第181話 黒い予感
「あーもうっ!! なんだったのよ、あいつっ!!」
苛立たしげに叫んで、イセリアは長机に拳を叩きつけた。
長机がまっぷたつに割れも砕けもしなかったのは、彼女なりに手加減をしていたためだ。
もし十分の一でも本来の力を発揮していたなら、たとえ大理石の
衝撃の余波を受けてぱらぱらと床に舞い落ちたのは、
「静かにしろ、イセリア。いつまで騒いでいるつもりだ」
アレクシオスは眉をひそめつつ、イセリアを横目で見やる。
二人のあいだで、オルフェウスは氷の塑像みたいに端然と佇んでいる。
あのあと――。
アレクシオスとヴィサリオン、イセリアとオルフェウスは、
遠目にも分かるほどに憤慨した様子のイセリアは、何も言わずに建物に入ると、帰り道で買った駄菓子をばりばりと貪り始めたのだった。
言うまでもなく、怒りに任せたやけ食いである。
ぎっしりと
ヴィサリオンは「お茶を淹れてきます」と言って逃げるように台所に入り、室内には三人だけが残されたのだった。
猛烈な勢いで駄菓子を平らげたイセリアは、訴えるような目でアレクシオスを見据える。
「ホント許せない!! あのテルクシオペとかいう赤毛の
「また日を改めて行けばいいだろう」
「あの店には永久に出入り禁止になったわ。窓を壊したからだって……あたしはちっとも悪くないのに!!」
言うなり、イセリアは長机に突っ伏して泣き真似をしてみせる。
むろん、元老院議員のドラ息子を投げ飛ばしたことは伏せたままだ。
「そんなことより、おまえたちが出会ったその
「ふん。大したことないわよ、あんな生意気なガキ――」
イセリアは拗ねたように言って、上目遣いにアレクシオスを見る。
「思い出したらまたムカついてきた!! ねえ、そいつ、あたしにむかってなんて言ったと思う?」
「おれが知っているはずがないだろう」
「言うに事欠いておばさんだって――許せない!! 今度会ったら顔の形が変わるくらいボコボコにしてやるんだから!!」
自分が口にした言葉がいっそう怒りに油を注いだのか、満顔朱を注いだようになったイセリアから視線を外し、アレクシオスはもうひとりの少女に水を向ける。
「オルフェウス、おまえはどうだ? 何か気づいたことがあるなら、どんな些細なことでも教えてくれ」
「私はとくに……」
言いさして、亜麻色の髪の少女ははたと秀麗な顔を上げた。
「そういえば、お茶が……」
「お茶がどうした?」
「温かったはずなのに、気づいたら器のなかで凍ってたよ。その子がいなくなってすぐ――」
オルフェウスはそこで言葉を切った。
仔細を説明しようにも、それ以上のことは知らないのだ。
湯気を立てていた茶が一瞬のうちに凍結するという怪現象も、その場に
音よりも疾く駆け抜け、天空高く舞い上がり、望むままに雷撃を放つ……騎士の能力は、人智を超えた所業を可能とするのだ。
「物を凍らせる
「天井を歩いたりお茶を凍らせたり、ただの手品じゃない。そんなのちっとも怖くないわ!!」
「それが全力だったとは思えん。解せないのは、何のためにおまえたちの目の前でそんな真似をしてみせたかだ」
「そんなの、あたしたちが訊きたいくらいよ」
わずかな逡巡のあと、アレクシオスは訥々と語りはじめた。
「じつは、おまえたちが留守にしているあいだに騎士がひとりここを訪ねてきた」
「まさかあの娘が!?」
「おれのところに来たのは男だ。レオンと名乗った。おまえたちのところに現れた騎士と違って、無礼な真似も……」
アレクシオスはひと呼吸置いて、「しなかった」と付け加えた。
廃墟でレオンと手合わせをしたことを話さなかったのは、イセリアに根掘り葉掘り詮索されることを避けるためだ。
「……ともかく、同じ日の同じ時刻におれたちの前に二人の騎士が現れたということだ。偶然ではないだろうな」
「つまり、誰かがあたしたちのところにそいつらを送り込んできたってこと?」
「レオンはある人物の護衛で帝都に来たと言っていたが、それが誰かまでは聞き出せなかった。それでも、騎士を護衛につけられるということは、かなり地位の高い人間と見て間違いないだろう」
それだけ言って、アレクシオスは腕を組んだ。
互いに情報を共有したところで、疑問は氷解するどころか、かえって不可解な点が増えただけだ。
誰が、何のために、『帝国』の最高機密である
なにゆえこちらの実力を試すような真似をさせたのか。
考えれば考えるほどに謎はますます深まり、疑念の糸に絡め取られていくようであった。
「ひとまずはエウフロシュネーと双子が帰ってくるのを待つしかないな。もしかしたら、あいつらも別の騎士と出会っているかもしれない」
「今ごろ三人ともやられちゃってたりして……」
「縁起でもないことを言うんじゃない」
玄関のあたりで物音が聞こえたのはそのときだった。
戸を開く音は、快活な少女の声に変わった。
「ただいま――」
反射的に部屋を飛び出した三人と、やはり台所から顔を出したヴィサリオンは、一斉に玄関に顔を向ける。
一同の視線の先には、戸に手をかけたままぽかんと立ち尽くすラケルとレヴィ、そしてエウフロシュネーの姿があった。
「ど、どうしたの? みんな? もしかして何かあった?」
当惑した様子のエウフロシュネーの左右の肩に、ラケルとレヴィが手を置いたのは、ほとんど同時だった。
「きっと私たちがいなくて寂しかったのだろう」
「お揃いでお出迎えとは、よほど会いたかったと見えるな」
瓜二つの顔貌に、鏡写しに得意げな笑みを浮かべた双騎士にむかって、イセリアは呆れたようにため息をついた。
「そんな訳ないでしょ。二人揃って自惚れてんじゃないっての。あんたたちが帰ってこないんじゃないかって心配してただけよ」
イセリアの言葉に、エウフロシュネーは小首をかしげる。
「どういうこと? お姉ちゃん」
「どういうことって……あんたたち、外で他の騎士と出くわさなかったわけ?」
「騎士には会わなかったけど、さっきそこで……」
エウフロシュネーが言い終わるまえに、戸口にもうひとつの気配が生じた。
赤銅色の髪を揺らしながら、小柄な影は三人の間隙をすり抜けるように進み出る。
「そのことについては、私から説明します」
それだけ言って、ラフィカは軽く会釈をしたのだった。
***
「
白湯に淡く色がついただけの薄茶を啜りながら、ラフィカはしみじみと呟いた。
ラフィカのほかには、六人の騎士とヴィサリオンがぐるりと長机を囲んでいる。
やけに窮屈に感じるのは、片言隻句も聞き漏らすまいと普段以上に間隔を詰めているためだ。
オルフェウスはただひとり、我関せずとでも言うように茫洋と佇んでいる。
「さて……何からお話しましょうか?」
「まずはおれたちの前に現れた騎士についてだ。ただの偶然でないなら、誰かが仕向けたということだろう」
躊躇なく切り込んだのはアレクシオスだ。
「お察しのとおり、皆さんの前に現れた騎士は、ある人物の指揮下にあります」
「それはいったい――」
「エルゼリウス・アグリッパという名前をご存知ですか」
ラフィカの言葉を受けて、騎士たちは互いに顔を見合わせる。
アレクシオスを始め、六人の誰ひとりとしてその名前に心当たりはないようであった。
わずかな沈黙が流れたあと、ヴィサリオンはためらいがちに手を上げた。
「エルゼリウス・アグリッパといえば、北方軍管区の総司令官だったはずですが……」
「そのとおりです。さすがによくご存知ですね。では、質問ついでにもうひとつ。現在のアエミリウス朝の前の王朝が何であったか知っている方は?」
身を乗り出したのはアレクシオスだ。
「……たしか、ルクレティウス朝だったはずだ」
「正解です、アレクシオスさん。エルゼリウス・アグリッパ――またの名を、エルゼリウス・ルクレティウス・アグリッパ。その名前からも分かるように、彼はルクレティウス朝の末裔なのです。『帝国』でも皇帝家に次ぐ名門中の名門と言っていいでしょうね」
「ちょっと待て。その名門生まれの軍司令官が、なぜ騎士をおれたちのところに送り込んでくる?」
「まあまあ――話は最後まで聞くものです」
ラフィカは薄茶をひと口含むと、ちらと一同に視線を巡らせる。
こくりと茶を嚥下すると、至ってのんきな調子で語り始めたのだった。
「
「まさか、パトリキウスのように戎装騎士を謀反の道具に……!?」
「いいえ。彼は陛下への釈明のために自発的に帝都に出頭してきました。皆さんが出会った騎士たちは、道中の護衛のために北方辺境から同行してきたにすぎません」
拍子抜けした様子の騎士たちをよそに、ラフィカはなおも続ける。
「道中の警護役ということは、目的地である帝都に到着すればお役御免ということです。たぶん帝都見物ついでに、おなじ騎士である皆さんに挨拶しておきたかったのでしょうねえ」
「あれが挨拶!? 冗談じゃないわ!! あのチビ、あたしのことをおばさん呼ばわりしたのよ!!」
「私に文句を言われてもお門違いですよ、イセリアさん。私から皆さんにお伝えするのは以上です。くれぐれも街中で喧嘩騒ぎなど起こさないでくださいね? 皆さんの噂は皇帝陛下のお耳にすぐ届きますから」
音もなく席を立とうとしたラフィカを、アレクシオスがすばやく制した。
「それだけか?」
「と、言いますと――」
「おまえは皇帝陛下の命令でしか動かないはずだ。それを伝えるためだけに、わざわざおれたちのところに来たとは思えん」
ラフィカは慌てた風もなく、ふっと息を吐く。
そして、あらためてアレクシオスを見据えると、
「じつは陛下からちょっとした使い走りを頼まれておりまして。
例のごとく飄然と言いのけたのだった。
「ああ、言い忘れるところでした。エルゼリウス・アグリッパは明日登城し、皇帝陛下に謁見する予定です」
「ならば、おれたちも城に……」
「いいえ――皆さんはここで待機するようにとの御下知を陛下より預かっています。くれぐれも、必要のないかぎり動かないようにと念を押されていましたよ」
訝しげな視線を向ける一同に、ラフィカは意味深な微笑を浮かべてみせる。
騎士たちが何かを口にするまえに、小柄な背中ははやばやと室内から消え失せていた。
イセリアはため息をつくと、アレクシオスを軽く肘で小突く。
「あいつらの正体が分かったのはいいけど、なーんか腑に落ちないわね。アレクシオスもそう思わない?」
「腑に落ちようと落ちなかろうと、命令には従うまでだ。ただ……」
「ただ?」
必要のないかぎり動くな――。
それは、裏を返せば、必要とあらば動けということだ。
むろん、絶対の至尊者である皇帝の命令を手前勝手に解釈する自由は何人にもない。
どのような内容であろうと額面通りに理解し、愚直に遵守する。それこそが官吏の務めであり、どのような場合も逸脱することは許されないのだ。
それでも、いったん芽生えた黒い予感は、アレクシオスの胸を一向に立ち去ろうとはしなかった。
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