第183話 氷魔剣

 悽愴な鬼気が玉座の間を満たしていった。

 戎装を完了したタレイアとセラスは、玉座へと至るきざはしの下で対峙している。

 二人の騎士を隔てる距離は、わずか十歩あまり。

 どちらかが攻撃を仕掛けたなら、その瞬間に消滅する間合いであった。

 タレイアは、副腕に支えられた二枚の円盾シールドを身体の前面に展開しつつ、セラスの出方を伺っている。


「相変わらず華のない戦い方だこと、タレイア――」


 嘲るように言って、セラスは右手をわずかに掲げる。


「あなたのご自慢の盾で、私の冷気が防げるかしら?」

「……だまれ。裏切り者とおしゃべりに興じるつもりはない」

「裏切り者、ねえ?」


 言い終わるが早いか、セラスの右手が閃いた。

 青氷の装甲に覆われた指先から音もなく伸びたのは、身の丈ほどもある長大な氷柱だ。

 氷柱とは言うものの、天然自然に生じたそれとはあきらかに性質を異にしていることは、鋭利な剣尖を見ればひと目で分かる。

 セラスが作り出したのは、まさしく氷の魔剣であった。


「私もあなたたちに裏切られた。あのときの悔しさは、いまでも忘れていないわ」

「なんの話をしている?」

「分からないならそれもいいでしょう。


 そっけなく言い捨てて、セラスは氷の魔剣を軽く振る。

 白く濁った空気を裂いて斬線が走る。風を切ってするどい音が鳴り渡る。

 髪の毛ひとすじよりもなお薄い刀身は、魔剣が秘めた凄まじい切れ味を物語っている。

 そうするあいだにも、二騎の間合いは少しずつ狭まりつつある。

 タレイアは円盾シールドをセラスに向けたまま、不動の構えを保っている。


「あなたの能力ちからは分かっているわ、タレイア」


 セラスは左の人差し指をタレイアに向けながら、あくまで飄々と言った。


「だから、先手は譲ってあげる。簡単に決着がついてしまったら、あなたも面白くないでしょう」

「その言葉、いまさら取り消そうとしても遅いぞ」

「それは楽しみだこと――」


 それ以上の問答は無用とばかりに、タレイアは烈しく地を蹴っていた。

 瑪瑙色の重騎士は、無骨な見た目からは想像もつかないほどの素早さで躍動する。

 もともとわずかだった間合いはたちどころに消滅し、二騎の輪郭はほとんど重なろうとしている。

 絨毯に覆われた床にすり鉢状の陥穽クレーターが穿たれたのは次の瞬間だった。

 タレイアが繰り出した不可視の拳――円盾シールドから生じた斥力フィールドが、セラスが立っていた場所をごっそりと抉り取ったのだ。

 あらゆる攻撃を遮断し、受け止める最強の盾は、攻撃に用いてもおそるべき威力を発揮する。直撃すれば、戎装騎士ストラティオテスといえどもひとたまりもない。


 無残に変わり果てた陥穽には、しかし、セラスの姿は見当たらなかった。

 斥力場が叩きつけられる直前、青氷色の騎士は後方に飛びずさり、空中に退避したのだ。

 空中とはいうものの、セラスは飛行能力を持っていない。転瞬の間に列柱のごとき氷の足場を作り出し、その頂上に飛び乗ったのである。

 タレイアを見下ろしながら、セラスは歌うような調子で言った。


「せっかく先手を譲ってあげたのに残念だったわね。詰めがお甘いこと……?」


 セラスが軽く左手を動かしたかと思うと、タレイアの足元から無数の氷柱が突出した。

 タレイアは斥力場を下方に向けて展開し、氷柱を押し潰しながら後退する。

 堅牢無比なタレイアの装甲は、その全身を足裏まで疎漏なく覆っている。

 いかにセラスが作り出した氷柱が鋭利でも、しょせん氷柱にすぎない。戎装騎士の装甲を貫くことはおろか、表層に傷をつけることさえ出来ない。

 にもかかわらず、タレイアの性急な回避行動は、まるでようでもあった。


 タレイアが着地すると同時に、袈裟懸けの斬撃が襲いかかった。

 セラスが氷の魔剣を繰り出したのだ。

 斥力場の展開が間に合わないと悟ったタレイアは、右の円盾シールドで受け止める。

 そして、切っ先が触れるかという瞬間、タレイアは円盾を支える右の副腕に手刀を打ち込み、みずから切断したのだった。

 一見不可解な自傷行為の意図は、すぐにあきらかになった。

 氷の魔剣に触れたとたん、右の円盾はまたたくまに白く凍りついていった。

 斥力場の発生器であり、それ自体が頑強な防具でもある円盾は、原型を留めぬ残骸となって床に降り注いだのだった。


 セラスが作り出した氷の魔剣は、敵を斬断するための武器ではない。

 美しくも恐ろしい剣の真価は、触れたものを凍結させることにこそある。

 言ってみれば、剣を象ったエネルギー伝導路にすぎない。

 どれほど硬い物質であっても、凍結させることによって強度はおおきく低下する。

 かつてヘラクレイオスの拳さえ受け止めたタレイアの円盾も、ひとたび凍結させてしまえば、床に落ちただけであっけなく砕け散るのだ。


「間一髪というところかしら?」


 セラスは、円盾の残骸を踏みしだきながら、心底から楽しげな声色で言った。


「ご自慢の盾はあとひとつ……それが壊れてしまえば、もうあなたに後はないわ。アグライアに助けを求めてもいいのよ?」

「それだけあれば充分だ。誰の助けも必要ない。貴様はここで私が倒す」

「勇ましいこと。だけど、そんな強気もいつまで続くかしらね?」


 セラスが右手を伸ばすと、左手と同じように氷の刃が形成されていく。

 おそるべき威力を秘めた二振りの魔剣。

 すでに円盾のひとつを失ったタレイアに残されたのは、もうひとつの盾と、斥力発生器を備えた両の拳だけだ。

 状況が不利であることは重々承知している。

 ひとたびセラスの魔剣に触れたが最期、タレイアの五体は凍結し、氷像と化すだろう。

 セラスが繰り出す攻撃をことごとく躱し、内懐に飛び入る。

 勝機を掴むためには、一髪千鈞の賭けに出るしかない。

 タレイアは拳を胸の高さに持ち上げると、セラスにむかって八双の構えを取る。


「……行くぞ!!」


 冷えびえとした空気を引っ切って、タレイアは猛然と駆け出していた。

 屈強な騎士は、あざやかな瑪瑙色の颶風かぜとなって、セラスめがけて殺到する。

 左右から氷の魔剣が襲いかかる。殺意に満ちた剣閃は、過たずタレイアの身体へと突き立てられるはずであった。

 万物を凍てつかせる魔剣は、しかし、中空で停止していた。

 セラスがみずからの意志で攻撃を中止したのではない。

 タレイアは、残った円盾と、両拳の斥力場発生器を最大フル稼働させ、見えざる力場によって氷の刃を受け止めたのだ。

 斥力場による白刃取りを演じてみせたのである。

 恐るべき技量と集中力、そして敵の攻撃が見切る眼力がなければ不可能な芸当であることは、あえて言うまでもない。

 いかにセラスの能力でも、質量を持たない力場を凍結させることは出来ない。

 文字通り抜き差しならない状況に追い込まれた氷の魔剣は、乾いた音を立てて砕け散った。

 

「……っ!!」


 その瞬間、青氷色にきらめく無貌の面に兆したのは、隠しようもない焦燥であった。

 セラスは後方へ逃れようとして、そのまま棒立ちになった。

 すでに不可視の壁によって退路が断たれていることを悟ったのだ。

 タレイアは円盾と両拳を起点として斥力場を薄く展延し、セラスを包囲したのである。

 一基を失ったとはいえ、残る三基の出力を同時に全開したなら、十分すぎるほど強力な力場フィールドを形成することが出来る。

 このままじわじわと効果範囲を狭めていけば、セラスは透明な壁に圧し潰されるだろう。すべてはタレイアの胸三寸であった。

 

「もはや逃げ場はない。これで終わりだ、セラス!!」


 するどく叫んで、タレイアはいっそう圧力を強める。

 セラスの装甲は、騎士のなかでも脆弱な部類に入る。

 美しい青氷色の装甲は、際限なく増大していく外力を受け止めきれず、やがては無残に破壊されるだろう。

 かろうじて生命は取り留めたとしても、想像を絶するほどの苦痛が全身を責め苛む。

 胸部に存在する中枢部を破壊されないかぎり、戎装騎士は死ぬことも許されないのだ。


「……可愛らしいこと」


 セラスがぽつりと呟いたのは、恥も外聞もかなぐり捨てた無様な命乞いでもなければ、敵への呪詛でもない。

 強いて言うなら、それはまぎれもない憐憫であった。

 意味深長な言葉は、力場に阻まれ、タレイアの耳にはとうとう届かなかった。

 と、力場の圧力増大がにわかに熄んだ。

 それだけではない。力場そのものが急速に弱まり始めている。


「これは――」


 タレイアは愕然とおのれの足元に視線を落とした。

 分厚い装甲に鎧われた両脚は、いまや膝上まで凍りついている。

 ほんの一秒ほど前、足底を冒した凍気は、みるみるうちにタレイアの脚部を凍結させたのだった。

 凍気の侵食は留まるところを知らず、太腿から腰、腹までもが氷の色に白々と染まっている。

 やがて両腕と副腕が完全に凍結したところで、セラスを捕らえていた斥力場も消失した。

 

「いい姿になったわね、タレイア? とても奇麗よ」

「何を……した……?」

「足元にももうすこし注意を払うべきだったわね」


 氷の魔剣が白刃取りに掴み取られ、打ち砕かれたあの瞬間。

 セラスは、さらに二振りの魔剣を作り出していた。

 タレイアがそれに気づかなかったのは、から展開されたためだ。

 ひそかに床を貫いた氷の細剣は、誰にも知られることなく床下を掘り進み、タレイアの足裏を刺したのだった。


「セラス……貴様……」

「ここは玉座の間よ。下品な言葉は慎みなさい」

「やめ……ろ……」

「おやすみなさい、


 言って、セラスはタレイアの額に軽く手を触れる。

 それが合図だったのか、首元で止まっていた凍気は、またたくまにタレイアの頭部を飲み込んでいく。

 勇壮な騎士は、そのままの姿を留めた氷像へと姿を変えていた。

 霜が降りた瑪瑙色の装甲を満足気に撫でたあと、セラスはきざはしの上に目を向ける。


 その視線が捉えたのは、玉座の皇帝ルシウスでも、はじめて騎士同士の戦いを目の当たりにして腰を抜かしているエルゼリウスでもない。

 蒼然と立ち尽くしている白金色の髪の騎士であった。


「降りてきなさい、アグライア。次はあなたの番よ」

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