第207話 星明りの下で…

 陥穽クレーターの淵に降り立ったアレクシオスは、視線を下方へと向けた。


 深さはざっと三十メートルは下るまい。

 淵がセイレーンから離れるにつれて放射線状に広がっているのは、音波が拡散していった痕跡にほかならない。

 ほんの数秒前までそこかしこに点在していた奇岩群は跡形もなく消え失せ、本来ならけっして地表に表れるはずのない地底の岩盤が青ざめた月光を浴びている。

 セイレーンは、これほどの大破壊を瞬時に行ったのだ。

 数多いる戎装騎士ストラティオテスのなかでも、こと広範囲の破壊にかけては他の追随を許さないだろう。

 もし上空に逃れるのがあと一秒でも遅れていたなら、いまごろはアレクシオスも奇岩と運命を共にしていたはずであった。


 怖気を振り払うように拳を握りしめたアレクシオスは、セイレーンに顔を向ける。

 胸部にあらたに形成された三本の角もそのままに、青紫色ブルーバイオレットの騎士は、赤砂の大地に黙然と佇んでいる。


「これで分かったでしょう――――」


 セイレーンはひとりごちるみたいに言った。


「この能力ちからを使えば、何千人……いいえ、何万人もの人間を一度に殺すことが出来る。あたしは人間ひとの世界にいちゃいけない怪物なの。いずれはこの村からも出て、どこか誰もいない場所でひとりで朽ちていくつもりよ。だから、このままあたしを見逃して、アレクシオス」

「……それは出来ない」

「なぜ?」

「君は怪物なんかじゃない。人殺しの道具になど絶対にさせない」


 あくまで決然と言い放って、アレクシオスはセイレーンへと手を伸ばす。


「セイレーン、おれと一緒に来るんだ」


 わずかな沈黙のあと、セイレーンはゆるゆるとかぶりを振った。

 乾いた風に乗って流れていくのは、どこまでも美しく、そして哀しい声であった。


「ありがとう、アレクシオス」

「……」

「だけど、あたしの答えは変わらない。あなたがどうしてもあたしを止めるつもりなら……」


 セイレーンの無貌の面を音もなく光が流れていく。

 明滅を繰り返すそのさまは、とめどもなくこぼれ落ちる涙を彷彿させた。

 ふたたび沈黙が二人のあいだを埋めようとしたとき、セイレーンは一度は飲み込みかけた言葉を口にしたのだった。


「――――あなたの手で、あたしを殺して」


 ふたたび戦いの火蓋が切って落とされたのは、次の刹那だった。

 セイレーンが両腕を前方に向けるや、見えざる音の刃がアレクシオスめがけて打ち出される。

 指向性音波を用いた共振攻撃。

 直撃を受けた陥穽クレーターの淵は、煙と化したみたいにかき消えている。

 すんでのところで側方へ飛んだアレクシオスは、すばやく体勢を立て直す。


 ここまでの戦いで、セイレーンの攻撃の原理は判明している。

 いかに不可視の攻撃といえども、予備動作や規則性パターンを解析すれば、おおよその予測を立てることは出来るのだ。

 アレクシオスは、超演算能力を最大限に駆使することで、セイレーンの次の手を読むことに成功している。


 それでも、依然として危機的な状況であることに変わりはない。

 音波を用いた攻撃は、いわば小手調べにすぎない。

 セイレーン最大最強の武器は、胸部から突出した三本の角――そこから放たれる恐るべき破壊の歌なのだ。

 あれほど広範囲に及ぶ攻撃となれば、いかに機動力にすぐれるアレクシオスといえども回避する術はない。

 もしまともにあの歌を浴びたなら、黒騎士の身体はたちまちに分解されるだろう。

 まさしく一瞬の油断が死へと直結するのだ。

 薄氷を踏むような緊張感のなか、アレクシオスはあくまで冷静に戦場を駆け抜けていく。


 幸いというべきか、セイレーンの歌はまだ聞こえてこない。

 エネルギーの再充填に時間がかかっているのか、あるいは攻撃を仕掛ける時機タイミングを見計らっているのか。

 いずれにせよ、いまがアレクシオスにとって好機であることはまちがいない。

 間断なく打ち出される音波を躱しつつ、推進器スラスターを全開したアレクシオスは、漆黒の征矢そやとなって突き進む。

 地面すれすれの低高度を飛翔する黒騎士は、早くも音速へと到達している。

 セイレーンの音波攻撃はアレクシオスの後方に着弾し、陥穽クレーターの周囲には歪な穴がいくつも穿たれていく。


 そうするうちに、アレクシオスとセイレーンを隔てていた間合いはみるみる縮まっていく。

 接近戦に持ち込みさえすれば、セイレーンの音波はもはや用をなさない。

 そうなれば、徒手空拳のセイレーンに対して、槍牙カウリオドゥスを持つアレクシオスは圧倒的な優位に立つことが出来るはずだった。


 両腕と角を破壊すれば、セイレーンの戦闘力は完全に失われる。

 戎装騎士のすぐれた自己再生能力をもってしても、失われた部位を復元するには相応の時間を要するのだ。

 ようやく掴みかけた千載一遇の好機をみすみす手放す訳にはいかない。

 赤い砂塵を巻き上げて、黒騎士は一気に急迫する。


――いまだ!!


 アレクシオスが飛びかかろうとしたそのときだった。

 セイレーンはその場で身体を半回転させると、アレクシオスに胸から突き出た三本の角を向ける。

 ほんの数秒前までたしかに真正面を向いていたはずの角は、先ほどまでとはあきらかに様相を異にしていた。

 三本とも根本からおおきく前方に張り出しただけでなく、半ばから奇妙にねじまがっているのだ。

 セイレーンがみずからの意志で変形させたことは言うまでもない。

 互いに毎秒十七億回におよぶ反射を繰り返すことで、音波の共振作用を最大限まで増幅する衝角ホーンは、その射界に黒騎士を過たず捉えたのだった。


 赤い砂漠に歌が流れはじめた。

 美しく哀切な旋律に乗せて紡がれるのは、破壊と殺戮の歌だ。

 あらゆる物質を崩壊させる音の渦がアレクシオスめがけて殺到する。

 その渦中に呑み込まれた者は、苦痛を感じる暇も与えられないまま、一瞬に分解される。

 おそらくは自分が死んだことにさえ気づかないだろう。


 漆黒の輪郭が陽炎みたいに揺らいだ。

 目の錯覚などではない。

 すこしずつ強くなっていく共振作用は、仮借なくアレクシオスの装甲を削り取っている。

 かろうじて分解を免れているのは、強靭な身体をもつ戎装騎士だからこそだ。

 それも長くは持たないはずであった。

 アレクシオスは、まさしく消滅の危機を迎えようとしていた。


――ここまでか……。


 おぼろに霞んでいく意識のなかで、アレクシオスは視界の片隅にを認めた。

 赤い粒子が流れていく。

 揺らめきながらたゆたうさまは、夜空を流れる赤い河を思わせた。

 その正体は推進器を使用した際に舞い上がった砂粒だ。

 すべてを呑み込む音の渦のなかで、なにゆえその一帯だけが破壊を免れているのか。

 

「そこ……だ――――」


 轟音とともに両脚の推進器が炎を吐き出したのは次の刹那だ。

 おのずから音の渦の中心に飛び込んでいくように、黒騎士は猛然と前進する。

 言うまでもなく、それは自殺行為にほかならない。

 はたして、アレクシオスはセイレーンの歌をまともに浴びる格好になった。

 たちどころに微細な粒子へと分解されるはずのその身体は、しかし、一向に崩壊する様子もない。


 夜闇にひとすじの銀閃が走った。

 アレクシオスが右腕の槍牙を振るったのだ。

 あざやかな弧を描いた斬撃は、セイレーンの三本の角をことごとく砕いていた。

 増幅器を破壊されたのに合わせて、音の渦も消失していく。

 歌声が完全に熄んだのと、アレクシオスがセイレーンの胸元に槍牙の切っ先を突きつけたのは、ほとんど同時だった。

 勝負は決したのだ。


「……あたしの負けよ」


 言い終える前に、セイレーンは戎装を解いていた。

 藤色の髪がさらさらと夜風に流れる。

 敗北を喫した少女の顔は、不思議と晴れやかだった。


「ねえ、ひとつだけ聞かせて」

「なんだ?」

「どうして、あたしの攻撃に死角があることが分かったの?」


 あのとき――。

 音の渦の中心に飛び込んだアレクシオスは、みずからの身体をある一点へと滑り込ませていた。

 三本の角が交差するわずかな領域ゾーン

 そこに生じたものこそ、互いの干渉によって音波の破壊力がおおきく減殺された安全地帯だった。

 アレクシオスはそこに入り込むことで消滅を免れ、なおかつ反撃の糸口を掴んだのだ。


「……砂だ」

「砂?」

「攻撃の真っ只中でも、舞い上がった砂が消えずに残っていた部分があった。一か八か、そこに飛び込んでみたまでだ」

「本当にそれだけ? 自分が死ぬかも知れないとは思わなかったの?」

「そのときはそのときだ。おれは戦いの最中に余計なことを考えられるほど器用じゃない」


 ぶっきらぼうに言ったアレクシオスに、セイレーンはおもわず吹き出していた。

 無邪気な笑い声は、そう長くは続かなかった。

 ふいに俯いた少女は、哀願するような声色で言葉を継いでいく。


「ねえ、アレクシオス。あたしを殺してよ」

「……」

「あたしはあなたを本気で殺そうとした。自分が負けて殺されたとしても、それはお互いさま。あなたはなにも気に病むことなんかないわ」


 アレクシオスは何も言わず、槍牙をわずかに引いただけだ。

 ほんのすこし力を込めて突き入れれば、犀利な切っ先はセイレーンの中枢をたやすく貫通するだろう。

 それは戎装騎士ストラティオテスにとって完全な死を意味している。


「やめろ!!」


 背後から声をかけられて、アレクシオスとセイレーンは示し合わせたみたいに視線を同じ方向に向けていた。

 月光のなかを息せき切ってこちらに駆けてくる人影がひとつ。

 バロマ。

 石膚病せきふびょうに冒された青年は、石のように硬化した四肢を懸命に動かして、二人の騎士へと近づいていく。


「やめろ……その娘を殺すな!!」


 バロマは荒い呼吸を整えることもせず、ほとんど倒れ込むようにアレクシオスに掴みかかる。

 異形の騎士を前にしているにもかかわらず、病身の青年はわずかな気後れもない。

 アレクシオスの面上で赤光がまたたいた。

 およそこの世のものとは思えない輝きがバロマの顔を照らし、病によって白茶けた皮膚をあかあかと染めていく。


「おまえ、なぜここにいる?」

「セイレーンを探していた。今日のことを謝ろうと思って……」

「謝る? いったいなにを?」

「みんなの前で見世物のようなことをさせた。本当は誰にも見せたくなどなかっただろうに、俺のせいでつらい思いをさせたからな。そうしたら、このあたりからおかしな物音が聞こえてきたじゃないか……」

 

 それだけ言って、バロマはセイレーンに顔を向ける。


「セイレーン。あんたがただの人間じゃないことは薄々分かっていたよ」

「バロマ……」

「それでも、あんたが俺たちの恩人であることは変わらない。どんな事情があるかは知らないが、あんたにはこんなところで死んでほしくないと思ってる。だから、たのむ……もう先がない俺たちの分まで、あんたは生きてくれ」


 その言葉を耳にした途端、セイレーンの両眼いっぱいに涙が溢れていく。

 一方のバロマも、やはり感に堪えないというように唇を噛みしめている。

 感傷的な雰囲気などどこ吹く風というように、アレクシオスが二人のあいだに無遠慮に割って入った。

 わずかな沈黙のあと、黒騎士が口にしたのは、鉄のように冷えきった言葉だった。


「バロマ、なにか勘違いしているようだな」

「なに……?」

「この娘は『帝国』を裏切って逃亡した重罪人。今日までその身柄を匿ってきたおまえたちも同罪だ。たとえ病人であろうと、法の裁きを逃れられる道理はない」

「ふざけるな!! アレクシオス、いったいどういうつもりだ!?」

 

 怒りに任せて殴りかかったバロマを、アレクシオスは片手で軽くいなす。

 地面に倒れ込んだバロマと、呆然と見つめるセイレーンにそれぞれ視線を巡らせたあと、アレクシオスは冷厳な声で宣言したのだった。


「皇帝陛下の御名において、騎士セイレーン、そしてこの村の全住人を連行する」

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