酒が発作を引き起こした可能性は否定できない。
「まさか……ね」
イセリアは、ほんの一瞬意識をよぎった二文字を打ち消す。
毒殺――もし他殺であるとすれば、酒になんらかの毒を盛られたと考えるのが最も妥当であるはずだった。
犯人自身は密室に一歩も足を踏み入れることなく、毒物によって被害者を殺害することが出来る。
どんな方法よりも安全で確実な殺害手段……。
もし昨晩ダミアンが毒見をしていなければ、イセリアもまっさきにその線を疑っただろう。
あのとき、ダミアンはたしかに葡萄酒を嚥下してみせたのだ。
即効性の毒物なら言うに及ばず、たとえ遅効性の毒物であったとしても、イセリアが廊下で彼を見送るまで何の兆候も表れなかったとは考えにくい。
あるいはダミアンがドロテアス殺害の犯人だったとしても、わざわざ自分が毒見をすると分かりきっている酒を用いるのはいかにも不合理である。
むろん自分の生命を賭して暗殺に臨んだなら話は別だが、庭師であり酒蔵の管理人でもある青年に、あえてそのような自滅的な行為に出る理由があるとも思えない。
「あの……騎士さま、私どもはどうすれば……」
「広間でも食堂でもいいけど、とにかく屋敷の人間をひとり残らず集めなさい。なにが起こったのか説明しなくちゃ」
それだけ言って、イセリアはふっとため息をつく。
少女の意識の片隅に浮かんで消えたのは、一組の男女の顔だった。
ドロテアス亡きいま、もはやマルシャンとエレギアを止められる者は誰もいない。
これからあの二人が遺産を巡って繰り広げるであろう醜悪な争いを想像するだけで、イセリアとしては気が滅入る思いだった。
オルフェウスとともに廊下に出てみれば、外は相変わらずの悪天候である。
一向に熄む気配のない雨のなか、この金羊館そのものが逃げ場のない巨大な密室と化したようでもあった。
***
「いったいどういうことなんだ!!」
声を荒げたのはマルシャンだった。
真鍮色の髪のでぶは、振り上げた拳をぶんぶんと振り回しながら、甲走った声で叫ぶ。
「叔父上が死んだだと? 昨晩まであんなに元気だったじゃないか!!」
「マルシャン様、落ち着いてください」
「これが落ち着いていられるか!! だいたい、本当に病死なのか? 僕にはとても信じられん!!」
なだめようと近づいたカガニスに叱声を飛ばしたマルシャンは、室内をじろりと見渡す。
「このなかの誰かが叔父上を殺したんじゃないのか? ええ?」
精一杯の凄みを利かせて言い放ったマルシャンに、その場の誰もが沈黙で答えるばかりだった。
カガニスによってドロテアスの死が屋敷じゅうに伝えられたのは、いまから小一時間ほど前のこと。
エレギアとマルシャンを始め、使用人や
一堂に会した人々がまったく予期していなかった主人の訃報に驚き、はげしく動揺したのも当然だ。
そんななか、油紙に火がついたような勢いで犯人探しを始めたのは、甥であるマルシャンだった。
「叔父上はまったくの健康体だった。それが一晩で死ぬなんて、どう考えても不自然じゃないか? 殺されたとしか思えないだろう!!」
「まるで他人に罪をなすりつけようとしているような口ぶりねえ」
「なに――」
口辺に底意地の悪い微笑を漂わせながら、エレギアはマルシャンを見据える。
夫を失ったばかりとは思えない余裕は、もともと愛情が希薄であったがゆえだろう。
「本当にあなたって浅はかだわ。そうやって探偵を気取っていれば自分は疑われないとでも思ったのかしら?」
「だまれ、女狐!! おまえこそ、叔父上が死んで内心ほくそ笑んでいるんだろう?」
「こんなときに言っていいことと悪いことの区別もつかなくなったようね」
「図星だろうが。最初から財産目当てで叔父上に近づいた淫売め――――」
いまにも掴み合いが始まろうかという険悪な雰囲気のなか、やれやれといった様子で進み出たのはイセリアだ。
心底から呆れかえったように二人を見やると、どちらにも「黙れ」というように両の掌を突きつける。
「二人とも、そこまでにしときなさい。喧嘩させるために集めたんじゃないんだから――」
イセリアが言い終わらぬうちに、腹の肉を揺らしながらマルシャンが進み出てきた。
「なにが帝都の騎士だ!! 叔父上を守れなかったくせに、えらそうな口を叩くんじゃない」
「ちょっと、言いがかりはやめてくれない? あたしたちは一晩じゅう寝ないで護衛をしてたんだけど」
「現に叔父上は亡くなってしまったではないか。いや、誰かに殺されたんだ。きっとそうに決まっている!! おまえたちの怠慢のせいだ!!」
このおしゃべり豚男、生きたまま挽き肉にしてやろうか――
喉まで出かかった悪態をぐっと飲み下し、イセリアはあらためて一同を見渡す。
「とにかく、雨が熄んで外と連絡がつくまで、この一件はあたしたちが仕切るわ」
「おまえたちのような年端も行かない小娘になにが出来る――」
「あたしたち、これでも皇帝陛下から頂いた官位を持ってるんですけど? あんまり生意気言ってると官吏侮辱罪でブタ箱に入れるわよ。臭い飯を食べたくなかったらちょっとだまってなさい!!」
火を吐くようなイセリアの剣幕に、マルシャンはおもわず後じさっていた。
本来は帝都市中において合法的に活動するための権限だが、その職掌には犯罪捜査や被疑者への尋問も含まれているのだ。
この金羊館において司法官の資格を持っているのはイセリアとオルフェウスだけである以上、二人が事件に関する一切を取り仕切るのは当然でもあった。
「ひとついいかしら?」
エレギアは軽く右手を挙げると、イセリアに問うた。
「主人の死について、あなた方の意見を聞かせてくださらない?」
「意見?」
「自殺か病死か……それとも、マルシャンの言うように誰かに殺されたのか。まっさきに現場に入ったなら、なにか気づいたことがあるのではなくて?」
イセリアは腕を組み、瞼を閉じてしばし思案にふける。
重苦しい雰囲気が広間を覆っていく。
雨が窓を叩く音のほかには、咳きひとつ聞こえない。
いつ終わるともしれない沈黙と焦燥のなか、やがて、イセリアはゆるゆると顔を上げた。
全員が固唾を呑んで見守るなか、栗色の髪の少女は、ぽつりと告げたのだった。
「――――あたしは他殺だと思ってるわ」
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