第180話 陰謀、動く
帝都イストザントきっての高級住宅街・イドラギア街区の片隅に、その屋敷はひっそりと佇んでいる。
風変わりな屋敷である。
趣向を凝らした大豪邸が立ち並ぶ街区にあって、屋敷の外観はいかにも地味で飾り気がなく、邸宅というよりは軍事施設のような
屋根も壁も黒と灰色のモノトーンに塗られているために、近隣住民からはもっぱら黒屋敷と呼ばれている。
普段は出入りする人もいないこの屋敷こそ、北方軍管区司令官エルゼリウス・ルクレティウス・アグリッパの居館であった。
もともとはエルゼリウスの父であるレーレビウスが帝都における仮住まいとして建設したものだ。
代々軍の要職を歴任してきたアグリッパ家には、諸事において質実剛健を何よりも尊ぶ一方で、華美贅沢を憎むこと甚だしいという独特の家風がある。
およそ大貴族らしからぬ徹底した吝嗇ぶりは、いずれルクレティウス朝を再興する日のために、すこしでも多くの財産を子孫に遺すためでもあった。
父祖のたゆまぬ努力の甲斐あって、エルゼリウスの手元には、いまや『帝国』の年度予算にも匹敵するほどの財産がある。
いや――正確には、あったと言うべきだろう。
上洛までのわずか数週間のあいだに、エルゼリウスの財産はあきらかに目減りしていた。
身も蓋もない表現を用いるなら、エルゼリウスは国家の管轄下にある騎士を金によって買い入れたのである。
桁外れの巨費を投じた工作の甲斐あって、帝都に出立するまでにどうにか選りすぐりの三騎士を手元に招き寄せることが出来た。
本来不法行為であるはずの
事なかれ主義に染まりきった官吏たちは、万が一にも自分に累が及ぶことを恐れた。そうした心理は、各州の高官においてもさほど変わるところはない。
どこで、誰が、どのようにして辻褄を合わせたのか。気づいたときには、三人の騎士はエルゼリウスの帝都行きに正式に随行するという体裁が出来上がっていた。
いわく、辺境ではいまだ東方人の反乱の余燼冷めやらず、軍司令官を安全に移動させるためには戎装騎士の随伴が不可欠である――と。
『帝国』の行政と司法は、きわめて厳格な文書主義に則っている。
裏を返せば、ひとたび正式な手続きが行われたならば、もはや何人もその内容に
ただひとりの例外、絶対の
エルゼリウスという人物は、不思議な幸運を持ち合わせている。
戎装騎士を伴って帝都に入ったことについて、いまのところ皇帝からは何の問い合わせも来ていない。
いくら手続きを整えたとはいえ、国家の財産である騎士を私的に動員したことを咎められるのではないかと戦々恐々としていたエルゼリウスは、かえって不気味さを覚えるほどであった。
とまれ、エルゼリウスと三人の騎士は、大過なく帝都イストザントに到着した。
今回の都入りの目的である皇帝への拝謁を明日に控え、黒い屋敷はしんと静まり返っている。
***
「どうだ、帝都の騎士は?」
長椅子に腰掛けたジェルベールは、底冷えのする声で問うた。
屋敷の最奥部に設けられた一室である。
四面に窓はなく、出入り口はひとつしかない。
この部屋で交わした会話が外部に漏れる心配はまずないはずだった。
金髪の少年と、赤髪の少女であった。
「こっちは期待はずれもいいとこ。あんなボケーッとしたのが最強の騎士だなんて、正直ガッカリね。まあ、顔だけはよかったけど……顔だけは、ねえ?」
テルクシオペは赤髪を手ぐしで整えつつ、退屈そうにあくびをひとつ放つ。
「ああ、そうそう。オルフェウスともうひとりウルサイのがいたけど、そいつもてんで鈍くさくて話になんない。っていうか、あいつらがヘラクレイオスを殺したって本当? 何かの間違いなんじゃないの。それか、最強のヘラクレイオスも噂ほどじゃなかったってこと――」
自分の言葉が笑壺に入ったのか、テルクシオペはけたけたと無邪気な笑い声を上げる。
笑い声も消えぬ間に、卓上の盆から砂糖菓子を無造作に掴み取ると、鋭い歯でばりばりと音を立てて噛み砕いたのだった。
「レオンはどうだ?」
ジェルベールは表情ひとつ変えず、テルクシオペの隣に座った少年に視線を向ける。
レオンはわずかに俯くと、ぽつりと呟いた。
「強い人でした。僕は手も足も出なかった……」
「手の内をすべて明かしたのか」
「いえ、あれは使いませんでした」
「切り札を伏せたのは賢明だ。もし使っていれば勝てたはずだな?」
「それは……」
言葉を濁したレオンに、ジェルベールは失望したように頭を振る。
「……まあいい。おまえたちの役目は、エルゼリウス閣下をあらゆる危険からお守りすることだ。もし閣下の身に何事かあったときは、他の
「そのようなことがありえるのでしょうか――」
「ここは敵地と思えと言ったはずだ。エルゼリウス閣下はまことの憂国の志士だが、それゆえに敵も多い。卑劣な敵は戎装騎士を刺客として差し向けてくるかもしれん」
ジェルベールの言葉に、レオンはちいさく頷いただけだ。
北方辺境の兵営からだしぬけに連れ出され、ここまでの道中、ほとんど何の説明もないままに連れ回されてきた。
帝都に到着するなり、レオンは単身で
やはり釈然としない思いはあったが、仲間の仇を取ってくれた騎士アレクシオスと対面出来る嬉しさは、少年の胸中にわだかまった疑念と不満をかき消すのに十分だった。
「もちろん使命は果たします。――でも、僕が手合わせをしたあの人は、間違ったことをするような人にはとても見えませんでした。もしエルゼリウス閣下の身に危険が迫っても、あの人はきっと僕たちの味方を……」
「貴様の意見など聞いてはいない」
ジェルベールは片眉を釣り上げると、いかにも不機嫌そうに吐き捨てた。
「その者の心根が善良であろうとなかろうと、命令が下れば従わざるを得まい。
「しかし……」
「有事の際におまえたちが迷えば、それだけエルゼリウス閣下が危険に晒される。引いては『帝国』の未来にも関わることだ」
ジェルベールが言い終わるが早いか、テルクシオペは不敵な笑みを浮かべながら、レオンの脇腹を肘で小突いていた。
「もしかして戦うのが怖いんじゃない? レオンくんはさぁ」
「そんなことはない……」
「ま、それも無理ないか。頼りにしてたお兄さんとお姉さんはみんな死んじゃったもんねえ? 知ってるよぉ。四人そろってヘラクレイオスに殺されちゃって……」
テルクシオペはそこで言葉を切った。
自分の意志で話を打ち切った訳ではない。
そこから先の言葉は、どうしても唇を出ていこうとしなかったのだ。
レオンのあどけない顔を染めたのは、凄絶なまでの鬼気であった。
「な、何さ――」
「僕のことは好きに言えばいい。だけど、あの人たちを悪く言うのは許さない」
少年と少女のあいだに奔騰した剣呑な気を察して、ジェルベールが腰を上げようとしたそのときだった。
「待たせたな、諸君!!」
開いた扉の向こうから飛び込んできたのは、場違いなほどに能天気な声。
ゆたかな金髪を指で梳かしながら、美麗な貴公子は足取りも軽やかに部屋の中心に躍り出る。
「エルゼリウス閣下――」
うやうやしく頭を垂れたのはジェルベールだけだ。
レオンとテルクシオペはあっけにとられたみたいにエルゼリウスを見つめている。
そんな二人に気づいているのかいないのか、エルゼリウスは
「まったく、中央軍の将軍たちにも困ったものだ。よほど私の到着を心待ちにしていたらしい。おかげでこんな時間まで引き止められてしまった」
「では、閣下……」
「うむ――話はついた。我らの心はひとつということだ」
エルゼリウスは感極まったように拳を握りしめると、一同に見せつけるように高々と突き上げてみせる。
「いよいよ明日だ。私は
「閣下、お声が大きうございます……」
「ふふ、よいではないかジェルベール。いまさら盗み聞きを恐れるとはおまえらしくもない」
「お言葉ですが、閣下。この者たちに余計なことをお話しになるのは得策ではありませぬ。くれぐれも秘して頂かねば……」
「ふむ? そういうものであるか」
エルゼリウスはあっけらかんと言うと、空いていた椅子に悠然と腰を下ろす。
そして、やおら右手を掲げると、
「苦しうないぞ。遠慮せず入ってくるがよい」
半ば開いたままの扉にむかって呼びかけたのだった。
ややあって、扉の隙間をすり抜けるように室内にしずしずと進み出たのは、ひとりの西方人の女だ。
年の頃は、
くるぶしを隠すほどの
新雪にもまさろうかという白皙の
さらに付け加えるなら――かなりの長身である。
上背は男性であるエルゼリウスとほとんど変わらないだろう。それでいて威圧感とはまるで無縁なのは、すらりと伸びた均整の取れた四肢と、たおやかな佇まいの賜物だ。
遠目に見つめているだけで身体の芯からじわりと冷えていくような、不思議な雰囲気をまとった美女であった。
「失礼します――」
女は一揖すると、エルゼリウスに招かれるまま彼の隣に着席する。
「これで我が頼みとする三騎士が揃ったという訳だ。壮観だな、ジェルベール?」
「は……」
「もっと楽しそうな顔をしろ。この者たちがいれば何の心配もないのだ」
「帝都の騎士を侮るのは危険です。我らは生命に代えても閣下をお守りする所存ですが、くれぐれもご用心をなさっていただかねば困ります」
「そのようなこと、わざわざ言われるまでもない」
咎められたことがよほど面白くなかったのだろう。
エルゼリウスはジェルベールからついと顔をそらすと、
「もし仮に帝都じゅうの戎装騎士が敵に回ったとしても、おまえたちは私を守り通してくれるな?」
三人の騎士にゆるゆると視線を巡らせる。
「はあ、まあ――」
「もちろんです。それが僕たちの使命ですから」
けだるげなテルクシオペと、意気込みにあふれたレオン。
対照的な二人の返事からやや遅れて、女の薄紅色の唇が言葉を紡いだ。
「私たちが最も警戒すべきは三人。皇帝直属の騎士であるアグライアとタレイアの姉妹――そして、オルフェウス」
「ふうん? オルフェウスはそんな強そうには見えなかったけど?」
「いいえ――テルクシオペ。もし彼女が本気を出していたなら、あなたはいまごろ生きてはいません」
自分の実力を低く見積もられたのがよほど癇に障ったのか、憮然と顔を背けたテルクシオペにはもはや取り合わず、女はエルゼリウスに涼やかな目を向ける。
「……エルゼリウス様。ジェルベール様の言うとおり、油断は大敵です」
「もしそやつらが敵の手先となったならば、私を守り切る自信はないと言うのだな?」
「いいえ。そのようなことは一言も申しておりません」
どこか冷ややかだった女の顔に、ふいに激しい感情が兆した。
氷原の裂け目から突如として溶岩が噴き出したような、それは意外な情動の表出であった。
女が発する言外の迫力に圧倒されたのか、エルゼリウスは椅子からずり落ちかかってさえいる。
「ご安心を――このセラスがいるかぎり、たとえ三騎が揃って敵に回ったとしてもあなた様には指一本触れさせはしません」
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