第182話 氷雪の女王
その日、
元老院の定例会議が開催されるところに、北方軍管区総司令官エルゼリウス・アグリッパの登城が重なったのである。
廷吏たちは数日前から賓客を迎え入れる準備に奔走し、静謐たるべき宮殿内は慌ただしい雰囲気に満たされている。
前王朝の末裔であるアグリッパ家は、『帝国』でも指折りの名門として知られている。当然、その待遇は皇帝一族に準じたものとなる。
たとえ皇帝ルシウスの勅勘を被り、その釈明のために帝都に赴いたのだとしても、彼が最上級の貴人であることには変わりがない。
この日のために各地から参集した元老院議員たちは、いつになく仰々しい出迎えに顔をほころばせたのもつかのま、それが自分たちを出迎えるためでないと知って、一様に肩を落としたのだった。
城下の黒屋敷を出立したエルゼリウス一行が帝城宮に到着したのは、日も昇りきったころだった。
二人の侍女を引き連れて馬車を降りたエルゼリウスは、颯然と王宮に足を踏み入れた。
皇帝の叱責を受けた身であるにもかかわらず、その挙措にはわずかな後ろめたさもない。ともすれば傲岸不遜な印象を与えかねないふるまいも、生まれついての貴公子が行ったなら、人の目にはごく自然なものとして映るのだ。
主人が王宮の奥へと消えたのを見届けてから、ジェルベールは御者に何事かを耳打ちする。
その後、ふたたび動き出した馬車の車内で、ジェルベールはレオンに向き直った。
車内には二人だけだ。御者台とのあいだは仕切りで隔てられ、話し声を聞かれる気遣いはない。
「予定どおり、我々は城の外で待機する。敵襲に備えるのだ」
レオンは何も言わず、こくりと首肯しただけだ。
帝都イストザントのなかで最も警戒厳重なこの場所に敵襲とは、まず考えられないことである。
それでも、敵対派閥の人間が
この数日のあいだにそのような話を幾度となく聞かされるうちに、レオンももはや疑念を差し挟むことはしなくなっていた。
護衛対象の生命を守ること。それが自分に課せられた使命ならば、全力を尽くすまでのことだ。
ややあって、馬車は帝城宮の正門からいくらか離れた場所で停車した。
ジェルベールはわざとらしく咳払いをすると、
「じつは、おまえに話しておかねばならぬことがある……」
厳かな口調でレオンに語りかけたのだった。
何事かと身を乗り出したレオンに、ジェルベールはいかにも深刻げな表情を浮かべる。
「おまえのかつての仲間は、ヘラクレイオスとの戦いでことごとく戦死を遂げた。そうだな?」
「はい……みんな、勇敢に戦い、そして死んでいったと聞いています」
「しかし、それも人づてに聞いただけにすぎないのだろう?」
「それは――」
予想外の問いかけに、レオンは返答に窮した。
ラグナイオスを始めとする四人の仲間たちは、ヘラクレイオスに殺された。
それは紛れもない事実だ。
その一方で、ジェルベールの言うとおり、レオンが仲間たちの敗北と死を知ったのは、戦いからかなりの時間が経過してからのことだった。
仲間たちがいかにして全滅に至ったかは、レオンには知る術もなかったのである。
「詳しいことは何も教えてもらえなかったはずだ」
「はい……」
「私はあの戦いの真実を知っている。本来なら辺境軍の最高機密だが、おまえがどうしても知りたいというなら、特別に教えてやらぬでもない」
言い終わるが早いか、ジェルベールは両肩に痛みを感じた。
レオンはほとんど反射的に身を乗り出すと、ジェルベールに詰め寄ったのだ。
はたと我に返ったレオンは、非礼を詫びながら、すがるような眼でジェルベールを見上げた。
「お願いです――教えてください。僕の仲間たちに何が起こったのか。あの人たちがどんなふうに死んでいったのか。どうしても知りたいんです……」
少年の涙まじりの懇願に、ジェルベールは重々しくうなずいてみせる。
はたして、レオンは気づいたかどうか。
ほんの一瞬、目の前の男の面上を、ひどく残酷な感情が渡っていったことを。
***
降り注ぐ陽光が、壁一面を彩る壮麗なステンドグラスをきらめかせていた。
何者も冒しえない地上の支配者。『帝国』の頂点たる
その比類なき
エルゼリウスは先刻までの堂々たる貴公子ぶりを忘れたみたいに身体を竦ませ、絨毯に額づいている。
『帝国』宮廷の慣習において、皇帝の御前で臣下が許しなく顔を上げることは非礼とされている。
皇帝から面を上げることを許されないかぎり、何時間、あるいは何日でも、このままの姿勢を保ち続けねばならない。
「臣エルゼリウス・アグリッパ、お召しにより御前に参上いたしました。この度は
言いさして、エルゼリウスは口をつぐんだ。
玉座から放たれる無言の圧力が、そのさきの口上を述べさせなかったのだ。
ルシウスは薄絹の御簾越しにエルゼリウスを見下ろすと、
「これまで大儀であった、エルゼリウス。もう下がってよい。そなたへの沙汰は追って申し伝える」
あくまでそっけなく、それだけを口にしたのだった。
一方のエルゼリウスはといえば、ほとんど気死しかかっている。
全力で駆けでもしたみたいに呼吸は浅く早くなり、すっかり血の気が引いた顔は、ほとんど紙の色を呈している。
それも無理からぬことだ。
皇帝が発した何気ない言葉は、もはやエルゼリウスの務めが終わったことを意味しているのだから。
予想していたとおり、北方軍管区の総司令官から罷免するのか。
あるいは、一切の官職を剥奪し、罪人として法の庭に引き出すつもりか。
いずれにせよ、『帝国』官界におけるエルゼリウスの命脈は完全に断たれたことにはちがいない。
こうなった以上は皇帝に逆らった見せしめとして閑職に追いやられるか、蟄居幽閉のうちに鬱々と生を送るかのふたつに一つしかないのだ。
エルゼリウスの胸裡でむくむくと首をもたげたのは、ほんの数秒前まで萎えきっていた闘志であった。
「おそれながら……皇帝陛下には、どうしても申し上げたき仕儀がございます」
「下がれと言ったはずだ。もはやそなたと話すことはない」
「陛下は、この『帝国』を愛しておられないのか!?」
エルゼリウスは顔を上げると同時に、声のかぎりに叫んでいた。
その声色には、もはや皇帝に対する怯えも恐れもない。
不退転の覚悟に衝き動かされたエルゼリウスは、ひとりの糾弾者としてルシウスと対峙している。
「皇帝陛下、私は何も間違ったことはしておりません。東方人の反乱はたしかに憂うべきことです。しかし、我らがいたずらに譲歩すれば、東方人はみずからの分を弁えずにますます増長するばかり。
我を忘れて熱弁をふるうエルゼリウスは、いつの間にか立ち上がり、さのみならず
言うまでもなく、皇帝に対して許されざる無礼である。
とっさに飛び出そうとした近衛兵を眼で制しつつ、ルシウスはエルゼリウスにさらなる発言を促す。
「言いたいことはそれだけか、エルゼリウス」
「どういう意味か……?」
「分かっているだろうが、そなたは終わりだ。ここで思いの丈を吐き出しておかねば、
「ならば聞くがいい。……貴様は、もはや
エルゼリウスは階を登りつつ、ルシウスにむかって決然と言い放った。
「ルシウス・アエミリウス!! 私は『帝国』を愛し、太祖皇帝の血統に誇りをもつ者として、貴様のような皇帝を断じて認めはしない!!」
近衛兵を飛び越えて二つの影が踊ったのは次の瞬間だった。
淡い白金色の長髪が玉座の前にたなびいた。
ルシウスを守るように立ちはだかったのは、輝くような美貌をもつ西方人の女だった。
御簾に手をかけようとしていたエルゼリウスは、その場ではたと足を止めていた。誰何しようと開いた唇から漏れ出たのは、当人の意思に反して、じつに情けない苦悶の声だ。
手首を苛む激しい痛みに耐え、首だけでようよう背後を振り返ったエルゼリウスの視界に映ったのは、黒褐色の精悍な
皇帝直属の姉妹騎士――アグライアとタレイアであった。
「陛下、この不埒者をただちに連行する許可を願います」
「よかろう。そやつの処分は、そなたらに任せる」
「はっ――」
そのあいだもエルゼリウスはじたばたと見苦しくもがいているが、巨岩さえ軽々と動かすタレイアの膂力に太刀打ち出来るはずもない。
「これで勝ったつもりなら笑止千万だぞ。貴様の思う通りに行くと思うな、アエミリウス……!!」
「何が言いたい、エルゼリウス」
「貴様が
その瞬間、玉座の間に居合わせた誰もが奇妙な寒気を感じた。
むろん錯覚などではない。
皇帝の座所ということもあり、外界の寒さとは隔絶されているはずの玉座の間である。
にもかかわらず、数秒のあいだに室内の気温はおおきく低下しているのはなぜか。
見るがいい。いまや壁面のステンドグラスは白い粉を吹き、絨毯には霜さえ降りている。
と、にぶい音を立てて扉が開け放たれた。
同時に玉座の間に流れ込んだのは、触れただけで総毛立つほどのすさまじい冷気の奔流であった。
「エルゼリウス閣下から手を離しなさい、タレイア」
玉座の間に渦巻く寒気は、どうやらその身体から生じているらしい。
気づけば、足元の絨毯は完全に凍りつき、空気には白いものさえ混じりはじめている。
近衛兵や廷吏たちは、あまりの寒さに神経まで凍てついたのか、雪像と化したみたいに微動だにしない。
「セラス…⁉」
「久しぶりね――タレイア、それにアグライア。
「なぜ貴様がここにいる!? この男とはどういう関係だ⁉」
「エルゼリウス閣下をお守りするのが私たちの役目なの。だからタレイア、その手をお離しなさい。分かっているでしょうけれど、間違ってもエルゼリウス閣下を人質に取ろうなどとは思わないことね。私がその気になれば、この部屋どころか、お城のすべてを凍りつかせることだって出来るんですもの」
セラスが言い終わるまえに、タレイアはエルゼリウスから離れていた。
むろん、そのまま解放した訳ではない。背後のアグライアへと、まるで子犬を手渡すみたいに放り投げたのだ。
ゆっくりと階を降りながら、タレイアは戎装を開始する。
豹のごときしなやかな肢体が、瑪瑙色の重装甲に覆われた
その背中を見つめるアグライアの顔に兆したのは、隠しようもない不安の色だった。
「タレイア、気をつけて。セラスは……」
「分かっている、アグライア。奴を取り押さえるまで、皇帝陛下をしっかりとお守りしてくれ」
戦闘態勢を整えた戎装騎士を前にしても、セラスは動じる素振りもない。
「ふふ……その気になったのね、タレイア」
「貴様が相手なら、手を抜くつもりはない。全力で迎え撃つ!!」
「あら、怖い。だけど、そうでなくては張り合いがないわ」
セラスを中心として空気が白く濁っていく。
そのさまは、身体から流れ出た冷気が、ふたたびその内側に吸収されていくようでもあった。
やがて、タレイアの眼前に立ち現れたのは、あざやかな
玉座の間を舞台に、二騎の異形の戦いの火蓋は、まさに切って落とされようとしていた。
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