第215話 金羊館殺人事件(Ⅶ)

 水を打ったように静まりかえった室内で、最初に口を開いたのはエレギアだった。


「なぜそう言い切れますの?」


 艶やかなは、あくまで落ち着いた声でイセリアに問いかける。


「さしつかえなければ、他殺だとおっしゃる根拠を教えていただけませんこと? 騎士さま」

「根拠は二つ。そこのデブ……じゃなくて、マルシャンが言ったように、ドロテアスさんは昨日まで元気だったこと。そしてもうひとつは、死体がうつ伏せになっていた文机ふづくえの下にが落ちていたからよ」

「あるもの?」


 全員の視線が集中するなか、イセリアが取り出したのは、一枚の紙片かみきれだった。

 一見すると何の変哲もない切れ端である。

 しかし、それも犯行現場で見つかったなら、事件の真相を解き明かす上で重要な役割を果たすはずであった。


「この紙には人の名前が書いてあったわ」

「それは、まさか犯人の……」

「さあ? あたしにはそこまでは分からないけど。でも、わざわざ死に際に自分の足元に落としたからには、なにか意味があると考えるのが自然でしょうね」

「それを見せろ!! なにをもったいぶっているんだ!?」


 甲走った声で叫んだマルシャンをひと睨みしたあと、イセリアは全員に見えるように紙片を広げてみせる。

 上質な紙に青黒い筆墨インクで記されていたのは、ごく短い文字列だった。


「『フォルネリウスが来た』――この紙にはたしかにそう書いてあるわ。誰かこの名前に心当たりのある人は?」


 言って、イセリアは一同を見渡す。

 だが、何度視線を往復させても、返ってくるのは気まずい沈黙だけだ。

 家令のカガニスも、未亡人エレギアも、どうやらその名前に心当たりはないらしい。

 誰もが押し黙ったまま、時間だけがいたずらに流れていく。


「知っている……」


 やがて、あるかなきかの声でぽつりと呟いたのはマルシャンだった。


「なによ、知ってるならもったいぶらずにさっさと教えなさい」

「たしかに僕はその名前を知っている……しかし、いや、まさか……」

「言いたいことがあるならはっきり言ったら? ゴニョゴニョしゃべってちゃ聞こえないわよ!!」


 イセリアに叱声を浴びせられ、マルシャンはためらいがちに言葉を紡ぎはじめる。


「フォルネリウスというのは、叔父上の一人息子の名前だ」

「ちょっと待ちなさいよ。たしかドロテアスさんの前の奥さんと子供は……」

「そうだ。”六月事件”が起こったとき、叔父上はたまたま屋敷を留守にしていたが、あの二人は不運にも襲撃に巻き込まれてしまった」


 マルシャンの青ざめた顔には、いつのまにか汗の珠がいくつも浮かんでいる。

 それも当然だ。長いあいだ記憶の底に沈めていたその名前は、ドロテアスの親類縁者にとって重大な禁忌タブーだったのだから。

 ”巨象エレパス”と呼ばれ畏怖された偉大な政治家が、その輝かしい生涯において唯一悔やんでやまなかった痛恨事。

 隠居後に後妻として迎えられたエレギアにも、事件の後で雇い入れたカガニスにも、けっして教えようとしなかった亡き愛息の名前。

 マルシャンは荒い息を整えると、喉につかえていた言葉をようよう吐き出す。


「フォルネリウスは、いまから二十年も前に死んでいるんだよ」


***


「まさか、死人が墓場から蘇って主人を殺したとでもおっしゃるのかしら?」


 囀るようなエレギアの声には、あきらかな嘲笑が滲んでいた。


「これは私の推測ですけれど、主人は自分の死期を悟って幻覚を見たのではなくって?」

「貴様、叔父上が血迷われたとでも言うつもりか!?」

「あの人も人間なら、死が間近に迫ってはとても冷静ではいられないでしょう。幻を見たという可能性は十分にあるはずよ」


 エレギアの声色にはわずかな苛立ちが混じっている。

 妻である自分さえ知らなかった亡夫の秘密をふいに突きつけられたためか。

 それとも、予想もしていなかった展開に心を乱されているのか。

 イセリアとオルフェウスはどちらも立ち尽くしたまま、エレギアとマルシャンの口論をじっと眺めている。


「とにかく、かりに主人が何者かに殺されたのだとしても、二十年も前に死んだ子供が関係あるとは思えませんわね」

「なにが言いたい?」

「愚鈍な甥御さんにも分かるように言ってあげましょうか。人を殺せるのは生きている人間だけ――ということよ」


 エレギアは嫣然と微笑むと、広間全体に視線を巡らせる。


「このなかで最後にあの人を見たのは誰かしら?」

「……俺です」


 エレギアにむかって一歩進み出たのはダミアンだ。

 青白い顔は常にも増して鬱然とした雰囲気をまとっている。

 ここまでの話の流れから、自分に嫌疑がかけられていることを早くも察しているのだ。


「奥様に酒をお渡ししたあと、いつものように旦那様の部屋に寝酒を届けに行きました」

「主人はあなたが届けたお酒を飲んだのね?」

「はい。ですが……」


 ダミアンの言葉を遮るように、イセリアが横手から口を挟んだ。


「あたしも一緒にいたわ。葡萄酒ワインもしっかり毒見してたし、とくにおかしなところはなかったけど」

「だったら、その前ね――」


 エレギアに視線を向けられ、マルシャンはぎくりとしたように姿勢を正した。


「あなた、たしか主人と食堂にいたわね」

「それがどうした? 僕はただ叔父上の晩酌に付き合って……」

「寝室に向かう前に口にした遅効性の毒があの人を死に至らしめた。そんな可能性もあるのではなくって?」

「ふざけるな!! 貴様、僕が叔父上を殺したとでも言いたいのか!?」

「私はあくまで可能性があると言っただけよ。それにしても、ずいぶんムキになって否定なさること――」


 満顔に朱を注いだようになったマルシャンに追い打ちをかけるように、エレギアはなおも辛辣な言葉を重ねていく。

 誘導尋問の形で相手の言質を取り、自滅に追い込もうというのだ。

 ついにマルシャンの怒りが爆発するかと思われたとき、ためらいがちに言葉を発したのは家令のカガニスだ。


「お言葉ですが、奥様。昨晩は私もずっとマルシャン様と旦那様のおそばにおりました。毒を入れるなど絶対にありえないことです」

「あら、そうだったの……」


 心底から残念そうに言って、エレギアはふっとため息をつく。

 表面上は相変わらず冷静そのものだが、はらわたは煮えくり返っているはずであった。

 憎らしい甥を陥れ、ドロテアスの莫大な遺産を総取り出来る絶好の機会を逃したのだ。

 激発寸前だったマルシャンに無用の助け舟を出したカガニスへの怒りを押し殺すように、妖艶な未亡人は二人の少女騎士を流し見る。

 

「先ほど、この事件は騎士さまがたが仕切るとおっしゃいましたわね」

「ええ――」

「私どもは余計な口出しはいたしません。この屋敷のどこでもお好きなところをお調べになって構いませんわ」


 ふだんなら食ってかかるマルシャンも、今回ばかりはエレギアの言葉に異論を唱えることは出来なかった。

 ドロテアス亡きいま、金羊館の主人は妻であるエレギアなのだ。

 たとえ血の繋がった甥であっても、しょせん居候にすぎないマルシャンには何を言う権利もない。


「その代わり、かならず主人を殺した犯人を見つけ出してくださいまし。このまま主人の無念が晴らされないまま真実がうやむやになっては、妻として納得が行きませんもの」

「それはまあ、あたしたちも勿論そのつもりだけど……」


 言葉を濁したイセリアに、エレギアは念を押すように付け加えた。

 

「もしみごとに真犯人を見つけ出してくださったなら、謝礼はお望みのままに差し上げます」


***


 正午を回っても、雨は一向に熄む気配を見せなかった。

 屋敷の外は一面泥の海と化している。

 近隣の河川が同時に氾濫し、金羊館が建つ丘を除いた一帯をことごとく水没させたのだ。

 洪水が引くまでは、何人なんぴともこの屋敷に立ち入るのはむろんのこと、ここから出ていくことも叶わない。

 もっとも、それも人間に限ってのことだ。

 その気になればいつでも屋敷を立ち去ることが出来る二人の少女は、しかし、窓越しに呆然と泥流を見つめるばかりだった。

 

「そりゃ謝礼は欲しいけどさあ……」


 イセリアは窓枠に上半身をもたせかけたまま、両手で頭を抱える。


「犯人なんてどうやって見つければいいのか見当もつかないわよ。他殺なんて言っちゃった手前、いまさら引っ込みつかないし……」

「私も手伝うよ、イセリア」

「ありがと。……あんたでも猫の手くらいには役立つと思いたいわね」


 比喩が通じなかったのか、手首を猫のように曲げたオルフェウスから顔をそらすと、イセリアは長いため息をついた。


「とりあえず、もう一度現場に行ってみましょ。なにか手がかりが見つかるかもしれないし」


 言うが早いか、イセリアは殺人現場となった寝室に足を向けていた。

 すでにドロテアスの亡骸は運び出され、別室に安置されている。

 永遠に主人を失った密室は、イセリアが力任せに突き破った扉を除いて、昨晩から何ひとつ変わっていないようにみえる。

 文机や寝台ベッドの下も隈なく探してはみたが、不可解な紙切れのほかに手がかりらしいものはついに発見することは出来なかった。

 ひとしきり室内を検めたあと、イセリアはまたしてもがっくりと項垂れた。


「やっぱりなにも手がかりはなし――か」


 それでも、声色がさほど暗くないのは、最初から分かりきっていたためだ。

 さすがのイセリアも、いまさら現場から犯人に繋がる手がかりが得られると考えるほど楽観的ではない。

 けっきょく、ふたたび足を運んだ現場で得られたのは、どんな手段を用いてもこの部屋にいる人間を殺害するのは不可能だという確信だけだった。

 

「あの扉が無事だったら完全な密室ね。あの爺さん、やっぱり死んだ息子の幽霊に殺されたんじゃないかしら」

「幽霊だったら密室に入ってこられるの?」

「そりゃあんた、幽霊は実体がないんだから、どこだって自由に出入り出来るわよ。昨日貸してあげた小説にも、主人公の死んだ元婚約者元カレが幽霊になって出てくる場面があったでしょ。ま、いくら幽霊でもこの部屋に閉じ込められたら出てこれないかもしれないけど――――」

 

 イセリアはそこで言葉を切った。

 そのまま呆けたように口を開けたまま、ぼんやりと虚空に視線を泳がせる。

 やがて、イセリアはなにかに弾かれたように身体を反転させると、オルフェウスの両肩を力強く揺さぶっていた。


「……ちょっと待ちなさいよ。あたし、いま、なんて言った?」

「主人公の死んだ元カレが……」

「ちがう! 元カレはどうでもいいの! そのあとよ!」

「幽霊でもこの部屋に閉じ込められたら出てこれないかも……って」


 オルフェウスが玲瓏な声でその言葉を口にしたとたん、イセリアは雷霆はたたがみに打たれたみたいに目を見開いていた。

 そのまま壁際まで数歩も後じさったあと、栗色の髪の少女は、震える声で呟いたのだった。


「あ……あたし、分かっちゃったかも……」

「なにが?」

「あんたね、そんなの決まってるじゃない」


 イセリアはオルフェウスに人差し指を向けると、豊かな胸を反らして高らかに宣言する。


「ドロテアス殺しの方法と犯人が、よ!」

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